この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

山下清原画展を観て思ったこと。

2009-11-24 21:36:31 | 旅行
 湯布院では山下清原画展を観に行きました。
 そこで思ったことを徒然に書きます。

 実は自分は山下清がそれほど好きではありません。
 なぜ好きじゃないか、理由はいくつかありますが、最終的には感性の問題だと思います。
 ぶっちゃけ彼の絵を観ても、心に響くものがないんですよね。

 などと書くと熱烈な山下清ファンからお叱りの言葉を受けそうですが、まぁ世の中星の数ほど芸術家はいて、そのうち誰の作品に感動して、誰の作品に感動しないかはまったくの自由だと思うので、そこら辺のことは勘弁して下さい。

 さて、誤解を恐れずに言えば、山下清がこれほどまでに日本人に愛されるようになったのは、彼の絵の才能やキャラクターと同時に、画家山下清をプロデュースする、宣伝の上手さもあったと思うのです。

 例えば、山下清はよく「日本のゴッホ」と称されます。
 しかし、自分が見る限り、山下清とフィンセント・ファン・ゴッホの間に共通項なんてありません。
 山下清は主に貼り絵を描きます。一方ゴッホは言うまでもなく油絵画家です。
 山下清は生きている間に売れっ子画家になりました。一方ゴッホは生きている間、一枚しか絵は売れませんでした。
 そして何よりの違いは作品から受ける印象ですよね。
 山下清の作品からは彼の純真で朴訥な人柄が窺えます。
 一方ゴッホの作品から感じられるのは何より彼の狂気です。ゴッホの絵を見ていると、あぁ、コイツはまともじゃないな、そう思えます。
 
 まったくの想像なのですが、山下清のことを最初に「日本のゴッホ」と称した人間は、彼を売り出すためにもっともキャッチーな異名を考えていて、日本で有名な画家といえばやっぱりピカソだよな、「日本のピカソ」というのはどうだろう、あ、いや、ピカソはまだ生きてるから問題があるか、じゃあ「日本のゴッホ」にしよう、なんてことを考えたのでは、と思ったりします(彼がそう呼ばれるようになった逸話をご存知の方は教えて下さい)。
 まぁ穿った見方かもしれませんが、ともかく、何から何までまったく異なる二人であるのは間違いないと思います。

 けれど結果として、まったく的を射ていないその異名は広く定着することとなりました。
 今でも「日本のゴッホ」といえば、山下清のことを思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。
 そういうことも含めて、山下清を売り出した人たちは、プロデュースが上手いよなぁと思うのです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする