私がふだん飲み歩いているのは、新橋駅前ビルの1号館と2号館。いまでも完全に昭和レトロの世界で、小さな飲み屋がびっしりと並んでいる。
昨年末に閉めた店で飲み始める。おしたし、煮物、湯豆腐などを定番としており、ここでほぽ腹ごしらえをする。ボトルがあって3000円というところ。
次に最近亡くなったママのカラオケバーに行く。前の店で飲み過ぎていると、ちょっと記憶が曖昧なケースも多い。ここではもう乾き物ぐらいしか食さない。酒は焼酎の水割り。多くはいいちこである。
ママが亡くなって、ここで以前働いていた30代の女性が店を継いだ。先週のことで、気立てが良く物珍しさもあって、ずっと満員である。2~3曲程度歌って、2000~3000円ぐらいか。
それからふらふらとチャイニーズのママがやっている立ち飲み屋に入る。中華の料理は美味く、隣り合った方々と適当に会話を楽しむ。あまり長居はしないが、1000~2000円で済む店である。
ここはすべて2号館。次に1号館のほうに行く。年末に閉めた店があった頃は、あまり1号館のほうに行く気力はなかったが、その店がなくなって、まだ座り悪い感覚が残っていて、ふらふらとしている。
1号館で行くカラオケスナックは2軒。1店はせいぜい1000~2000円、もう1店はあまり歌わないが、同じような値段だろう。ここまで来ると、カウンターに落ち着いても、もうあまり飲めない。せいぜい1~2杯程度である。
通りの奥の路地に、娘と母親が隣り合って別の店をやっている。よく聞くと、娘が先にやって、空いた隣の店に母親が入った。入る懐が一緒だから、どちらに行くかあまり気にはしない。やはり若いほうには若い客、年齢が高いと、やはり高齢者が多く寄る。店の雰囲気もつまみも酒も違う。
あとは和食のうまい店、ただひたすら安い店など、気が向いたら寄る店がある。あちこちでいろいろな人と知り合っている。「このあいだ、あそこにいたでしょう」といわれたり、意外な店で意外な人に会ったりしている。ほとんど酔っ払っているから、初対面でも話し相手には困らない。
ただ痛風をやって、はたまた電車で寝過ごしてタクシーなんてことにもなっているから、あまり酩酊しないように努力している。飲み始めに用心して飲んでいると、意外と酔っ払わないものである。
ここでもよく書いているが、記憶がなくなるのは、せっかく楽しい酒を飲んでいるのだから、もったいないのである。だから記憶はたっぷりと、酒はせこく、というのを基本姿勢にしている。
ちびちびやっていて、相手が酔っ払ってくるのを目の前にすると、こうなるんだなあ、と観察してしまう。人を観察していれば、そうそう酔わない。つまり人を喰っているようなものである。
しかし、飲んでも酔わない、というのは、あまり面白いものではない。しかし記憶は失くしたくない。自己矛盾である。人間というのは、まあ矛盾の塊であって、解決できないから酒を飲む。しかし酔っぱらえない。メビウスの輪に囚われているようである。
それでは新橋で愉しい酒を飲みましょう。
エッセー「団塊SONGS」を配信中。原則的に日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。カメラと写真の情報は「Web写真人」で。URLはhttp://shashinjin.digiweb.jp
昨年末に閉めた店で飲み始める。おしたし、煮物、湯豆腐などを定番としており、ここでほぽ腹ごしらえをする。ボトルがあって3000円というところ。
次に最近亡くなったママのカラオケバーに行く。前の店で飲み過ぎていると、ちょっと記憶が曖昧なケースも多い。ここではもう乾き物ぐらいしか食さない。酒は焼酎の水割り。多くはいいちこである。
ママが亡くなって、ここで以前働いていた30代の女性が店を継いだ。先週のことで、気立てが良く物珍しさもあって、ずっと満員である。2~3曲程度歌って、2000~3000円ぐらいか。
それからふらふらとチャイニーズのママがやっている立ち飲み屋に入る。中華の料理は美味く、隣り合った方々と適当に会話を楽しむ。あまり長居はしないが、1000~2000円で済む店である。
ここはすべて2号館。次に1号館のほうに行く。年末に閉めた店があった頃は、あまり1号館のほうに行く気力はなかったが、その店がなくなって、まだ座り悪い感覚が残っていて、ふらふらとしている。
1号館で行くカラオケスナックは2軒。1店はせいぜい1000~2000円、もう1店はあまり歌わないが、同じような値段だろう。ここまで来ると、カウンターに落ち着いても、もうあまり飲めない。せいぜい1~2杯程度である。
通りの奥の路地に、娘と母親が隣り合って別の店をやっている。よく聞くと、娘が先にやって、空いた隣の店に母親が入った。入る懐が一緒だから、どちらに行くかあまり気にはしない。やはり若いほうには若い客、年齢が高いと、やはり高齢者が多く寄る。店の雰囲気もつまみも酒も違う。
あとは和食のうまい店、ただひたすら安い店など、気が向いたら寄る店がある。あちこちでいろいろな人と知り合っている。「このあいだ、あそこにいたでしょう」といわれたり、意外な店で意外な人に会ったりしている。ほとんど酔っ払っているから、初対面でも話し相手には困らない。
ただ痛風をやって、はたまた電車で寝過ごしてタクシーなんてことにもなっているから、あまり酩酊しないように努力している。飲み始めに用心して飲んでいると、意外と酔っ払わないものである。
ここでもよく書いているが、記憶がなくなるのは、せっかく楽しい酒を飲んでいるのだから、もったいないのである。だから記憶はたっぷりと、酒はせこく、というのを基本姿勢にしている。
ちびちびやっていて、相手が酔っ払ってくるのを目の前にすると、こうなるんだなあ、と観察してしまう。人を観察していれば、そうそう酔わない。つまり人を喰っているようなものである。
しかし、飲んでも酔わない、というのは、あまり面白いものではない。しかし記憶は失くしたくない。自己矛盾である。人間というのは、まあ矛盾の塊であって、解決できないから酒を飲む。しかし酔っぱらえない。メビウスの輪に囚われているようである。
それでは新橋で愉しい酒を飲みましょう。
エッセー「団塊SONGS」を配信中。原則的に日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。カメラと写真の情報は「Web写真人」で。URLはhttp://shashinjin.digiweb.jp