油断していた、というのも変な話なんだけれども、自分の機嫌の良さをバレないようにしなくては、という意識が欠けていた、と言える。
「ずいぶん機嫌がいいんだな」
「?! ……痛っ」
突然の夫の声に驚き、針で指を差してしまった。
裁縫をしながら、昔のことに意識を飛ばして鼻歌まで歌っていたために、部屋のドアが開いたことにまったく気が付けなかった。
ティッシュで止血しながら、夫を見上げる。
「何? お腹でも空いた?」
「いや……」
ぱたんと後ろ手にドアを閉める夫。……嫌な予感がする。夫が私の部屋に入るなんていつ以来だろう。
「お前……男でもできたのか?」
「……………」
見下ろしてくる夫の目……蛇が獲物を狙うときの執拗さ、みたいな……ぞっとする。
夫は普段は明るい人だが、時折、家ではこういう陰湿な目をする時がある。
「……そんなものいないわ」
「じゃあ、なんで機嫌がいいんだ?」
たいして家にいないくせに、そういうことには気がつくらしい。
確かに最近の私は機嫌がいい、というのを否定できない。
運動会の翌々日の月曜日。突然、携帯に電話がかかってきたのだ。あかねから。
「なんで携帯の番号知ってるの!?」
驚いた私に、
「4月のはじめに提出した緊急連絡先に<母・携帯>書いたでしょ?」
あかねがへらへら~っという。
「役得よね~?」
「それを言うなら職権乱用!」
速攻でツッコミをいれてから、吹き出してしまった。
それ以来、今日までの4日連続で日中に電話がかかってきている。
空き時間に演劇部の部室にこもってかけているらしい。「顧問やっててよかった~」なんて言ってる。ホント、職権乱用だ。
ほんの数分のことだけれど、昔と同じように話せることが嬉しい。それでついつい機嫌も良くなっていたのだけれども……。
夫から目をそらし、ティッシュでぎゅっと指を押さえる。
「別に、機嫌なんてよくないわ」
「………それに」
ぐいっとあごをつかまれ上を向かされた。
「妙に色っぽい」
「……………」
「男だろ?」
ああ……バカバカしい。バカじゃないの? バカでしょ? 知ってる。バカなのよね。
夫を押しのけ、立ち上がる。夫がカッとしたように、私の手をつかんだ。
「どこにいく?!」
「絆創膏を取りに。血が止まらないから」
「……血?」
夫につかまれた手の人差し指から、血のしずくがふくれでる。思っていたよりも深く突き刺してしまったらしい。
「ああ……本当だな」
「!! ちょ……っ」
ぞっと背筋に寒気が走った。あろうことか、その血の出た指を夫が咥えたのだ。
(あかね……っ)
あかねがいつもしてくれる指先へのキス。
『綾さんの手は魔法の手』
はじめはうやうやしく、遠慮深そうに。それから味わうように爪の先を舌で優しく……
「綾……」
夫の声。違う。違う。違う。この人は、違う! 嫌だ!
「離してっ」
気がついたら、夫を突き飛ばしていた。
「お前……っ」
「!」
激昂した夫に、ベッドに押し倒された。両肩を強く押さえつけられる。
「何す……っ」
「何するって、夫婦なんだから当然のことだろ」
「…………っ」
シャツを捲し上げられる。
「その男とはもうやったのか? ええ?」
「だから……っ」
胸を這ってくる夫をどかそうとした手を、軽々と掴まれる。力ではかなわない。どうやってもかなわない。悔しくて涙が出てくる。
「男なんていない……っ」
「だったら、なんで……」
「だいたい、いたとしたって、あなたに責められる筋合いはないでしょ!」
ピタッと動きが止まった。
ゆっくりと、夫の顔がこちらに向けられる。
「どういう意味だ……?」
夫の眉間にしわが寄っている。
私は子供に言い聞かせるように夫に言う。
「どういう意味もなにもないでしょう? あなた3年前に言ったわよね? 自分は別に家庭を作る。だからお前も浮気でもなんでも好きにしろって」
3年前、夫の浮気相手に子供が産まれた。夫はその子を認知し、二つの家庭をもつことにした。それ以来、一日置きに帰ってくるようになった夫。
「………だから、男を作ったのか?」
「……作ってません」
身を起こし、衣類を整えようとしたところ、再度夫が手を伸ばしてきた。
「だから……っ」
「お前は一つ忘れている。確かにオレは好きにしろといった。でも、それは、今ある家庭を壊さないで、という条件付きでだ」
「………」
自分は壊しておいて何をいっているんだろう。この人。
「オレはちゃんと両方大切にしている。お前はオレに抱かれる義務がある」
「…………」
シャツを脱がされる。露わになった肩に夫の唇が下りてくる。
「浮気してないっていうなら、久しぶりで嬉しいだろ?」
「……………」
スカートのホックが外される。固い手が太ももを這う。
(あかね……あかね)
目をぎゅうっとつむり、呪文のように心の中で唱える。
19年前から少しも成長していない私。
大学卒業前、両親からお見合いを勧められた。
大手取引会社の社長の息子。その母親に私は気にいられた。彼女と同じ名門女子校出身、ということが大きな理由。あとは、英語が話せて家事ができることが買われたらしい。息子にアメリカ支社を任せるための妻が必要だったのだ。
夫は格好がよくて、明るくて、優しい人だった。この人とならば一般的にいわれる<女の幸せ>を掴めるような気がした。
実際、健人や美咲が生まれた時には本当に幸せだと思えた。180cm近くある長身で顔も良く、社交的でお金に不自由していない夫は当然モテて、女の影が絶えなかったけれど、子供たちがいて、夫も子供たちを一番に愛してくれているならそれで良かった。
日本に戻ってきたのは、5年ほど前。夫の父親が病気のため、社長職を退いたからだ。
それに伴い、夫が社長となり、義母は引き続き副社長の座に。そして私が義父の介護を一手に引き受けることになった。施設に入れればいいと夫は言ったが、義母が大反対した。他人に頼るなんて、そんな冷たいことはできない、と……。
それから約5年間、私の生活は義父と共にあった。痴呆症が進んでいた義父は、足が悪かったため徘徊の恐れはなかったけれど、目を離すと異食をしてしまうため、一人にしておくことができなかった。
子供たちの入学式も卒業式も参観も面談も、すべて夫か義母が行った。夫と義母は義父と関わることを恐れていた。おおらかで頼りがいのあった義父が幼い子供のようになり、自分たちのことも忘れてしまったところを見たくなかったのかもしれない。
私の唯一の外界とのつながりは、ボランティアの縫子だけだった。それも担当の人が家に運んでくれ、期日になると取りにきてくれる、というものだったけれども。それでも、誰かが大事に着ていただろう洋服をリメイクして、また他の誰かに着てもらえるようにする、ということに喜びを感じていた。ベットの横でいつも縫物をしている私のことを、義父は自分の母親だと思っていたらしい。出来上がった洋服を見せると嬉しそうに笑ってくれた。
義父が亡くなったのは、今年の2月末。穏やかに息を引き取った。
義父が亡くなるまでの5年の間に、2つ大きな出来事があった。
一つは、3年前。夫が他に家庭を持ったということ。
一つは、半年前。実家の両親が経営する会社をたたんだことだ。
両親には「もう我慢しないで離婚でも何でもしていいから」と言われた。
何を今さら……と失笑してしまった。
小さいころから「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と言われ続けてきた。
忙しい両親に変わり、家事も弟の世話も引き受けてきた。
経済的に余裕があるわけでもないのに、親の見栄のために名門女子校に入学させられた。生活が苦しいのだから公立の学校に転校する、と言っても、母は首を縦に振らなかった。
夫との結婚が決まった時に、母は言った。
「高い学費払い続けたおかげで、あんたは玉の輿に乗れて、会社は安泰。私の選択は正しかった。感謝しなさい」
あの時の母の勝ち誇ったような表情は忘れられない。
私はあかねを愛していた。
でも、あかねと一生一緒にいることは無理だと思った。結婚できるわけでもない。誰にも認めてもらえない。
何より、あかねは誰のものにもならない。誰にも抱かれない。
だから、あかねへの想いから逃げた。あかねに出会う前の私がずっとそうしてきたように、親の言うなりに、親の指し示した方向に進んだのだ。
私はあかねへの想いと等価交換できるくらいの<幸せな家庭>を作りたかった。
夫が他の女を抱くのは少しも構わなかった。夫に貞操など求めていない。
ただ、子供たちを、家族を一番に愛してくれる父親になってほしかった。
でも、夫は違う子供の父親になった。
健人と美咲以外の子供を我が子として抱いている夫の手は、汚い。けがれている。
「ああ……」
夫が私の上で恍惚とした表情を浮かべているのを、冷めた目で見かえしてしまいそうになる。
「すごい…こんなに締まってて…」
「…………」
吐き気がする。喋らないでほしい。ぎゅっと目をつむる。
「疑ってごめんな。お前、浮気なんかしてないな? してたらこんな……」
「…………」
うるさいうるさいうるさい。黙れ。
『世の中全部気に食わない。お前ら全員ぶっ殺してやる。……って光を帯びる時あるでしょ?』
ふと、あかねの言葉が頭によぎる。
たぶん、今、目を開いたら、そんな光を帯びているに違いない。
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綾さん独白回終了。
覚書。綾さん夫の名前、充則。
来週月曜もまだ綾さん視点続く。
「ずいぶん機嫌がいいんだな」
「?! ……痛っ」
突然の夫の声に驚き、針で指を差してしまった。
裁縫をしながら、昔のことに意識を飛ばして鼻歌まで歌っていたために、部屋のドアが開いたことにまったく気が付けなかった。
ティッシュで止血しながら、夫を見上げる。
「何? お腹でも空いた?」
「いや……」
ぱたんと後ろ手にドアを閉める夫。……嫌な予感がする。夫が私の部屋に入るなんていつ以来だろう。
「お前……男でもできたのか?」
「……………」
見下ろしてくる夫の目……蛇が獲物を狙うときの執拗さ、みたいな……ぞっとする。
夫は普段は明るい人だが、時折、家ではこういう陰湿な目をする時がある。
「……そんなものいないわ」
「じゃあ、なんで機嫌がいいんだ?」
たいして家にいないくせに、そういうことには気がつくらしい。
確かに最近の私は機嫌がいい、というのを否定できない。
運動会の翌々日の月曜日。突然、携帯に電話がかかってきたのだ。あかねから。
「なんで携帯の番号知ってるの!?」
驚いた私に、
「4月のはじめに提出した緊急連絡先に<母・携帯>書いたでしょ?」
あかねがへらへら~っという。
「役得よね~?」
「それを言うなら職権乱用!」
速攻でツッコミをいれてから、吹き出してしまった。
それ以来、今日までの4日連続で日中に電話がかかってきている。
空き時間に演劇部の部室にこもってかけているらしい。「顧問やっててよかった~」なんて言ってる。ホント、職権乱用だ。
ほんの数分のことだけれど、昔と同じように話せることが嬉しい。それでついつい機嫌も良くなっていたのだけれども……。
夫から目をそらし、ティッシュでぎゅっと指を押さえる。
「別に、機嫌なんてよくないわ」
「………それに」
ぐいっとあごをつかまれ上を向かされた。
「妙に色っぽい」
「……………」
「男だろ?」
ああ……バカバカしい。バカじゃないの? バカでしょ? 知ってる。バカなのよね。
夫を押しのけ、立ち上がる。夫がカッとしたように、私の手をつかんだ。
「どこにいく?!」
「絆創膏を取りに。血が止まらないから」
「……血?」
夫につかまれた手の人差し指から、血のしずくがふくれでる。思っていたよりも深く突き刺してしまったらしい。
「ああ……本当だな」
「!! ちょ……っ」
ぞっと背筋に寒気が走った。あろうことか、その血の出た指を夫が咥えたのだ。
(あかね……っ)
あかねがいつもしてくれる指先へのキス。
『綾さんの手は魔法の手』
はじめはうやうやしく、遠慮深そうに。それから味わうように爪の先を舌で優しく……
「綾……」
夫の声。違う。違う。違う。この人は、違う! 嫌だ!
「離してっ」
気がついたら、夫を突き飛ばしていた。
「お前……っ」
「!」
激昂した夫に、ベッドに押し倒された。両肩を強く押さえつけられる。
「何す……っ」
「何するって、夫婦なんだから当然のことだろ」
「…………っ」
シャツを捲し上げられる。
「その男とはもうやったのか? ええ?」
「だから……っ」
胸を這ってくる夫をどかそうとした手を、軽々と掴まれる。力ではかなわない。どうやってもかなわない。悔しくて涙が出てくる。
「男なんていない……っ」
「だったら、なんで……」
「だいたい、いたとしたって、あなたに責められる筋合いはないでしょ!」
ピタッと動きが止まった。
ゆっくりと、夫の顔がこちらに向けられる。
「どういう意味だ……?」
夫の眉間にしわが寄っている。
私は子供に言い聞かせるように夫に言う。
「どういう意味もなにもないでしょう? あなた3年前に言ったわよね? 自分は別に家庭を作る。だからお前も浮気でもなんでも好きにしろって」
3年前、夫の浮気相手に子供が産まれた。夫はその子を認知し、二つの家庭をもつことにした。それ以来、一日置きに帰ってくるようになった夫。
「………だから、男を作ったのか?」
「……作ってません」
身を起こし、衣類を整えようとしたところ、再度夫が手を伸ばしてきた。
「だから……っ」
「お前は一つ忘れている。確かにオレは好きにしろといった。でも、それは、今ある家庭を壊さないで、という条件付きでだ」
「………」
自分は壊しておいて何をいっているんだろう。この人。
「オレはちゃんと両方大切にしている。お前はオレに抱かれる義務がある」
「…………」
シャツを脱がされる。露わになった肩に夫の唇が下りてくる。
「浮気してないっていうなら、久しぶりで嬉しいだろ?」
「……………」
スカートのホックが外される。固い手が太ももを這う。
(あかね……あかね)
目をぎゅうっとつむり、呪文のように心の中で唱える。
19年前から少しも成長していない私。
大学卒業前、両親からお見合いを勧められた。
大手取引会社の社長の息子。その母親に私は気にいられた。彼女と同じ名門女子校出身、ということが大きな理由。あとは、英語が話せて家事ができることが買われたらしい。息子にアメリカ支社を任せるための妻が必要だったのだ。
夫は格好がよくて、明るくて、優しい人だった。この人とならば一般的にいわれる<女の幸せ>を掴めるような気がした。
実際、健人や美咲が生まれた時には本当に幸せだと思えた。180cm近くある長身で顔も良く、社交的でお金に不自由していない夫は当然モテて、女の影が絶えなかったけれど、子供たちがいて、夫も子供たちを一番に愛してくれているならそれで良かった。
日本に戻ってきたのは、5年ほど前。夫の父親が病気のため、社長職を退いたからだ。
それに伴い、夫が社長となり、義母は引き続き副社長の座に。そして私が義父の介護を一手に引き受けることになった。施設に入れればいいと夫は言ったが、義母が大反対した。他人に頼るなんて、そんな冷たいことはできない、と……。
それから約5年間、私の生活は義父と共にあった。痴呆症が進んでいた義父は、足が悪かったため徘徊の恐れはなかったけれど、目を離すと異食をしてしまうため、一人にしておくことができなかった。
子供たちの入学式も卒業式も参観も面談も、すべて夫か義母が行った。夫と義母は義父と関わることを恐れていた。おおらかで頼りがいのあった義父が幼い子供のようになり、自分たちのことも忘れてしまったところを見たくなかったのかもしれない。
私の唯一の外界とのつながりは、ボランティアの縫子だけだった。それも担当の人が家に運んでくれ、期日になると取りにきてくれる、というものだったけれども。それでも、誰かが大事に着ていただろう洋服をリメイクして、また他の誰かに着てもらえるようにする、ということに喜びを感じていた。ベットの横でいつも縫物をしている私のことを、義父は自分の母親だと思っていたらしい。出来上がった洋服を見せると嬉しそうに笑ってくれた。
義父が亡くなったのは、今年の2月末。穏やかに息を引き取った。
義父が亡くなるまでの5年の間に、2つ大きな出来事があった。
一つは、3年前。夫が他に家庭を持ったということ。
一つは、半年前。実家の両親が経営する会社をたたんだことだ。
両親には「もう我慢しないで離婚でも何でもしていいから」と言われた。
何を今さら……と失笑してしまった。
小さいころから「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と言われ続けてきた。
忙しい両親に変わり、家事も弟の世話も引き受けてきた。
経済的に余裕があるわけでもないのに、親の見栄のために名門女子校に入学させられた。生活が苦しいのだから公立の学校に転校する、と言っても、母は首を縦に振らなかった。
夫との結婚が決まった時に、母は言った。
「高い学費払い続けたおかげで、あんたは玉の輿に乗れて、会社は安泰。私の選択は正しかった。感謝しなさい」
あの時の母の勝ち誇ったような表情は忘れられない。
私はあかねを愛していた。
でも、あかねと一生一緒にいることは無理だと思った。結婚できるわけでもない。誰にも認めてもらえない。
何より、あかねは誰のものにもならない。誰にも抱かれない。
だから、あかねへの想いから逃げた。あかねに出会う前の私がずっとそうしてきたように、親の言うなりに、親の指し示した方向に進んだのだ。
私はあかねへの想いと等価交換できるくらいの<幸せな家庭>を作りたかった。
夫が他の女を抱くのは少しも構わなかった。夫に貞操など求めていない。
ただ、子供たちを、家族を一番に愛してくれる父親になってほしかった。
でも、夫は違う子供の父親になった。
健人と美咲以外の子供を我が子として抱いている夫の手は、汚い。けがれている。
「ああ……」
夫が私の上で恍惚とした表情を浮かべているのを、冷めた目で見かえしてしまいそうになる。
「すごい…こんなに締まってて…」
「…………」
吐き気がする。喋らないでほしい。ぎゅっと目をつむる。
「疑ってごめんな。お前、浮気なんかしてないな? してたらこんな……」
「…………」
うるさいうるさいうるさい。黙れ。
『世の中全部気に食わない。お前ら全員ぶっ殺してやる。……って光を帯びる時あるでしょ?』
ふと、あかねの言葉が頭によぎる。
たぶん、今、目を開いたら、そんな光を帯びているに違いない。
----------------------------
綾さん独白回終了。
覚書。綾さん夫の名前、充則。
来週月曜もまだ綾さん視点続く。