団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

呆れる罪悪感の希薄さ

2014-03-06 11:21:34 | Weblog
 千葉県の柏市での殺傷事件にも震撼させられたが、三重の女子中学生の殺害にも、犯人が捕まってびっくりした。三重の犯人は犯行当時は高校生で、犯行後も普段の生活態度を崩さなかった。柏の竹井容疑者も、ただ金が欲しかった、と平然としている。
  どちらも共通しているのは、罪悪感の希薄さだ。そしてきわめて衝動的な犯行のようである。人を殺して平然としていられるほど、人間は図太くないだろう、と信じられていた。しかし、こうした若者が多くいるとなると、人間観を変えなければならなくなってくる。
 むろん前科があり、犯罪の常習者なら、なにをやっても平気だろうし、刑務所も覚悟のうえだ。ところが、ふつうの若者がある日、衝動的に人を殺してしまう。そこに至る心理的な葛藤はあったのだろうか。そうなら、まだ救われる気がするが、どうもそんなブレはなく、躊躇なくハードルを超えてしまう。
 どうなってしまっているのだろうか、と周りを見回したくなる。結局、当事者意識そのものがないようにも受け取れる。別人格が犯行を犯して、犯行後はその人格がリセットされ、違う人格に入れ替わってしまう。つまりよくいわれる人生が、ゲーム感覚でしか捉えられないようになってしまっているのだろうか。
 こうした不気味な人間を生み出してしまうのが、現代社会の病弊なのだろうが、もうひとついえることは、人間関係の希薄さにもあるだろう。同じ家庭の中にいても、会話もなく心から話し合うことがない。携帯・スマホのメールなら、相手の顔を見ることなく通り一遍のコミュニケーションは成立する。つながっている、理解されている、とどこかで錯覚してしまう。
 孤独なのか、というより、孤独すら意識することがないのかもしれない。いったい何を考え、何をやって生きてきたのか、とそうした犯罪者に問いたいものだ。
  罪悪感の喪失は、いうまでもなく教育の結果であるだろう。自由と権利を強調し過ぎた戦後教育が辿り着いた果てなのか、という絶望感もあるが、それをいっても何も始まらない。
 今からでも遅くないから、幼児の頃から家庭内での道徳観を養うことだろう。きっちりと叱ること、うちでも社会の中でもやっていけないこと、人に迷惑をかけないこと、などなど人として当たり前のことを教え込むことではないか。当然、保育園、幼稚園、学校ともリンクして、家庭と同じ価値観を共有しなければならない。
 道徳、というと古いと思われるかもしれないが、要は家庭や社会の中で生きていくためのルールというものだ。そこに国家などが入り込んでくると、話はややこしくなるが、そうした生き方の最低のルールを幼い頃から教えることによって、ある程度は人間は一定の規範の中で生きていくことができるようになるものだ。
 それから、個々人の多様性というレベルに行けばいいのではないか。人間は自由、子供の権利、個性尊重などといって、大事な何かを見失ってきたのが戦後教育であろう。そろそろ新しい教育の価値観を見出していかなければならない時期であろう。まさに100年の大計である。

 エッセー「団塊SONGS」を配信中。原則的に日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。カメラと写真の情報は「Web写真人」で。URLはhttp://shashinjin.digiweb.jp