慶が喫茶『アマリリリス』のバイトを辞めた。
元々、7月末までという約束で始めたバイトだったけれど、産休中の店長の娘さんがまだ落ち着かなかったため、今まで何となく続けてきた。でも、ようやく辞めることになった。
…………という、慶の説明を鵜呑みにしていた自分を殴りたい。
しかも「じゃあ、クリスマス一緒に過ごせるね♪」なんて浮かれた自分を蹴り倒したい。
おれは甘かった。甘すぎた。
慶がバイトを辞めた数日後、高校時代の友人、安倍康彦に呼び出された。
安倍は高校一年の時に慶と同じクラスだった奴で、おれの知る限り、慶の一番仲が良い友達だ。
『アマリリリス』のバイトを紹介したのも安倍で、店長は安倍の伯母さんだと聞いている。
そんな安倍が、慶には内緒で話がある、と言ってきた。呑気なおれは「石川さんの話かな?」なんて思っていた。
石川直子さんは、安倍と同じく慶の高校一年の時の同級生で、高校三年間ずっと慶に片思いしていた女の子。そしてその石川さんに三年間ずっと片思いしていたのが安倍。大学に入ってから、安倍の想いがようやく届き、二人は今も付き合っているらしい。
慶の妹、南ちゃんの分析によると、慶が高校3年間そんなにモテなかったのは石川さんのおかげだそうだ。
中学時代の慶は、それはそれはモテたそうだ。でも、本人はその気がなくて全部断っていたらしい。「お兄ちゃんの理想はお姉ちゃんだったからね。そんな中学生いないっての」とのことだ。
高校入学後、かなり早い段階で、石川さんが慶のことを好きだという話は噂になった。南ちゃん曰く、女子は、友達に先に好きって言われてしまうと、その人を好きになるのは避けようとする。しかも、石川さんの親友の枝村さんは女子のボス的存在。ボスの親友の片思いの相手に手を出すなんて、よっぽどのチャレンジャーでないかぎりできない……と。
高校卒業した直後、南ちゃんにこの話をされ、言われたのだ。
「今までは石川さんのおかげで無事だったけど、これからはそのバリアーないから、浩介さんヤキモキすると思うよ~」
実際、今までヤキモキしどうしだ。
予備校時代は浪人中という抑えのおかげかまだマシだったけれど(それでも、行き帰りに女子が張ってることもあったし、バレンタインもかなりの数をもらっていた。お前ら勉強しろ!!って感じだ)、大学に入ってからはさらにひどくなった。
特に、バイト先の喫茶『アマリリリス』には慶のファンがたくさんきていて、頻繁に誘われたりしていた。でも慶は、どんなに可愛い子でも、にこやかにあっさりと断ってくれて、それはそれで優越感に浸れて良かったともいえる。
けれど、やはり不安もあったので、アマリリリスをやめてくれて、おれ的には安心していたが……。
「渋谷がアマリリリスをやめた理由、聞いてるか?」
アマリリリスの裏にある、安倍の伯母さんの家。安倍は自分の家のように出入りしているらしく、今回も家人不在のリビングに通された。
「理由? 産休中だった娘さんがだいぶ落ちついたから……って」
いうと、安倍は、やっぱり、と言う顔をした。
「……違うの?」
「…………」
安倍は迷うように手を組み替えながら黙っていたが、
「渋谷には口止めされてるけど、やっぱりお前にも伝えた方がいいと思ってな」
「……口止め?」
ドキッとする。慶がおれに隠し事……。
「……なに?」
促すと、安倍が意を決したように顔をあげた。
「お前の母ちゃんが、店に来た」
「…………っ」
ザッと血の気が引くのが分かった。足の先まで冷たくなる。
「なんで……っ」
「お前と別れるように、店長から渋谷を説得してくれ、と」
「な…………っ」
手が震える。押さえようと両手を腿の上で抑え込むけれど止まらない。体は冷えていくのに汗が噴き出してくる。
(慶……慶)
おまじないのように、呪文のように、愛しいその名を心の中で叫ぶ。
目が回ってきて耐えられず、膝に額を押しつけた。息ができない。苦しい。
「桜井!?大丈夫か!?」
「ああ……ごめん」
心配そうにのぞき込まれて、かろうじてうなずく。
「横になるか? 誰か呼ぶか? どうすれば……」
「ごめん。大丈夫……すぐおさまる……」
(慶…………)
ゆっくりと息をする。目をつむり、慶の優しい声を思い出す。瞳を思い出す。腕を思い出す。
少しずつ、落ちついてくる………。
「あー……悪い。渋谷が桜井には絶対に言うなっていったのはこういうことだったのか……」
しばらくして安倍が、ボソッと言った。
「いや……ごめん、教えてくれて、助かる……」
「でも……」
「詳しく教えてくれる……?」
「でも……」
「お願い」
突っ伏したまま言うと、安倍は淡々と報告してくれた。
母親がはじめにきたのは、12月の2週目に入ってすぐ。
母親は、店長を呼び出し、慶に息子と別れるよう言ってほしい、と言ってきた。
店長は、従業員のプライベートに口出しするつもりはない、と断った。慶に言うつもりもなかった。
でも、翌日も母親がきた。家庭のことは家庭で解決してくれ、と言うと、慶の家族にもかけあったが埒があかない。雇い主の責任として説得に協力してほしい、と言われ、そのまま店に居座られた。店長も相手せざるをえず、仕事が滞ってしまった。
それからも連日、朝から昼過ぎまで居座られた。慶が店に入る前には帰るので慶が知ることはなかったけれど、主婦層の常連客に「近所で噂になってる」と忠告され、慶に話すことにした。
すると、慶は少しの迷う間もなく「辞めさせてください」と……。
「伯母さんも渋谷のこと頼りにしてたから残念がってたけど、うちも客商売だからな。変な噂が一番困る」
「…………申し訳ない」
心の奥底から謝る。申し訳ない。バイトを紹介してくれた安倍にも、あの優しい店長さんにも、そして、慶……。
「お前が謝ることないだろ」
「……………本当に、申し訳ない」
おれは甘かったんだ。あの母が、今の今まで何もしてこなかったことのほうが奇跡だ。どうしておれはそんなことにも気付けなかったんだろう。
「おれ、伯母さんからこの話聞いたの、渋谷と同じタイミングでさ。聞いてすぐに、桜井に連絡すりゃいいじゃんって思ったんだよ。だって桜井の母ちゃんの話なんだからさ」
「うん…………」
「でも、伯母さんも渋谷も、桜井には言うなって言って……。すまん。おれ考えなしで。お前がその、あの……なんつーの?」
「うん……ごめん」
母の常識を超えた行動には幼いころから苦しめられてきた。
子供同士のささいなケンカで相手の家に押しかけて土下座させたり、発表会での配役に苦情をいって役を替えさせたり、思いだしたらきりがない。母が何かするたびに、周りから人がいなくなった。母は、すべておれのためだ、と言う。でも愛されている実感はまったくなかった。
母はしつけの面でも勉強の面でも、あらゆることにとても厳しく、家でも心が休まることはなかった。母がおれに手をあげなくなったのは、おれが中3になってからだ。
中学3年の夏、いつものように振り上げられた母の手を、初めてつかんだ。すると、あっさりと止めることができたのだ。おれの方が力が強くなっていたことにそのとき初めて気がついた。身長もとっくに追い越していた。
それから手をあげられることはなくなったけれど、束縛と干渉はあいかわらずひどかった。
実は高校の時もバスケ部のことで学校に押しかけたことがあったらしい。でも顧問の上野先生がガツンといって追い返してくれたそうで、それ以来、母が学校に押しかけることはなくなった。上野先生にはそのこともあって頭が上がらない。本当に感謝している。
母の異常行動に思いを囚われると、かなりの割合で今みたいな発作がおきる。最近発作の回数が増えている気がする。
でも、慶と一緒にいるとすぐにおさまる。慶には両親との確執の詳細は話していないが、慶は何も聞かず、いつも優しく抱きしめてくれる。慶がいないときは慶のことを思い浮かべる。
慶に対する依存がますますひどくなっている、という自覚はある。おれは慶がいないと生きていけない。
「安倍……ありがとうね。教えてくれて」
「あーいやあ……さー」
安倍がぽりぽりと頬をかいた。
「おれはさ、お前らが別れたら困るからさ」
「困る?」
安倍はニヤッと笑うと、
「これで渋谷がフリーになって、直子がふらふら~っとまた渋谷にいっちまったら、なあ?」
「ああ……なるほど」
思わず、つられて笑ってしまう。
安倍には高校を卒業してから、おれ達がつきあっていることを伝えた。すると安倍は、
「もっと早く教えろよーーー!!」
と、絶叫した。それから「石川さんにも言っていいよな?!いいよな?!」と……。
それから数か月後、石川さんは慶に対する3年間の片思いにけりをつけ、安倍の3年間の片思いは成就した、ということらしい。
「お前、頼むから頑張ってくれよ?」
拝む安倍に、おれは大きく肯いた。
「うん。頑張る」
慶との未来のために、逃げてばかりはいられない。
母親と向き合わなくてはいけない。
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このころ、浩介の慶に対する精神的依存度はマックスです。
でも、浩介は慶より3年早く社会人になります。そこでちょっとだけ成長します。はい。
浩介視点は、まだ数回続きます。暗い話が続きます。
その次は慶視点。
慶の文章は明るくてサバサバしてるから書きやすいんだけどなー。
浩介はいかんせん暗すぎる。そして地の文と話言葉のノリが違うから書きにくい。
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