謹慎処分をくらったのは、高校の時以来だ。その時は校内での「不純同性交遊」でね……。いやあ若かったなあ私……。
なんてのんきなことを言っている場合ではない。
一週間だったはずの謹慎処分は、3日で解けた。
生徒たちと保護者の方たちが署名活動を行ってくれたからだ。今はネット社会なので、あっという間に情報が広まり、あっという間に署名も集まったらしい。
保護者の代表として集めてくれたのは、PTA会長の菜々美の母親だったそうで、被害者(私から過剰な指導を受けた被害者ってこと)本人とその保護者が、私の処罰を求めていない、ということで、学校側も騒ぎが大きくなる前に謹慎を解いたらしい。
「あいかわらず人気者ねえ」
と、謹慎最終日に電話先の綾さんに言われた。
綾さんとは、担任として連絡を取るときには家の電話に、恋人(!)として連絡を取るときには携帯に電話をする、という約束をした。でも、携帯の通話料が上がって怪しまれては困るので、綾さんから連絡をしたい場合は、3コールで切って、私の方からかけなおす、ということに決めた。本当は私と通信用の携帯を買いたいところなんだけど、それが見つかったら面倒なことになるので、やむなく旦那契約の携帯を使うことに目をつむることにした。くっそー腹立つ……。
なんてのんきなことを言っている場合ではない。本当に。
気になるのは美咲たちのことだ。人気者、と綾さんが言ってくれたように、自分で言うのもなんだけど、私は生徒からも保護者からも人気がある。それなので、私が謹慎をくらったことで、他の生徒たちの怒りの矛先が美咲たちに向くことが一番こわかった。学校側が早々に解いてくれて助かった。
学級委員の瑞穂の情報によると、美咲・菜々美・さくらの3人は、私の処分が出てすぐに、みんなの前で謝り、署名運動を率先してはじめたそうだ。うまいこと立ち回ったな、という感じ。
謹慎初日の火曜日の夕方から夜にかけて、教頭先生と一緒に、菜々美、さくら、鈴子、そして美咲の家を訪問した。
菜々美の両親は子供の教育にとても力を入れており、菜々美は過度な干渉を受けている印象がある。
さくらは逆に、両親から関心を持たれていない印象。2つ年下の弟が受験生だそうで、余計に放置されている。
鈴子の家は、この学校に通う子の家にしては庶民的な感じだった。仲の良い兄と妹がいて、両親も子供と適切な距離を保っていて、好印象。今回の件の元々の被害者は、鈴子であるが、本人は「全然気にしてない」と言い張っている。本心なのか強がりなのか、それとも他に理由があるのか、今はまだ判別できない。
そして、美咲……。
せっかく月曜日の空き時間に、綾さんと初めての「恋人電話」を満喫したばかりだというのに(それはもう、砂吐くようなセリフをたくさん……)、このトイレ事件が起きたせいで、その夜には自宅の電話に教師として電話をすることになってしまった。綾さんは美咲から事情は聞いていたそうで、しきりと恐縮していた。
綾さんは美咲の精神年齢が幼く、今回も悪ふざけが過ぎてしまっただけだと思っているようだ。美咲の内面の黒さについて、どこまで話すべきかはまだ迷っている。親は子供のすべてを知るべきと考えている先生も多いが、私は、子供にだって親に隠したいことくらいあるし、親が子供のすべてを理解するなど不可能だと考えている。中学生にもなれば、子供はもう立派な一つの個体だ。その意思も人格も尊重するべきだと思う。
綾さんの家は、豪邸といってもいいほど大きかった。掃除するだけでも相当大変そうなのに、完璧にキレイに整えられている。さすが綾さん。
「この度は、美咲の悪ふざけで先生にまでご迷惑をおかけして……」
美咲の祖母が深々と頭を下げてくる。教頭が慌ててそれをとめる。教頭はもうすぐ定年の品の良いおば様。美咲の祖母と少し雰囲気が似ている。
「いえいえいえ、今日はこちらの指導が行き過ぎてしまったことをお詫びに伺ったわけでして……」
「行き過ぎなんてとんでもない!」
美咲の祖母が大げさに驚いたようにいう。
「悪いことをしたらビシッと叱るのが教育でしょう。それを今はなんだかんだと甘いことばかり…。その点、あかね先生はいいですわ。今回のご指導にも私共は感謝してるんですよ。ねえ? 綾さん」
「……………」
後ろに控えるようにして立っている綾さんが静かに肯いた。綾さん、家庭だとこういう立ち位置なんだな……。
「あの、お父様は何時頃お帰りに……?」
「今日はパパ、あっちの家の日だから帰ってこないよ」
「美咲!」
祖母の鋭い制止にこたえた様子もなく、美咲があっけらかんと言う。
「昨日だったらいたのに残念ー。ちゃんと今日あかね先生がくることも伝えたんだけど、あっちの奥さんが仕事で夜子供みないといけないから無理って言われたの。ねえママ?」
「…………」
目を伏せた綾さん。ニコニコしている美咲。……心配だ。どちらも心配だ。
「えーと……それはどういう……?」
教頭が?マークをいっぱいつけたまま祖母を見上げると、祖母は慌てたように、
「ちょっと家庭の事情がありまして……お気になさらないでください。とにかく!」
バシッと手を叩いた音が部屋にこだまする。
「あかね先生を謹慎処分にするなんてやりすぎですよ。私も校長先生に抗議のお電話をと思ってましてね」
「いえいえ、佐藤さん、お気持ちは有り難いのですが……」
おば様二人が、いえいえ、いやいや、とやり取りしているのを、美咲は「面白~い」という顔をして見ている。綾さんは困ったように眉間にシワを寄せたままだ。
「……美咲さん」
「なに? 先生」
美咲の無邪気な笑顔に真っ直ぐ向かう。
「そして、おばあさま、お母様」
「…………」
はたと不毛な会話をやめてこちらを向くおば様二人。
「この度は、私の行動により美咲さんに恐怖心を与えてしまったこと……」
「別に恐怖心なんてないよ?」
頭を下げようとした私の肩を美咲が掴む。
「だから頭下げないで、先生。そんな先生見たくない」
「美咲さん………」
「先生の謹慎はすぐに解いてみせるから。待ってて先生。すぐに助けてあげる」
「…………」
美咲の目。やっぱり綾さんに似ている。奥の方に煌めく熱い光。その後ろにいる綾さんは……綾さんも静かな瞳に光を灯していた。
結局、謝罪の言葉も口にできないまま、佐藤家を後にした。
教頭は、「みんな怒ってなくて安心したわ~あなた本当に生徒に愛されてるわね~」なんて呑気にいっている。
問題はそこではない、ということを学校側は分かっていない。私のことはどうでもいいのだ。
問題は、美咲・菜々美・さくらの三人が鈴子に対して嫌がらせを続けていたということであり、菜々美・さくらはある程度の反省は見られたけれども、美咲がまったく悪びれていない、ということだ。
とりあえず、美咲には、私の謹慎を解くという目標ができたようなので、それが叶うまでは鈴子に手をださないだろうが、彼女の中の鬱憤を吐き出させないことには、遅かれ早かれ同じことが起こる。何か他のことに目を向けさせないと……。
「やっぱり演劇部に勧誘してみようかな……」
美咲のあの完璧な笑顔。彼女には女優の素質がある。ただでさえ華のある子だ。きっと舞台映えもする。
(そしたら、綾さん。衣装の指導員引き受けてくれるかな)
なんて、教師にあるまじき個人的欲望が頭をもたげたことは内緒にしておく。
***
謹慎二日目。水曜日の朝。
せっかくなので朝寝をした。二度寝三度寝とする中でたくさん夢を見た。そのどれもこれもが中学生レベルの夢で、しかも体も正直に反応していて、さすがに自己嫌悪に陥った。
「シャワー浴びよう……」
熱いシャワーを浴びて目を覚まさせる。お湯に打たれながらも、夢の中の綾さんを思い出して鼓動が早くなってくる。
(しょうがないよね……)
自分に言い訳をする。
だって、19年間ずっと待っていた人に会えたのだ。そして、19年3ヶ月ぶりに彼女を手に入れることができたのだ。
でも、まだ、まるで付き合いたての時のように、優しく優しく触れただけ。
昔のように激しく求め、乱れる綾さんを見たい。
「けどなー……」
ガシガシと乱暴に頭を拭きながら浴室から出る。
今回の謹慎に綾さんの娘が関わっている以上、今はそんなことのぞめない……。
昨日の日中も電話をしたかったけれど、この件について話さないわけにはいかないだろうと思うとできなかった。
夜に教頭と訪れた綾さんの家はものすごく立派なお屋敷で、その中にいる綾さんは私の知らない綾さんで、なんだかすごく遠くて……。
綾さんに会いたい。せめて声を聞きたい。
携帯を手に取ったけれど、発信ボタンを押す勇気がでなくてまたテーブルの上に戻す。
果てしないため息をついたところでインターホンが鳴った。そういえば頼んでいた本が届くのが今日あたりだった。気を紛らわすのにちょうど良い。
「はーい。ちょっと待ってくださーい」
印鑑を手にドアを開けたところで、
「!!」
思わず、印鑑を落としてしまった。そこにいたのは………
「落としたわよ?」
印鑑を片手に小首をかしげた、綾さんだった。
**
「今日は恋人として来たの」
綾さんが珈琲を差し出してくれながら、ストンと私の横に座った。
玄関口で情熱的に抱きしめたところ、
「髪の毛濡れてるじゃないの。乾かしてきなさい」
と、ものすごく冷静に怒られた私……。
大急ぎで髪を乾かして洗面台から出てきたら、綾さんがさっそく珈琲を入れてくれていたというわけだ。
「恋人として?」
思わぬ言葉に、胸が高鳴る。
「あかね、落ち込んでるんじゃないかと思って」
「……………」
「全然悪いことしたと思ってないのに、学校の言うなりに謝って回るなんて、辛かったでしょう」
「……………」
バレれてたのか。さすが綾さん。
おっしゃる通り。謝ったのは本心ではない。
美咲達には今まで何度も口頭で注意してきたが、伝わらなかった。それならば実力行使しか方法はなかった。私の力不足だと言われてしまえばそれまでだけれど、嫌がらせがエスカレートすることをどうしても止めたかった。
でも、学校の方針として、私のやり方が間違っていると判断されるのなら謝罪するのは致し方がない。それで物事がうまく回るのならいくらでも謝罪のセリフくらい言ってやる……と思えるくらいには大人になった。私も。
「なんでもお見通しだね。綾さん。……珈琲、おいしかった。ありがと」
飲みほし、テーブルにカップを置くと、
「あかね……」
綾さんはなんだか複雑な表情をしながらこちらをふり仰いだ。
「たぶん……担任の先生として私に言いたいことあると思うけど……」
「うん」
「私も、母親として担任の先生に聞きたいことあるけど……」
「うん」
「でも今は、恋人として、落ち込んでるあなたを慰めにきただけだから、その話はしなくてもいい?」
「綾さん……」
感動のし過ぎで言葉がでない。
でも、綾さんは下を向いて、言いにくそうに続けた。
「うちはずっとPTAの活動も義母がしてたから、私は他のお母さん達と全然繋がりなくて。だから義母みたいに署名集めもできなくて」
「そんなの……」
「ホント、役に立たないの。私」
「何言って……」
綾さん、また、あのつらそうな顔。
綾さんを苦しめているのは何? 私は助けてあげられない?
「綾さん……」
「でもね」
ふっと綾さんが微笑みを浮かべ、自分の腿をトントンとたたいた。
「恋人としてなら、役に立つ?」
「………綾さん」
遠慮なく、綾さんの腿にコロンと頭を預ける。
綾さんの膝枕、19年と……何か月振りだろう。
ゆっくりと髪をすいてくれる手。気持ちいい……。
「んー幸せ過ぎる……」
「………くすぐったいって」
昔のように綾さんの膝頭をすりすりとなでると、綾さんが昔と同じように笑った。
ああ、幸せ……。
(おれ、もう死ぬのかな? と思う)
ふいに浩介が言った言葉を思い出した。
「もう、死ぬのかな?、か」
「え?」
綾さんの手に優しく耳たぶを弄ばれ、夢心地になりながらつぶやくと、綾さんがきょとんと聞きかえした。
「何の話?」
「昔、浩介が言ってたの。慶君と一緒にいてすごく幸せだなーって思った時に、『おれ、もう死ぬのかな?』って思っちゃうんだって。変でしょ?」
「んー……そうねえ」
綾さんはしばらく、んーーっと言っていたが、
「分からないでもない気はする」
「え、分かる?」
「ようは、こんなに良いことがあったら、次には死んじゃうくらいの悪いことがくるかもってことでしょ?」
「ほー…」
明るく取り繕っているけれど、本当はひたすら後ろ向きの浩介の奴の考えそうなことだ。
「でもそれって、このまま死んじゃいたいくらい幸せって意味もあるのかもしれないわね」
綾さんの言葉に、えーーと思わず言ってしまう。
「幸せだったら余計に死んだらダメじゃないのよねえ? これからもっともっと良いことあるに違いないんだから」
「あいかわらず前向きね。あかねは」
小さく笑いながら綾さんが言う。なんだか寂しそうに。
私は頭の位置を変え、下から綾さんを見上げた。
「………綾さんは、浩介みたいな気持ちになったことあるの?」
「……あるわ」
ツーッと唇をなぞられ、ゾクゾクっとする。その手を握り問いかける。
「いつ?」
「……今」
綾さんは寂しそうに微笑んだまま言った。
「今、このまま時が止まればいいのにって思ってる」
「…………」
「今すぐ、地球が滅亡すればいいのに」
「綾さん……」
起き上がり、その愛おしい人を引き寄せ、抱きしめる。耳元にささやく。
「綾さん、9年後といわず、今すぐあの家を出ることは考えられない?」
「…………」
「子供たちも一緒に。3人養うくらいの蓄えはあるよ? だから……」
「あかね」
綾さんの唇にその先のセリフを止められた。優しく触れるだけのキス。
綾さんが柔らかい笑みを浮かべる。
「……ありがと。でも、大丈夫」
「綾さん、でも」
「このまま、あかねがそばにいてくれれば大丈夫」
「………………」
何が正解なのか分からない。
このまま時がくるのを待ち続けて大丈夫なのか、それとも強引に奪ってしまえばいいのか……。
でも今はとりあえず、せっかくの二人の時間を大切にしよう。
「えーっと。なんでもお見通しの綾さんは、私が今何を考えてるのか分かっちゃってるでしょ?」
わざと明るく、口調を変えていうと、綾さんはホッとしたように息をついてから、苦笑した。
「そうね。たぶんね」
「それはオッケーってこと?」
「んーーー」
「オッケーってことね?」
すばやく耳の横に口づける。綾さんがクスクスと笑いをこぼす。
綾さんの笑顔を守りたい。
そのために私ができることはなんなのだろう……。
その愛おしい人を抱きながら強く強く願う。
せめて、今、この時だけでも、心すべて体すべてで幸せを感じられますように……。
--------------------
また長くなっちゃった。
次回は満を持して、美咲視点。
………はい。満を持して、というのはウソです。
本当は、綾→あかね→綾→あかね、のみで行きたかったし、行くつもりだった。
でも、美咲の気持ちを美咲に喋らせるとどうしてもウソっぽくなるからさ。
美咲の本心も書きたいところなので、手っ取り早く美咲視点にすることにした。
美咲視点。楽しみのような難しそうなような……。
なんてのんきなことを言っている場合ではない。
一週間だったはずの謹慎処分は、3日で解けた。
生徒たちと保護者の方たちが署名活動を行ってくれたからだ。今はネット社会なので、あっという間に情報が広まり、あっという間に署名も集まったらしい。
保護者の代表として集めてくれたのは、PTA会長の菜々美の母親だったそうで、被害者(私から過剰な指導を受けた被害者ってこと)本人とその保護者が、私の処罰を求めていない、ということで、学校側も騒ぎが大きくなる前に謹慎を解いたらしい。
「あいかわらず人気者ねえ」
と、謹慎最終日に電話先の綾さんに言われた。
綾さんとは、担任として連絡を取るときには家の電話に、恋人(!)として連絡を取るときには携帯に電話をする、という約束をした。でも、携帯の通話料が上がって怪しまれては困るので、綾さんから連絡をしたい場合は、3コールで切って、私の方からかけなおす、ということに決めた。本当は私と通信用の携帯を買いたいところなんだけど、それが見つかったら面倒なことになるので、やむなく旦那契約の携帯を使うことに目をつむることにした。くっそー腹立つ……。
なんてのんきなことを言っている場合ではない。本当に。
気になるのは美咲たちのことだ。人気者、と綾さんが言ってくれたように、自分で言うのもなんだけど、私は生徒からも保護者からも人気がある。それなので、私が謹慎をくらったことで、他の生徒たちの怒りの矛先が美咲たちに向くことが一番こわかった。学校側が早々に解いてくれて助かった。
学級委員の瑞穂の情報によると、美咲・菜々美・さくらの3人は、私の処分が出てすぐに、みんなの前で謝り、署名運動を率先してはじめたそうだ。うまいこと立ち回ったな、という感じ。
謹慎初日の火曜日の夕方から夜にかけて、教頭先生と一緒に、菜々美、さくら、鈴子、そして美咲の家を訪問した。
菜々美の両親は子供の教育にとても力を入れており、菜々美は過度な干渉を受けている印象がある。
さくらは逆に、両親から関心を持たれていない印象。2つ年下の弟が受験生だそうで、余計に放置されている。
鈴子の家は、この学校に通う子の家にしては庶民的な感じだった。仲の良い兄と妹がいて、両親も子供と適切な距離を保っていて、好印象。今回の件の元々の被害者は、鈴子であるが、本人は「全然気にしてない」と言い張っている。本心なのか強がりなのか、それとも他に理由があるのか、今はまだ判別できない。
そして、美咲……。
せっかく月曜日の空き時間に、綾さんと初めての「恋人電話」を満喫したばかりだというのに(それはもう、砂吐くようなセリフをたくさん……)、このトイレ事件が起きたせいで、その夜には自宅の電話に教師として電話をすることになってしまった。綾さんは美咲から事情は聞いていたそうで、しきりと恐縮していた。
綾さんは美咲の精神年齢が幼く、今回も悪ふざけが過ぎてしまっただけだと思っているようだ。美咲の内面の黒さについて、どこまで話すべきかはまだ迷っている。親は子供のすべてを知るべきと考えている先生も多いが、私は、子供にだって親に隠したいことくらいあるし、親が子供のすべてを理解するなど不可能だと考えている。中学生にもなれば、子供はもう立派な一つの個体だ。その意思も人格も尊重するべきだと思う。
綾さんの家は、豪邸といってもいいほど大きかった。掃除するだけでも相当大変そうなのに、完璧にキレイに整えられている。さすが綾さん。
「この度は、美咲の悪ふざけで先生にまでご迷惑をおかけして……」
美咲の祖母が深々と頭を下げてくる。教頭が慌ててそれをとめる。教頭はもうすぐ定年の品の良いおば様。美咲の祖母と少し雰囲気が似ている。
「いえいえいえ、今日はこちらの指導が行き過ぎてしまったことをお詫びに伺ったわけでして……」
「行き過ぎなんてとんでもない!」
美咲の祖母が大げさに驚いたようにいう。
「悪いことをしたらビシッと叱るのが教育でしょう。それを今はなんだかんだと甘いことばかり…。その点、あかね先生はいいですわ。今回のご指導にも私共は感謝してるんですよ。ねえ? 綾さん」
「……………」
後ろに控えるようにして立っている綾さんが静かに肯いた。綾さん、家庭だとこういう立ち位置なんだな……。
「あの、お父様は何時頃お帰りに……?」
「今日はパパ、あっちの家の日だから帰ってこないよ」
「美咲!」
祖母の鋭い制止にこたえた様子もなく、美咲があっけらかんと言う。
「昨日だったらいたのに残念ー。ちゃんと今日あかね先生がくることも伝えたんだけど、あっちの奥さんが仕事で夜子供みないといけないから無理って言われたの。ねえママ?」
「…………」
目を伏せた綾さん。ニコニコしている美咲。……心配だ。どちらも心配だ。
「えーと……それはどういう……?」
教頭が?マークをいっぱいつけたまま祖母を見上げると、祖母は慌てたように、
「ちょっと家庭の事情がありまして……お気になさらないでください。とにかく!」
バシッと手を叩いた音が部屋にこだまする。
「あかね先生を謹慎処分にするなんてやりすぎですよ。私も校長先生に抗議のお電話をと思ってましてね」
「いえいえ、佐藤さん、お気持ちは有り難いのですが……」
おば様二人が、いえいえ、いやいや、とやり取りしているのを、美咲は「面白~い」という顔をして見ている。綾さんは困ったように眉間にシワを寄せたままだ。
「……美咲さん」
「なに? 先生」
美咲の無邪気な笑顔に真っ直ぐ向かう。
「そして、おばあさま、お母様」
「…………」
はたと不毛な会話をやめてこちらを向くおば様二人。
「この度は、私の行動により美咲さんに恐怖心を与えてしまったこと……」
「別に恐怖心なんてないよ?」
頭を下げようとした私の肩を美咲が掴む。
「だから頭下げないで、先生。そんな先生見たくない」
「美咲さん………」
「先生の謹慎はすぐに解いてみせるから。待ってて先生。すぐに助けてあげる」
「…………」
美咲の目。やっぱり綾さんに似ている。奥の方に煌めく熱い光。その後ろにいる綾さんは……綾さんも静かな瞳に光を灯していた。
結局、謝罪の言葉も口にできないまま、佐藤家を後にした。
教頭は、「みんな怒ってなくて安心したわ~あなた本当に生徒に愛されてるわね~」なんて呑気にいっている。
問題はそこではない、ということを学校側は分かっていない。私のことはどうでもいいのだ。
問題は、美咲・菜々美・さくらの三人が鈴子に対して嫌がらせを続けていたということであり、菜々美・さくらはある程度の反省は見られたけれども、美咲がまったく悪びれていない、ということだ。
とりあえず、美咲には、私の謹慎を解くという目標ができたようなので、それが叶うまでは鈴子に手をださないだろうが、彼女の中の鬱憤を吐き出させないことには、遅かれ早かれ同じことが起こる。何か他のことに目を向けさせないと……。
「やっぱり演劇部に勧誘してみようかな……」
美咲のあの完璧な笑顔。彼女には女優の素質がある。ただでさえ華のある子だ。きっと舞台映えもする。
(そしたら、綾さん。衣装の指導員引き受けてくれるかな)
なんて、教師にあるまじき個人的欲望が頭をもたげたことは内緒にしておく。
***
謹慎二日目。水曜日の朝。
せっかくなので朝寝をした。二度寝三度寝とする中でたくさん夢を見た。そのどれもこれもが中学生レベルの夢で、しかも体も正直に反応していて、さすがに自己嫌悪に陥った。
「シャワー浴びよう……」
熱いシャワーを浴びて目を覚まさせる。お湯に打たれながらも、夢の中の綾さんを思い出して鼓動が早くなってくる。
(しょうがないよね……)
自分に言い訳をする。
だって、19年間ずっと待っていた人に会えたのだ。そして、19年3ヶ月ぶりに彼女を手に入れることができたのだ。
でも、まだ、まるで付き合いたての時のように、優しく優しく触れただけ。
昔のように激しく求め、乱れる綾さんを見たい。
「けどなー……」
ガシガシと乱暴に頭を拭きながら浴室から出る。
今回の謹慎に綾さんの娘が関わっている以上、今はそんなことのぞめない……。
昨日の日中も電話をしたかったけれど、この件について話さないわけにはいかないだろうと思うとできなかった。
夜に教頭と訪れた綾さんの家はものすごく立派なお屋敷で、その中にいる綾さんは私の知らない綾さんで、なんだかすごく遠くて……。
綾さんに会いたい。せめて声を聞きたい。
携帯を手に取ったけれど、発信ボタンを押す勇気がでなくてまたテーブルの上に戻す。
果てしないため息をついたところでインターホンが鳴った。そういえば頼んでいた本が届くのが今日あたりだった。気を紛らわすのにちょうど良い。
「はーい。ちょっと待ってくださーい」
印鑑を手にドアを開けたところで、
「!!」
思わず、印鑑を落としてしまった。そこにいたのは………
「落としたわよ?」
印鑑を片手に小首をかしげた、綾さんだった。
**
「今日は恋人として来たの」
綾さんが珈琲を差し出してくれながら、ストンと私の横に座った。
玄関口で情熱的に抱きしめたところ、
「髪の毛濡れてるじゃないの。乾かしてきなさい」
と、ものすごく冷静に怒られた私……。
大急ぎで髪を乾かして洗面台から出てきたら、綾さんがさっそく珈琲を入れてくれていたというわけだ。
「恋人として?」
思わぬ言葉に、胸が高鳴る。
「あかね、落ち込んでるんじゃないかと思って」
「……………」
「全然悪いことしたと思ってないのに、学校の言うなりに謝って回るなんて、辛かったでしょう」
「……………」
バレれてたのか。さすが綾さん。
おっしゃる通り。謝ったのは本心ではない。
美咲達には今まで何度も口頭で注意してきたが、伝わらなかった。それならば実力行使しか方法はなかった。私の力不足だと言われてしまえばそれまでだけれど、嫌がらせがエスカレートすることをどうしても止めたかった。
でも、学校の方針として、私のやり方が間違っていると判断されるのなら謝罪するのは致し方がない。それで物事がうまく回るのならいくらでも謝罪のセリフくらい言ってやる……と思えるくらいには大人になった。私も。
「なんでもお見通しだね。綾さん。……珈琲、おいしかった。ありがと」
飲みほし、テーブルにカップを置くと、
「あかね……」
綾さんはなんだか複雑な表情をしながらこちらをふり仰いだ。
「たぶん……担任の先生として私に言いたいことあると思うけど……」
「うん」
「私も、母親として担任の先生に聞きたいことあるけど……」
「うん」
「でも今は、恋人として、落ち込んでるあなたを慰めにきただけだから、その話はしなくてもいい?」
「綾さん……」
感動のし過ぎで言葉がでない。
でも、綾さんは下を向いて、言いにくそうに続けた。
「うちはずっとPTAの活動も義母がしてたから、私は他のお母さん達と全然繋がりなくて。だから義母みたいに署名集めもできなくて」
「そんなの……」
「ホント、役に立たないの。私」
「何言って……」
綾さん、また、あのつらそうな顔。
綾さんを苦しめているのは何? 私は助けてあげられない?
「綾さん……」
「でもね」
ふっと綾さんが微笑みを浮かべ、自分の腿をトントンとたたいた。
「恋人としてなら、役に立つ?」
「………綾さん」
遠慮なく、綾さんの腿にコロンと頭を預ける。
綾さんの膝枕、19年と……何か月振りだろう。
ゆっくりと髪をすいてくれる手。気持ちいい……。
「んー幸せ過ぎる……」
「………くすぐったいって」
昔のように綾さんの膝頭をすりすりとなでると、綾さんが昔と同じように笑った。
ああ、幸せ……。
(おれ、もう死ぬのかな? と思う)
ふいに浩介が言った言葉を思い出した。
「もう、死ぬのかな?、か」
「え?」
綾さんの手に優しく耳たぶを弄ばれ、夢心地になりながらつぶやくと、綾さんがきょとんと聞きかえした。
「何の話?」
「昔、浩介が言ってたの。慶君と一緒にいてすごく幸せだなーって思った時に、『おれ、もう死ぬのかな?』って思っちゃうんだって。変でしょ?」
「んー……そうねえ」
綾さんはしばらく、んーーっと言っていたが、
「分からないでもない気はする」
「え、分かる?」
「ようは、こんなに良いことがあったら、次には死んじゃうくらいの悪いことがくるかもってことでしょ?」
「ほー…」
明るく取り繕っているけれど、本当はひたすら後ろ向きの浩介の奴の考えそうなことだ。
「でもそれって、このまま死んじゃいたいくらい幸せって意味もあるのかもしれないわね」
綾さんの言葉に、えーーと思わず言ってしまう。
「幸せだったら余計に死んだらダメじゃないのよねえ? これからもっともっと良いことあるに違いないんだから」
「あいかわらず前向きね。あかねは」
小さく笑いながら綾さんが言う。なんだか寂しそうに。
私は頭の位置を変え、下から綾さんを見上げた。
「………綾さんは、浩介みたいな気持ちになったことあるの?」
「……あるわ」
ツーッと唇をなぞられ、ゾクゾクっとする。その手を握り問いかける。
「いつ?」
「……今」
綾さんは寂しそうに微笑んだまま言った。
「今、このまま時が止まればいいのにって思ってる」
「…………」
「今すぐ、地球が滅亡すればいいのに」
「綾さん……」
起き上がり、その愛おしい人を引き寄せ、抱きしめる。耳元にささやく。
「綾さん、9年後といわず、今すぐあの家を出ることは考えられない?」
「…………」
「子供たちも一緒に。3人養うくらいの蓄えはあるよ? だから……」
「あかね」
綾さんの唇にその先のセリフを止められた。優しく触れるだけのキス。
綾さんが柔らかい笑みを浮かべる。
「……ありがと。でも、大丈夫」
「綾さん、でも」
「このまま、あかねがそばにいてくれれば大丈夫」
「………………」
何が正解なのか分からない。
このまま時がくるのを待ち続けて大丈夫なのか、それとも強引に奪ってしまえばいいのか……。
でも今はとりあえず、せっかくの二人の時間を大切にしよう。
「えーっと。なんでもお見通しの綾さんは、私が今何を考えてるのか分かっちゃってるでしょ?」
わざと明るく、口調を変えていうと、綾さんはホッとしたように息をついてから、苦笑した。
「そうね。たぶんね」
「それはオッケーってこと?」
「んーーー」
「オッケーってことね?」
すばやく耳の横に口づける。綾さんがクスクスと笑いをこぼす。
綾さんの笑顔を守りたい。
そのために私ができることはなんなのだろう……。
その愛おしい人を抱きながら強く強く願う。
せめて、今、この時だけでも、心すべて体すべてで幸せを感じられますように……。
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また長くなっちゃった。
次回は満を持して、美咲視点。
………はい。満を持して、というのはウソです。
本当は、綾→あかね→綾→あかね、のみで行きたかったし、行くつもりだった。
でも、美咲の気持ちを美咲に喋らせるとどうしてもウソっぽくなるからさ。
美咲の本心も書きたいところなので、手っ取り早く美咲視点にすることにした。
美咲視点。楽しみのような難しそうなような……。