ミドリ色の屋根は永遠に~René Simardに首ったけ~

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ルネのデビュー50周年記念誌②

2021年09月12日 | ルネの活動記録

 ルネのデビュー50周年記念誌紹介の2回目です。

 ちなみに、今から46年前の1975年9月14日と15日は、ルネのファースト・コンサート東京公演の日でした。


 そして、9月9日の”Échos Vedettes”に掲載された記事で、ルネの53枚目のアルバムの発売11月11日に決定したことが発表されました!!

 今年は、彼のデビューアルバムL’oiseauから50周年を迎えるにあたり、ルネ・シマールは今秋、53回目の発売を予定しています。 2月に60歳の誕生日を迎えた歌手にとって、今年はお祝いの年です。 このレコードで、彼の人生の新しい章に入る多才なアーティストは、私たちのために何を用意しているのでしょうか? 私たちはしばしば、私たちを驚かせることができた誰かから、何でも期待することができます...そして私たちはこの新しい作品を発見することを待つことができません! 発売日:11月11日

 以前10月発売とお知らせしておりましたが、ちょっと遅れても発売日が決定してワクワクですsymbol1 今回も日本のAmazonで取り扱われることを期待しましょう!


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 今回のデビュー50周年記念誌の内容は、ルネの子供時代のエピソードになります。

 私はルネがデビュー前の幼少時に病気で入院したことを、知人から聞いて知っていました。でも、記事で読んだのはこれが初めてです。また、デビュー前に貧しい生活を送っていたことは周知のことですが、父ジャン=ロック氏が喘息を発症して働けなくなったことが原因だったと、ずっと思っていました。

 しかし、ルネのセミ・ドキュメンタリー映画”Un Enfant Comme Les Autres 普通の子供(日本公開時は『ルネ・オン・メロディ』)”
等でも、そのことについてはほとんど描かれていませんでしたし、ルネのデビュー25周年記念CD集の小冊子や記念誌で紹介された経歴でも書かれていませんでした。そしてアルコール依存症だったこともです。

 こちらは、ケイブンシャのニュー・ソング・ブック臨時増刊号「スーパーアイドル ルネの特集記事「ルネ・シマール物語」の中からの抜粋です。『パパの病気』に書かれていることが、デビュー前のシマール家が生活に困窮した原因だと、ずっと思い続けてきた情報のもととなっています。


 「パパが病気になったのは、ルネが7才の時でした。パパの病気はぜんそくでした。現在は良くなったものの、その頃はひんぱんに起きる発作のため、ほとんど働くことはできない状態でした。このため、もちろん一家の生活は苦しいものになり、まず、それまで借りていた、大きな二階建ての家から、ケベック市内の小さなアパートの地下の4部屋に移りました。姉さんたちも働きに出ました。でも、何と言っても食べざかりの子供が7人。国からの保助や、姉さんたちの仕事だけでは食べるだけがせいぜいです。」

▲料理の仕事中のパパ(左)と両親の結婚式の写真(右)

 ルネが生まれたのはシクーティミのサグネィで、その後ケベックシティのオルレアン島セント・ペテロニーユ村に転居したのは、父ジャン=ロック氏の仕事の関係だったことや、様々な職場でコックの仕事に就いていたこと等が記念誌によって分かりました。
 月刊明星1974年10月号に掲載された『まんが履歴書』では、『製材会社のコックさん』と書かれており、ファン・クラブ「メープル・メイツ」の会報№1に掲載された『ルネ・物語』では、『父親のシマールはもともと材木労働場のコックをしていて、少ない収入をおぎなおうと家にいる時は必ず近くの教会の聖歌隊のリーダーをつとめた。』と書かれていました。それらの記事については、カテゴリ『ルネ・シマール物語』で過去ログをお読みください。

 また、父ジャン=ロック氏の著書”Au-Dela Du Silenceの年代記によると、シマール一家がオルレアン島に引越したのは1968年8月。その1年後の1969年7月7日に妹ナタリーが誕生しましたが、1970年にルネが「ジェン=ロジェの発見」で第1位を獲得した後、一家は1971年にケベックシティのサビニエール・ドリオン通りのアパートの地下の4部屋に引越しました。それは前出の『パパの病気』でも書かれていました。((Journal de Montrealの記事では「シャルルブールの宿泊施設」)

▲アルバム”Un Enfant Comme Les Autres”のジャケットの内側と映画の一場面

 1971年にルネがデビューしてオルレアン島に戻ったのは1972年でした。そして、ルネのセミ・ドキュメンタリー映画”Un Enfant Comme Les Autres普通の子供(日本公開時『ルネ・オン・メロディ』)は1971年12月から1972年1月に撮影され、1972年3月30日に公開されました。近所の人たちに見送られながら『白い家』を出るシーンや、購入した『船長の家』に到着し、家族が家に入る中、売家のプレートを外してポーチから落とすシーンがありますが、その日付から考えると、再現ではなく、ほぼ実際の場面の記録だったのではないかと推測されます。


 ルネを最初に発見したのは、当時ノーベル・レコードの人気歌手だったパトリック・ザベ氏(またはクルティエ氏の母)で、結婚式には招待されて歌ったことが当時の記事で紹介されています(上の記事参照)が、映画や日本で紹介された経歴等では、クルティエ氏の結婚式で歌っていたルネの歌声を聞いて、ルネをスカウトしたことになっているものもありました。(それについては記念誌の⑥で紹介いたします)

▲月刊明星1974年10月号の特集記事より『船長の家』でのリビングで家族と一緒に

※カテゴリ『ルネ・シマール物語』参照
https://green.ap.teacup.com/applet/rene_simard/msgcate6/archive
※過去ログ「ルネのデビュー裏話」参照
https://green.ap.teacup.com/rene_simard/574.html

 ちなみにこの本では、ルネの誕生日を『1月26日』と間違って記載されていましたので、訂正してあります(カナダのファンの間でも話題に上りました)。また、ルネがオルレアン島で最初に住んだ『白い家』ですが、シマール一家が住んでいたのはその2階です。

 私の翻訳では不十分かもしれませんが、これからずっとデビュー50周年記念誌の紹介記事が続きますので、楽しくお読みいただければ幸いです。


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TOUT sur l'enfant star
René Simard
L'IDOLE d'un PEUPLE



Un enfant curieux et au grand coeur
  心の広い好奇心旺盛な子供

 サグネイ出身の少年の素晴らしい運命を、誰も予測できなかったでしょう。 しかし、ルネ・シマールはスターの素質を持っていました。


 歌手、司会者、俳優、監督となる男が生まれたのは、1961年2月28日シクーティミでした。ルネ・シマールは家族の中で、7人の子供の5番目ですが、シマール一家は貧困の中で暮らしており、両親は毎月の収入を得るのに苦労していました。

頻繁な引っ越し

 ガブリエル・ラベは専業主婦で、家、子供、家事の管理を担当していました。父のジャン=ロックは家族を養うためにいくつもの職業に就きましたが、彼が最も頻繁に仕事をしたのは料理人でした。彼は主に冬の製材所の料理人でしたが、夏の食堂でも料理人をしていました。その後、ジャン・ロックはオルレアン島のレストランで働きました。家長の様々な仕事のために、シマール家は頻繁に引っ越しをしました。しかし、ジャン=ロックには常に同じ目標がありました。それは、家族を貧困から救うことができる仕事を見つけることでした。「私たちが小さい頃、家族でクリスマスバスケットを持っていました…そして、それは私にとって、子供の目にも常に素晴らしい贈り物でした。それは並外れたものでした。」と、永遠の楽観主義者である大人になったルネ・シマールは説明しました。


A six ans, il est hospitalisé6歳で、彼は入院しました

病気が襲う

 1967年、ルネ・シマールは6歳でした。 この病気は家族の中に入り込み、最初に肝炎に感染したのは、母親のガブリエルでした。ウィルス性肝炎は当時よく起こった障害でした。
 次に肝炎にかかったのはルネでした。ふたりとも何日も入院しました。親戚たちはとても心配し、枕元に次々にやってきました。最終的には痛みよりも不安がありました。 医療チームはなんとかウイルスを取り除くことができ、人生はその流れを取り戻したのでした。


▲▼2回目の来日(1974年)の時のポスター、ノーベル・レコードのサイン入り絵葉書、ピンナップ(上)と記事(下)



<le Journal de Montrealの記事からの追記>
 ルネ・シマール ルネ・シマールは、1961年2月28日午前3時33分、シクーティミのl’Hôtel-Dieuオテル・デューで生まれました。 彼はオルレアン島に移る前に、Saint-Ignaceサン・ティグナス通りの住宅で幼少期を過ごしました。



 ルネが歌手デビューした後、父ジャン=ロック氏も保護者としてルネのマネージメントの仕事をするようになり、一家の生活は安定しました。紹介されている家族写真も、デビュー後購入した『船長の家』の暖炉の前で撮影され、ルネが受賞したトロフィーも写っています。
  同ページの白黒写真のルネは、2回目の来日時の時のものです(上画像参照)。ルネの1回目と2回目の来日には、父ジャン=ロック氏も同行していました。

 また、ウィルス性肝炎は、ウイルスが原因となって肝臓に生じた炎症性疾患のことを指し、臨床経過によっては急性期の症状のみで治まることがある一方、慢性化し肝硬変や肝細胞癌など、より重篤な病気が発症することもあります。入院中は家族もルネ本人も不安だったに違いありません。完治できて本当に良かったです!

 現在ルネは「100歳まで生きる」ことを目標に、食事の管理や運動習慣により健康と体力の維持に努めています。還暦を迎えてなお、初孫が生まれた幸せや、デビュー50周年53枚目のアルバム制作、GARA comediHa!コラボ・アルバムとミュージック・ホール・プロジェクトで充実した毎日を送るルネを、ずっと応援していきたいですね!!


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    forkシマ姉のスローライフitem9



 『ルパン三世』や『コブラ』のモデルにして、戦後のフランス映画界を代表する俳優ジャン=ポール・ベルモンド氏がパリの自宅で亡くなりました。 彼は88歳でした。

 1974年にルネ・ファンになってからというもの、洋楽や洋画に目覚めた私は、シャンソンやフレンチ・ポップスを聴き、フランス映画を深夜のTVロード・ショーで観るようになりました。当時のフランス映画は「アラン・ドロンか、ジャン=ポール・ベルモンドか。」と言われており、私はベルモンド派でした。
 『華麗なる大泥棒』、『おかしなおかしな大冒険』、私の好きなミレイユ・マチューが主題歌を歌った『パリは燃えているか』など、ベルモンドの作品は結構観ていました。


<ジャン=ポール・ベルモンド>

Jean-Paul Belmondo、(1933年4月9日 - 2021年9月6日)
・名前をもじった “ベベル”、あるいは主演作『おかしなおかしな大冒険』(73)の原題(Le Magnifique)にちなんで“ル・マニフィック(偉大な人)”などの愛称で親しまれた。
・ジャンリュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ(1960年)」でスター街道を歩み始め、出演作品は80以上。
・フランスの映画刷新運動ヌーベルバーグの中心的俳優となり、ゴダール監督の作品ではほかに「女は女である」「気狂いピエロ」に出演。娯楽作品でも活躍し、二枚目俳優アラン・ドロンと共演した70年公開の「ボルサリーノ」は大ヒットした。
・『リオの男』を凌ぐスケールとギャグ満載のアクションの数々は、ジャッキー・チェンの『プロジェクトA』にも大きな影響を及ぼしていると思しき快作。


 フランスのエマニュエル・マクロン大統領はSNSで「彼は永遠にル・マニフィックでい続けるでしょう。ジャン・ポール・ベルモンドは国の宝でした。堂々として、豪快な笑い、高い声と俊敏な体を持ち、崇高なヒーローであると同時に身近な存在であり、疲れを知らない向こう見ずであり、言葉の魔術師でした。彼は80本の映画で人の人生をつくりました。彼の中に、私たちは自分自身を見出していました」と追悼しました。
 ライバルと称され、長年の友人だった俳優のアラン・ドロン氏(85)は「打ちひしがれている」とショックを隠せなかったといいます。

 また、ルネの来日当時通訳をされていた道上雄峯氏も、facebookに彼とのツー・ショット写真をアップされていました。

 ジャン=ポール・ベルモンド氏のご冥福をお祈りいたします。


 ベルモンド氏の死因は公表されていませんが、コロナ感染で亡くなった千葉真一氏をはじめ、ルネ・ファン世代が良く知る著名人が次々亡くなっていて、寂しい思いをしています。

 コロナのワクチン接種が進む中、私も1回目を5日(日)に済ませ、2回目は機械的に3週間後の26日(日)に指定されています。

 ちなみに全く関係ありませんが、今から5年前の2016年9月12日は、ミイ姐御がシマ姉家に来た日でした(笑)。

 もちろんワクチンを接種してもブレイクスルー感染の可能性があり、たとえ本人は症状が軽く済んでも、周りにうつす危険を伴います。現在置き換わっている感染力の強いデルタ株は、ワクチン接種の対象ではない小さな子供にも感染しますので、ワクチン接種の有無にかかわらず、今まで通りの感染予防は続けることが必要です。

 新規感染者数は減少しているものの、明日13日から9月30日まで緊急事態宣言が延長された19都道府県と、「まん延防止等重点措置」が9月30日まで適用される8県の、あわせて27都道府県のほとんどで、最も深刻な「ステージ4」に相当する項目があります。これらの対象となっていない県でも、医療現場の逼迫など予断を許さない状況です。

 ルネ・ファン世代はワクチン接種が進んでいます。しかし、まだまだ油断せず、感染予防に努め、ルネの53枚目のアルバム発売など、楽しいこともたくさん控えておりますので、あと少し一人一人が感染予防に努め、少しでも早いコロナ収束を目指しましょう!


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