団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

吉田健一の文章

2015-06-08 13:45:31 | Weblog
「どんより曇った空の下に豚の子のように太った鯉が蝦を漁って更に肉をつけている沼の滑かな水面が鈍光を湛えている風情である」
 これは誰の文章かというと、吉田健一である。前述した『古本の愉しみ』の中に、吉田健一にも触れた。さっき読んでいて、この文章に行き当たった。出されたカレーを表現しているのであるが、状況は夢の中の話である。
 当然ながら、こんなことを書いて、正確にどんなカレーライスか分かるわけがない。いわばお遊びではあるのだが、吉田健一はきっと酒と食というものに対して、いかに文章で表現できるか、ということに挑戦した作家だったと思う。現在でも、そのエッセーは名文の誉れが高い。
 別に私は吉田健一にそれほどの思い込みはないものの、その文章をこよなく愛している。さほどの厳密性はなく、なんとなく雲を上を歩いているような自由度が感じられるのである。そういう味合いを持っている。
 あまり偉そうなことはいえないが、文章というのは、結局頭に浮かんだイメージを文字にする作業なのである。多少は適性があるとはいえ、イメージを文に変換できるならOKなのである。
 自分なりに納得したい文章を書きたいという人のために、アドバイスをするとしたら、頭の中のイメージを紙やモニターに書いみることだ。書くと、ひとつの形がそこに現れる。それがリアリティであり、それをまた読むことによって、もっとイメージがはっきりしてくる。
 ただそれだけでは終わらす、たぶんそれを推敲して、はじめてひとつのイメージ=文章が明確になる。実際、作家というのはそれを日常繰り替えしているのである。
 決して完璧はないところが、文章の苦しいところである。あるいは表現といってもいいが、見事に書けた、と思っても、時間が経つと、ああすれば良かった、あそこを直せばもっと良くなった、と悩むものである。
 結局、どんな大家でも文章は妥協の産物であるだろう。ただ世に出て、どれだけの人が評価するかで決まる。小説ならストーリーもあって、評価の基準がまた違ってくるが、エッセーはまさに文章が問われる表現である。
『酒肴酒』の中に「理想は、酒ばかり飲んでいる身分になることで、次には、酒を飲まなくても飲んでいるのと同じ状態に達することである。球磨焼酎を飲んでいる時の気持を目指して生きて行きたい」という一節がある。
 作者特有の酒に対する愛情の表現なのである。どちらかといえば、文章が走るほうで、それが特有の味わいを生んでいる。また古本を探しみようか。
 
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