ミドリ色の屋根は永遠に~René Simardに首ったけ~

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ルネのデビュー50周年記念誌⑥

2021年10月10日 | ルネの活動記録

 今日は10月10日

 ルネ・ファン世代にとって、この日は『体育の日』。1964年の東京オリンピックを記念して制定された祝日でした。今年は明日11日が『スポーツの日』になるはずでしたが、1年延期された東京オリンピックとパラリンピックのために前倒しされたため、10月に祝日はありません。休みが減るのは辛いなぁ・・・と思っているシマ姉です。

 ルネとは全く関係ありませんが、去る10月5日(火)はうちのお嬢様(ミイ姐御)猫生初の朝帰りに加え、FacebookMessengerInstagram等の世界的なシステム障害のため寝不足でした★ 
 事故に遭ってやしないかと心配したり、夜中に何度もミイの秘密基地を全て点検して回ったりしている合間に、パソコンを開けばログインできず★ また寝ぼけて何かポカをやらかしたのかといろいろ調べて寝そがれました。結局、ミイは5時ごろ帰宅★ システム障害との速報を見つけて安心しましたが、岩手県沖で地震★ 厄日ですか~っ?!・・・なシマ姉でした。さらに7日(木)は関東地方で地震★ コロナの新規感染者数は減少していますが、今冬はインフルエンザとcovid-19の両方の流行が懸念されていますので、ルネ友のみなさま、今まで通りの感染予防を続けて、体調管理に努めましょうね!!


 話は変わります。デビュー50周年を迎えたルネは、メディアから引っ張り凧!! 53枚目のアルバム発売コラボ・アルバム制作、延期になっているとはいえミュージカルの計画など、これから益々忙しくなるルネから目が離せません!!

<テレビ番組出演>

 10月8日(金)21時からはICI Tou.tvGalas ComediHA! が放映されました。

 

 スタンドアップ、音楽、スケッチをミックスした、バラエティに富んだユーモアのガラで、コメディアンのフランキー、ジョシアン・オービュション、ジャン・クロード・ジェリナスに加えて、リチャードソン・ゼファー、ローラン・パキン、メリッサ・ベダール、ルネ・シマール、ドミニク・パケなど、今年のお気に入りがすべて出演しました。


 そして明日11日もTV出演がありますsymbol1 これはやはり、1か月後11月11日発売予定53枚目のアルバムの話題かしら?!・・・と思っていたら、クイズ番組でした!


 facebookのお友だちJohanne Gagnonさんから番組の画像をいただきましたsymbol1 番組名は「LE TRICHEUR ペテン師」♪ 次回の記事で改めて紹介いたします。♪Passion René Nathalie et Régis Simardでfacebookにアップしてくださった映像はこちらからどうぞsymbol1 ルネ友の皆さんもご覧いただければ幸いです♪
https://www.facebook.com/passionsimard/videos/557748685514857


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 今回は、ルネのデビュー50周年記念誌紹介の6回目、ルネのデビューにまつわるエピソードです。

※過去ログ「BON ANNIVERSAIRE!」参照
https://green.ap.teacup.com/rene_simard/95.html


TOUT sur l'enfant star
René Simard
L'IDOLE d'un PEUPLE



Star instantanee...ou presque!
     瞬間的なスター...またはほとんど!

 元気いっぱいの少年は、ごく平凡な生活を送っていました。 兄弟姉妹と同じように、彼は歌うことが大好きでした。 しかし、彼の唯一無二の声は、長い間秘密のままでいることはありませんでした。

▲右:彼はかろうじてりんご3個くらいの高さですが、もうアイドルです

 シマール家がオルレアン島のサント ペトロニーユ村に引っ越し、ジャン= ロックが小教区教会の合唱指揮者になったとき、ルネの音楽的な運命が形となりました。そこで歌っていたのはシマール家の子供たちのうち、リン、レジス、ルネの三人でした。 そこでは、小さな少年の才能が見過ごされることはありませんでした。家族はすでに、観光客から、歌うのが大好きであることを知られていました。 ますます注目されるのは若いルネであり、誰もが話題にしていました。

すべてを変えた番組

 2年後、ルネは、現在 TVA として知られている Tele-Metropole の系列局である Tele-4 Quebec のアマチュア・テレビ・コンテスト、「Les discoveries de Jen Roger ジャン=ロジェの発見」 に出場しました。 番組のコンセプトはシンプル。新しい才能を発見することでした。 1995年、レジス・シマール はこの出来事を次のように振り返っています。
 「叔母の1人が、私たちをこの番組に出場させることを提案しました。ルネは『はい』と言い、私は人前で歌いたくないので断りました。 でも、ルネが勝ったのを見て気が変わりました。 私も参加して、2人で決勝に進みました。」
 確かに、ルネは6年以上もの間、彼の美しく透き通った声で観客を魅了しました。彼は簡単にコンテストで勝利を収めました。この番組のおかげで、その後の数か月の間に、彼のためにすべてが始まり、少年のキャリアは予期せぬ方向に向かうのです。


▲ルネとレジス ショーで:有名なデュオ

ギィ・クルティエとの出会い

 この番組は大衆に大変人気がありました。これにより、勝者はレアル ジゲールが主催するプログラムである番組「Madame est servie」に出演することができました。 「Agadou Dou Dou」の成功で知られていた歌手、パトリック・ザべも、ルネの出演中にその番組に招待されていました。彼はルネに感銘を受け、ルネに、マネージャーのギィ・クルティエの結婚式で歌うことを提案しました [別バージョンの話では、ギィ・クルティエの母親が、息子の結婚式にルネを雇うことを提案したとされています]。クルティエは当時、レコード会社を立ち上げたばかりのマネージャーとして注目されていました。とりわけ、彼はジョニー・ファラゴのキャリアを管理していました。彼はシマール家の子どもの声を聞いて、この才能を見過ごすわけにはいかないことを理解したのでした。彼はすぐに父親のジャン・ロックに連絡し、息子のキャリアを変えたいと説明しました。その後すぐに、クルティエはルネの父親と契約を結び、若い歌手を手中に収めたのでした。

▲左:「パトリック・ザべの発見:ルネ・シマール」の記事
 右:クルティエ氏の結婚式の記事 招待されて歌ったルネの後ろに、向かって左から新郎クルティエ氏と新婦、ザべ氏とその妻


Les paroles de la chanson “L’oiseau” sont sur toute les levres:<Je connais, la brume Claire…>
「L'oiseau」の歌詞はみんなの唇にある:「僕は知っている、澄んだ霧...」


▲彼はいくつかのアルバムを次々とリリースしました

伝説のアルバム

 1971年、ルネは最初のアルバムを録音しました。このアルバムは、現在でもコレクター ズ・アイテムとして中古店で販売されています。 曲の 1 つである ”L’oiseau”は大成功を収めました。 みんなが歌詞を口ずさむ「僕は知っている、澄んだ霧…」。それ以降、ケベック州全体で、ルネ・シマールが誰であるかを知ることになりました。 彼はすべてのテレビに招待され、そこでそのヒット曲を歌いました。 インタビューの中で、少年は生き生きとしていて、ユーモアにあふれており、ケベックの人々だけでなくカナダの人々も彼の魔法にかかってしまいました。 また、ルネは付き添い無しで街を歩けなくなりました。 彼はわずか数週間でスターになったのです。

▲デビュー25周年記念CD集のカナダのアルバム

▲ルネの全曲集「GOLDEN☆BEST limitedルネ・シマール」の小冊子より 日本でリリースされたシングルとLPレコード

やむを得ない引っ越し

 ルネが全国的に知られるようになった今、彼の家庭生活は名ばかりのものに他なりませんでした。 観光客でいっぱいの車やバスが家の前に停車し、彼に会うことを要求したのです。 落胆した家族の父親は、家を囲む高さ 8 フィート(約2m40㎝)のフェンスが、覗き見に耐えられないため、オルレアン島を離れることを決断しなければなりませんでした。 観光客らがルネの母親をキッチンの中まで追い回したのです。彼らは地面の石ころから小石を持ち帰りました。 学校では、若い歌手は時々クラスメートと喧嘩をしていました。 彼は億万長者であることを非難されていたのです。お金が流れるのは事実でした。当時、ギィ・クルティエのオフィスは次のように付け加えています。
 「ルネに肌着(リネン)を買いに行くときは特別でした。 私たちは値段を見る必要がありませんでした。 彼は他と同じような子供ではありません。私たちは彼のために必要なものすべてを購入することが出来ました。」
 彼のステージ衣装はイヴォン・デュエーヌが作ったもので、合計で約9,000ドルしました。



▲デビュー25周年記念銀組より"J'ai mon voyage"22分40秒~ 
 "René Simard au Japon"5分55秒~

初の瞬間的なスター?

 今日、La VoixStar Academieのような番組に出演しているアーティストたちが、すぐに成功を収めていることを考えると、同じことがルネにも言えました。 唯一の違いは、現時点でこの若者には、定期的に何百万人もの視聴者に紹介される機会がなかったということです。 それでも、2年も経たないうちに、le p'tit Simard(シマール家の子ども)はケベック州において正真正銘のスターとなり、彼の名声はすぐに国境を越えました。 私たちの記憶をくまなく探しても、彼ほど早くランクアップした歌のアーティストは見つかりませんでした。


▲セミ・ドキュメンタリー映画”Un Enfant Comme Les Autres 普通の子供(日本公開時『ルネ・オン・メロディ』)

▲映画”J'ai mon voyage”

▲ルネの日本での活躍を記録した映画”René Simard au Japon”公開劇場とポスター(Rassion Simardより)


<le Journal de Montrealの記事からの追記>
  L’oiseauは、オルレアン島のサント・ペトロニーユで育ったこのシクーティミ出身の子どもにとって、20万枚を売り上げたアルバムがすべての始まりでした。
 「私のキャリアが始まったのは、しゃれを意図したものではなく、このレコードでした。そしてそれが私のお気に入りのアルバムの1つである理由です。それは私にとって魔法の時間のようでした。それが私が覚えていることです。」と彼はインタビューで言いました。
 ギィ・クルティエは1971年7月17日にルネ・シマールを発見しました。ケベックでのテレビ番組で若い歌手を見たパトリック・ザベは、サン・レオナールでのマネージャーの結婚式で、シューベルトのアヴェ・マリアを歌うように子どもを招待しました。
 「新婚旅行の翌日、彼はキャデラックと大きなジュエリーを持って私たちのところにやって来ました。」とルネは笑いながら回想しました。
 ルネ・シマールは、1971年の夏にモントリオールのRCAビクタースタジオに到着し、L'oiseauの10曲を録音したとき、10歳でした。
 「私たちは曲を1回テイクするだけで、それを3時間で実現しました。まったく感動しませんでした。私は幸せだった。」と彼は言いました。このレコードの録音に関連する記憶は明確で正確です。ルネは、サント・カトリーヌ通りのジョークとトリックの店で、兄のレジスと一緒に購入した壊れやすい小さなガラス瓶を覚えています。
 「私たちはガラス瓶を壊しました、そしてそれは人々を嘆かせました。そのことによって、レコーディング・セッションを1時間停止しなければならなかったからです。」と彼は50年後、彼の一撃(クーデター?)をまだ誇りに思っていると語りました。
 島の「子供」は、ラジオで、L'oiseauを聞いて感動しませんでした。10歳の時、彼はすでに数年の歌の経験を持っていたと言わなければなりません。 歌はシマール家に遍在していました。建築家になることを夢見ていた少年は、学校、教会、母の日、洗礼式で歌いました。
 「私たちは島のトラップ・ファミリー(※)でした。 Le Duc d´Orléansのボートは、毎週日曜日にサント・ペトロニーユに観光客を連れて来ました。家族全員が2階に座って、彼らのために歌いました。ラジオで自分の声を聞くのは特別なことでしたが、それは私を感動させるものではありませんでした。それはまた、どこか若者の無謀さでもありました。」と彼は言いました。


※ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ・ファミリー合唱団のこと。


ジャン・ロジェの発見(1969)
 シューベルトの「アヴェ・マリア」で、CFCM(Télé-4)のショー「ジャン・ロジェの発見Les Découvertes de Jen Roger」の決勝に進出した後、彼は「雨にぬれても」で10代の部のコンテストで優勝しました。

ギィ・クルティエが彼を見つけた
 パトリック・ザベはマネージャーのギィ・クルティエに贈り物をしました。 彼は、1971年7月17日にサン・レオナールで行われた結婚式で、ルネ・シマールに歌うように勧めました。 ギィ・クルティエは、シューベルトのアヴェ・マリアの演奏中に誰が歌っているのかを見るために向きを変えました。 新婚旅行から戻ったとき、彼はルネ・シマールのところに到着し、マネージャーになることを提案しました。

L’Oiseauの発売
 日付は不正確ですが、彼のキャリアがシングルとアルバムL’Oiseauの発売で始まったのは1971年8月でした。

クリスマスアルバム
 L’Oiseauの数か月後の1971年10月、ルネ・シマールはクリスマス・アルバム「アヴェ・マリア」を発売しました。 シューベルトの「アヴェ・マリア」、「ママがサンタにキッスした」、プティ・パパ・ノエル」、「ジングルベル」、「さやかに星はきらめき」他、ホリデーシーズンの名作が収録されています。

芸術劇場で会場は満員
 1972年1月22日と23日、ルネ・シマールはPlace des Arts芸術劇場のSalle Wilfrid-Pelletierウィルフリッドゥ・ペルティエ公会堂で、チケットが完売した3つのショーを行いました。 彼は全く感動していませんでした。
 「誰もが常識外れに大規模なものだと言っていました。 私が客席を見たとき、私の4フィート9インチの身長からは、それがどれほど大きいのか分かりませんでした。 客席の裏側が見えましたが、私にとってはそれほど大きくはありませんでした。」と彼は言いました。




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 いかがでしたか? 日本ではほとんど紹介されてこなかったデビュー前後のルネや家族のことが語られていましたね。

 ルネのオルレアン島の『船長の家』には、たくさんのファンが押し寄せたことは知っていましたが、ルネの母ガブリエルを追い回したり、家の周りの石を拾って帰っていたというエピソードには驚かされました。何か記念になるものが欲しいファン心理は理解できます。私もカナダ旅行でケベックに行ったとき、オプショナルツアーでオルレアン島に行き、『船長の家』を写真に収めてきましたからね! 甲子園大会の高校球児がグランドの砂を持ち帰るような感覚? 海できれいな貝殻を記念に拾って帰るのとはまた違うと思いますが、それだけルネの人気がすごかったということでしょう。日本では、一夜にしてルネ・ブームを巻き起こしたのですから!!

 日本で紹介された記事では、彼がミリオネア(億万長者)であることよりはむしろ、家族思いの13歳の普通の少年であることや、貧しい生活にも負けず、コンテストで優勝してスターになったサクセスストーリーが強調されていたように思います。


 月刊明星1974年10月号に掲載された特別記事では、『週末家族と出かけ、1ドルのお小遣いを持ってお買い物を楽しんでいる(上画像左下)』というようなことが書かれていましたが、デビューしてからルネが一人で出歩くことが出来なくなっていたことが、この記念誌に書かれていました。さらにその記事の取材が行われた家(上画像右)は、オルレアン島の『船長の家』ではなく、シマール家の家でもないと、ジゼルさんたちから聞いていました。確かに、『中二時代』に載った、第3回東京音楽祭世界大会グランプリ受賞の記事に、「母ガブリエルの故郷モントリオールに大きな家を建てた」と書かれており、『白い家』と『船長の家』以外にオルレアン島にはシマール一家の家は無いと、ジゼルさんたちが証言していました。

 さらにJournal de Montrealの「50 ans de divertissement: la fabuleuse histoire du p’tit Simard 50年のエンターテインメント:p’titSimardのすばらしい物語」では、「デビュー曲”L'oiseau 鳥”の成功により、シャルルブールの宿泊施設に引っ越していたシマール家はオルレアン島に戻ることができました。アルバムの売り上げから得られた利益で、ルネは家族のためにブー・ドゥ・リル通りあるプラントゥ船長の家を購入しました。」とありました。
※ シャルルブールの宿泊施設は、亡き父ジャン=ロック・シマール氏の著書では、「ケベックシティのサビニエール・ドリオン通りのアパートの地下の4部屋」と書かれています。


 また、初来日の頃、ルネは既に学校に通えていなかったそうです。学校でバスケットボール・クラブに入ったという記事も、日本の取材のために設定されたもののようです。日本では紹介されていないことが、このデビュー50周年記念誌で分かることでしょう。ずっと後回しにしているデビュー25周年記念誌についても、最初からきちんと翻訳せねば!・・・と強く思うシマ姉です。

 ルネの家については過去ログで何度も取り上げていますので、カテゴリ『ルネの家でお読みください。
https://green.ap.teacup.com/applet/rene_simard/msgcate13/archive

 話は変わりますが、本文中の”En effet, du haut de ses six ans”で悩みました。直訳は「彼の6年間の上から」なのですが、シマール一家がオルレアン島に転居した1968年8月以降、家族で歌を歌って『歌う家族』と呼ばれるようになり、1970年に『ジャン・ロジェの発見』で優勝してから、ルネが変声期を迎えたであろう1975年後半まで約6年強。ルネが美しく透き通った「天使の声」で観客を魅了した年月と一致します。そこで、「ルネは6年以上もの間」と訳しましたが、ルネ友のみなさまはどう思われますか?

 次回は、ルネのデビュー以降のエピソードです。楽しいエピソードばかりというわけではありませんが、翻訳して当時のことが分かるのが嬉しくて仕方ありません。思ったより早いペースで記事作成(予約投稿)が進んでいますよ♪ (実はこの記事の予約投稿は6月4日★ 近況は追記)


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