9月7日の朝日新聞の朝刊に興味深い記事が載っていました。
朝日新聞の文芸時評に掲載された桜庭一樹氏の自伝的小説『少女を埋める』の評論において(作品は未読)、評者が自らあらすじを書いたところ、作者の桜庭氏から「そのような内容ではない」というクレームがついた、というのです。
これは非常に珍しいケースと言えます。
まぁ腐っても天下の朝日新聞ですから、そこで評論されること自体(どういった内容の評論であれ)非常に名誉なことなんですよ。
そこで作者がクレームをつけるなんて話はちょっと聞いたことがないです(自分が知らないだけで過去にも同様のことがあったのかもしれませんが)。
今回の件は作品が自伝的な小説であり、やむを得ない事情があったために桜庭氏もクレームをつけたようです。
自分はことあるごとに解釈は自由ではない、と主張してきました。
しかし残念ながらその考えに賛同してくれる人はいません。
ほとんどの人が解釈は人それぞれであり、その作品をどう解釈するかはその人の自由だ、と考えているようです。
自分も別に自分の考えを強制するつもりはありません。
解釈は自由であるという考えは間違っていると思いますが、しかしそのように考える人が人として欠陥があると思っているわけではないですから。
ただ、作者自らに間違いを指摘されて、なお誤りを認めない、というのは如何なものかと思います。
ムンクの『叫び』という絵画を見たことがない、という人はおそらくいないのではないでしょうか。
では問題です。
ムンクの『叫び』で描かれている人は何と叫んでいるのでしょうか?
この作品の知名度に比べ、そのことを知っている人は意外と少ないように思えます。
答えは「叫んでいない」です。
何と叫んでいるかという問題の答えが「叫んでいない」というのは意地悪なように思えますが、それはさておき、『叫び』で描かれている人が叫んでいないというのは本当のことです。
それがわかるのは作者であるムンク自身が創作メモを残しているからです(詳しくはこちら)。
仮に『叫び』を観た百人のうち百人が『叫び』で描かれている人が叫んでいるように受け取ったとしても、作者であるムンク自身がそれを否定するのであれば、我々はその意図に抗うすべはないのです。
もちろんすべての作品に創作メモが残されているわけではありません。
また解釈そのものを拒むような難解な作品も多いです。
しかしだからといって解釈が自由だということにはなりません。
我々が作品に対峙したとき、その作品を理解するために重要なのは、作者がその作品にどのような想いを込めたのか読み取ることです。
それは決して読み取る側が自由にやってよいことではないのです。
話を『少女を埋める』の評論に戻すと、桜庭氏も評者のあらすじを否定している割には、何だか煮え切れない態度であるように思えました。
桜庭氏はこう書いているのです。
小説の読み方は読者の自由である、と。
小説をどう読むのか、すべて読者の自由であるならば、その作品をどう要約するのか、どのようにあらすじをまとめるのかも読者の自由ではないでしょうか。
解釈は自由であるがあらすじは自由ではない、というのは主張に一貫性がないように自分には思えました。
解釈は自由ではないというとずいぶんと堅苦しいことを言っているな、と思われるかもしれません。
そんなことはないんですよ。
今日初めてムンクの『叫び』が叫んでいないということを知った人はこの作品のことをもっと知りたくなったのではありませんか?
正しく解釈することはその作品をより深く楽しむことに繋がるのです。
朝日新聞の文芸時評に掲載された桜庭一樹氏の自伝的小説『少女を埋める』の評論において(作品は未読)、評者が自らあらすじを書いたところ、作者の桜庭氏から「そのような内容ではない」というクレームがついた、というのです。
これは非常に珍しいケースと言えます。
まぁ腐っても天下の朝日新聞ですから、そこで評論されること自体(どういった内容の評論であれ)非常に名誉なことなんですよ。
そこで作者がクレームをつけるなんて話はちょっと聞いたことがないです(自分が知らないだけで過去にも同様のことがあったのかもしれませんが)。
今回の件は作品が自伝的な小説であり、やむを得ない事情があったために桜庭氏もクレームをつけたようです。
自分はことあるごとに解釈は自由ではない、と主張してきました。
しかし残念ながらその考えに賛同してくれる人はいません。
ほとんどの人が解釈は人それぞれであり、その作品をどう解釈するかはその人の自由だ、と考えているようです。
自分も別に自分の考えを強制するつもりはありません。
解釈は自由であるという考えは間違っていると思いますが、しかしそのように考える人が人として欠陥があると思っているわけではないですから。
ただ、作者自らに間違いを指摘されて、なお誤りを認めない、というのは如何なものかと思います。
ムンクの『叫び』という絵画を見たことがない、という人はおそらくいないのではないでしょうか。
では問題です。
ムンクの『叫び』で描かれている人は何と叫んでいるのでしょうか?
この作品の知名度に比べ、そのことを知っている人は意外と少ないように思えます。
答えは「叫んでいない」です。
何と叫んでいるかという問題の答えが「叫んでいない」というのは意地悪なように思えますが、それはさておき、『叫び』で描かれている人が叫んでいないというのは本当のことです。
それがわかるのは作者であるムンク自身が創作メモを残しているからです(詳しくはこちら)。
仮に『叫び』を観た百人のうち百人が『叫び』で描かれている人が叫んでいるように受け取ったとしても、作者であるムンク自身がそれを否定するのであれば、我々はその意図に抗うすべはないのです。
もちろんすべての作品に創作メモが残されているわけではありません。
また解釈そのものを拒むような難解な作品も多いです。
しかしだからといって解釈が自由だということにはなりません。
我々が作品に対峙したとき、その作品を理解するために重要なのは、作者がその作品にどのような想いを込めたのか読み取ることです。
それは決して読み取る側が自由にやってよいことではないのです。
話を『少女を埋める』の評論に戻すと、桜庭氏も評者のあらすじを否定している割には、何だか煮え切れない態度であるように思えました。
桜庭氏はこう書いているのです。
小説の読み方は読者の自由である、と。
小説をどう読むのか、すべて読者の自由であるならば、その作品をどう要約するのか、どのようにあらすじをまとめるのかも読者の自由ではないでしょうか。
解釈は自由であるがあらすじは自由ではない、というのは主張に一貫性がないように自分には思えました。
解釈は自由ではないというとずいぶんと堅苦しいことを言っているな、と思われるかもしれません。
そんなことはないんですよ。
今日初めてムンクの『叫び』が叫んでいないということを知った人はこの作品のことをもっと知りたくなったのではありませんか?
正しく解釈することはその作品をより深く楽しむことに繋がるのです。