「浩介先生……」
職員室のドアがソロッと開いて、ピンクの頭が覗きこんできた。ここの学校を昨年卒業したという目黒樹理亜だ。いつも圭子先生を訪ねてきている。
「あ、ごめん。圭子先生、研修会に行ってて今日は戻ってこないんだけど」
「ううん違うのー。今日は浩介先生に会いにきたのー。今、大丈夫ー?」
ほとんどの教室の授業が終わっているため、今もおれの他に5人の先生がデスクで仕事をしている。あまり他の先生には話を聞かれたくない。
「外で話そうか」
樹理亜を促し、廊下の隅の自動販売機横のベンチに腰かけさせる。職員室に近いせいか、いつもここは人がいない穴場だ。
「ジュース? コーヒー? 何がいい?」
「………ココアー」
下を向いたままの樹理亜にココアを渡し、自分はコーヒーを選ぶ。ザーッと勢いよくカップにコーヒーが注がれていく。
「で、どうしたの?」
「浩介先生、手は大丈夫ー?」
でっかい絆創膏みたいなものを貼っているおれの手を見て樹理亜が言う。
先日、樹理亜が自分の手首を切ろうとしたのをかばって、7針縫う怪我をしたのだ。
「大丈夫だよ。週明けに抜糸するらしい」
「そー……」
樹理亜はココアであたたまりたいように、ココア入りのカップを抱えこんだ。
「渋谷先生と浩介先生がお友達だったなんてビックリしたよー」
「あー……うん」
戸田先生と樹理亜には「高校時代の同級生」と説明してある。
樹理亜は大きくため息をついた。
「渋谷先生、ものすっごく怒ってたよねー……」
「あー……そうだね……」
慶の怒りは凄まじく……実はいまだに怒っている。
慶はおれのことになると、自分のこと以上にものすごくムキになる。
そういえば高校時代、おれがバスケ部の仲間に理不尽なことを言われたときも、あの小さい体(というと怒られるけど)で、相手の奴に掴みかかってくれたりしたなあ……なんてことを懐かしく思いだしたりした。
今回の事件後は、不自然なまでに樹理亜を避けて、怒りを直接ぶつけないよう気をつけていた感じだった。おそらく単純におれに怪我させた樹理亜に対して怒っているだけではなく、止めることができなかった自分への怒りもあるのだろう。
まあ、それだけおれが愛されているということだ。……なんて、不謹慎ながら嬉しくてたまらない。
実は今現在、怪我をしているおかげで、いまだかつてなく甘やかされている。
ご飯も食べにくいものは食べさせてくれて、髪も体も洗ってくれて、着替えさせてくれて、爪も切ってくれて……。こんな甘々な生活を送れるなら、何針でも縫っていい。
……とも思うけれど、でも家事の負担が慶にかかりすぎているので、やっぱり早く治したい。
それになにより、傷にひびくから、という意味の分からない理由でちゃんとやらせてくれないし。……いや、それはそれでイイ思いさせてもらったりもしてて、それはいいんだけど、ものすごくいいんだけど、でも色々……ああいうこともこういうこともできないのはやっぱり……。ああ、早く治さないと。
なんてとても口にはできない妄想を奥の方にしまい込んだところで、樹理亜がムッと頬を膨らませた。
「でも、あたし謝らないからねー? だって勝手に手をだしてきたの浩介先生なんだからねー?」
「そうだね。でもね」
すとんと隣に腰かけると、ビクッと樹理亜が震えた。謝らない、といいつつも、怪我をさせたことに対して申し訳ないと思っていることが伝わってくる。悪い子ではないのだ。
「おれが怪我してなかったとしたって、渋谷先生は怒ってたと思うけど?」
まあ、怒りの内容は違くなるけどね、という言葉は飲み込む。
「どうしてー?」
「渋谷先生には、助けたくても助けられなかった人がいっぱいいるし、生きたいけど生きられない人も今までいっぱい見てきたからね」
「…………」
「自分自身を傷つける目黒さんにも、目黒さんを止められなかった自分に対しても、ものすごく怒ると思う」
「でもさー……」
樹理亜が首をかしげてこちらをみた。
「あたしが傷ついても、関係なくない? あたしが痛いだけじゃん?」
「関係なくないよ。やだよ?」
「へ?」
きょとん、とする樹理亜。
「なんで?」
「なんでって、嫌に決まってるよ。だからおれだって思わず手出しちゃったんだよ? 君が傷つくのはおれも嫌だし、渋谷先生だって嫌だよ」
「…………意味わかんない」
意味わかんない。意味わかんない。樹理亜がブツブツブツブツ言い続けている。
落ちつくまでコーヒーを飲んで待ってみる。
この子は……何から逃げようとしているのだろう。どうしてリストカットを続けるのだろう。
リストカットをする理由にはいくつか種類がある。かつての教え子の中にリストカットをしてしまった子は2人いる。一人は、いじめを苦に。一人は、愛してほしい、という気持ちから。でも、樹理亜はそのどちらにも当てはまらない感じがする。
しばらくの沈黙の後、樹理亜がようやくポツリと言った。
「いつもはね……こう……まわりが映画館のスクリーンみたいになってるのが変な感じで……」
「…………っ」
離人症……。
はっとした。昔のおれと同じだ……。
「なんていうか……生きてんだか死んでんだか分かんないから、それ確かめるために切ってたっていうか……」
「…………」
おれにも覚えのある感情……。
樹理亜は、うーん、と天井を見上げながら言葉を継いだ。
「でもこないだ切っちゃったのは……あんまり覚えてないんだけど……。じぼーじき?」
「自暴自棄?」
「ママちゃんが、黒ママちゃんになって、お前なんか死んじゃえって言ったから」
「ママちゃん?」
誰? と聞くと、樹理亜は初めてココアに口をつけた。
「あたしのママ。白ママちゃんの時と黒ママちゃんの時があるの。黒ママちゃんは超コワイの」
「…………」
「でも、白ママちゃんはすっごく優しくって大大大好き。まわりがスクリーンみたいになっても、ママちゃんがぎゅーってしてくれたら直るの」
「…………」
「でね、渋谷先生は、ママちゃん以外で初めてスクリーンから出てきてくれた人なの」
「え」
驚いた。素の声が出てしまった。
「渋谷先生がね、こう、手をつかんでくれたとき……スクリーンから手が出てきたっていうのかな……」
「ああ……そうなんだ」
慶……。なんだろう。慶にはそういう力があるんだろうか。
「あ、変なこと言ってるこの子って思ってるでしょー?」
「いや、分かるよ」
樹理亜の言葉に本心から肯くと、樹理亜が鼻にシワをよせた。
「分かるよ、だってー。そういうこと言う大人って信用できなーい。ウソついてこっちの……」
「いや、本当に」
思わずふっと笑うと、樹理亜がどういうこと?と首をかしげた。
「おれも、中学くらいから目黒さんがいってたみたいになることよくあったんだよ」
「? スクリーンのこと?」
「おれの場合は、ブラウン管……って分かる? 今の子ってもしかして知らない? 昔は今みたいに液晶テレビじゃなくて、ブラウン管っていうのだったんだけど」
「分かる分かる。うちの前のテレビそうだった」
樹理亜が言うのに、肯きかえす。
「そう。おれはブラウン管の中って感じだったんだよ」
「それ……治ったの?」
「そうだね……ちょっとずつならなくなっていって、最後になったのは15年以上前かも」
実家を出て就職してしばらくしてからはならなくなった。考えるまでもなく、原因は実家にあったということだ。
「中学の時は本当にひどくて、四六時中ブラウン管の中だったし、色彩もよくわからなくて……白黒ともちょっと違うんだよね。全体的に褪せてるっていうのかな」
「ああ、うん。分かる」
こっくりと樹理亜が肯いた。ああ、この子、本当におれと一緒なんだな……。
「ねえ、それ、どうやって治したの?」
「それは……」
言っていいものかと躊躇したけれど、ここで話さないのもウソっぽくなるので心を決めて言葉を継いだ。
「渋谷先生のおかげだよ」
「え」
「中学の時に、偶然、渋谷先生がバスケットしてるところを見かけてね」
いまだに思い出すと胸が詰まるような感覚になる。あの時の慶。色褪せた世界の中で、唯一光り輝いていた。
「渋谷先生だけ鮮明な色がついてて……すごく綺麗で」
「えー素敵」
樹理亜が目をキラキラさせた。
「それでそれで?」
「偶然同じ高校に入学して、友達になったんだけど……渋谷先生と一緒にいるときは不思議とブラウン管にならなくてね……」
「へー。天使に癒される感じ?」
「いや……」
癒されるっていうのは違う気がする。いやもちろん癒されないことはないんだけど、それはまた別の話で……。
「強い力でぐいぐい引っ張られる感じかな。あの人、見た目はあんなだけど、中身は男らしいし、口悪いし、手も足もすぐ出るし」
「えー」
うそーと樹理亜が叫んだ。
「あんなに天使みたいなのにー?」
「だよね」
思わず笑ってしまう。
「おれなんかしょっちゅう蹴られてるよ」
「うそー」
あはは、と樹理亜も笑った。
「仲良いんだねー」
「そうだね……」
あまり余計なことは言わないように気をつける。
「でもさあ、そんなに仲良かったら、渋谷先生結婚したとき寂しくなかったー?」
「え……」
思わず黙ってしまう。なんと答えれば……
「あ、でも浩介先生も結婚してるのかー」
「え」
樹理亜がすっとおれの左手を取り、そして、指輪を見て「あれ?」と首をかしげた。
「この指輪……渋谷先生のと似てるねー」
「え」
「普通の輪っかじゃなくて、メビウスの輪みたいになってて……」
「あー……」
「似てるっていうか……同じ……?」
「え」
まずい。まずいまずいまずい。
あ、いや、動揺するな。普通に否定すればいいんだ。
「そう? 似て……」
「樹理亜ーーーー!!!」
もごもごとおれが言いかけた言葉に、女性の甲高い声が重なった。助かった!
ビックリしたように、樹理亜が立ち上がる。
「ママちゃん!」
「樹理亜!」
ケバケバシイ、という言葉がぴったりの女性が樹理亜をガシッとハグした。樹理亜と同じピンクの頭。折れそうなくらい痩せている。
「もーなんで勝手に行っちゃうの!」
「えー勝手じゃないよー。ちゃんと冷蔵庫のとこ書き置きしたよー」
「それが勝手だっていうの! ママも一緒に行くって言ったでしょ!」
「あ、そっか。ごめんごめん。浩介先生!」
樹理亜がハグから抜け出し、おれに向き直った。
「あたしのママー。美人ちゃんでしょ~。歳は先生たちの一コ下だよー」
「こら。樹理亜、歳を言わない!」
コツンと樹理亜を小突いた樹理亜ママ。一つ下?見えない……。5、6歳は上に見える……。
「浩介先生、この度は樹理亜がご迷惑をおかけしまして……」
「違うもん。先生が勝手に手だしたんだもん」
「樹理亜」
めっと樹理亜を再び小突くと、こちらに深々と頭をさげてくる。
「かばってくださったそうでありがとうございました」
「あ……いえ、どうも……」
何と言ったものか戸惑ってしまう。
樹理亜ママはこちらににじり寄り、媚びを売るような笑みを浮かべた。
「お怪我の具合はいかがですか?」
「あ、いえ、大丈夫です……」
「この子、昔から突飛でもないことする子で……ごめんなさいねえ」
樹理亜ママがいうそばから、樹理亜がふてくされたように母親の裾を掴んで引っ張った。
「ママちゃん、もういいよー。浩介先生は勝手に……」
「樹理亜」
ピシャリ、と強い口調。樹理亜がビクッとする。
「ママは樹理亜のために謝ってるのよ? それを何? さっきから……」
「ご、ごめんなさい」
途端に樹理亜が小さくなる。
(…………樹理亜のために謝ってる、か)
大きくため息をつきたくなるのを何とかこらえる。
「それで、先生? 治療費なんですけどね、うちとしてはわざとやったわけではないし、その……」
「ああ、結構です。いりません。単なる事故ですので」
「そうですか?」
ホッとしたような樹理亜の母親。
カバンからごそごそと名刺を出してきた。
「先生、私のお店。是非いらしてくださいね。サービスしますので」
「…………」
母親同様、ケバケバシイ名刺。店の名前………『ピンクピンクズ』
「私のラッキーカラーがピンクなので、持ちものは全部ピンクにしてるんですよ~」
「そう!だからあたしも小さい頃からピンクの髪の毛なんだよー!」
「ねー」
微笑み合う母と子。
小さい頃からピンクの髪? 「持ち物」は全部ピンクって……子供は持ち物なのか?
「じゃ、先生。お待ちしてますから」
「じゃーねー先生ー」
色々な思いが渦巻いて返事もろくにできないおれを置いて、目黒母娘ははしゃぎながら帰って行った。
「…………子供は親の所有物じゃない」
薄暗い廊下の隅で一人ごちる。自動販売機の機械音が響いている。
脳裏に、もう何年も会っていない自分の母親の面影がよみがってくる。
「子供は親の持ち物じゃない」
再度つぶやいたとき、すっと手足が冷たくなったことに気がついた。
(……まずい)
息が……苦しくなってきた。このままだと過呼吸の発作が起こる。
まずい。このままではまずい……。
「……慶」
そっとその名を呼ぶ。慶、慶、慶……と呪文のように唱える。
あなたの声が聞きたい。触れたい。その柔らかい髪に顔を埋めたい。
(………苦しい)
日本に帰ってきてから約2ケ月。今までに3度、発作を起こしている。日本を離れていた間は一年に一度程度しかなかったのに……。
慶には心配かけたくなくて、発作が起こったことは話していない。これからも慶の目の前で起こらない限りは話すつもりはない。知ったらきっと、慶は自分のせいで日本に帰ってきたからだ、と自分を責めてしまうだろう。
(………慶)
震える手で、携帯を取り出し、写真のデータを呼び出す。
慶の寝顔……胸があたかかくなってくる。
(大丈夫、大丈夫……)
慶の写真を見ながら、ゆっくり、ゆっくり息を整える……。
(慶……慶。大好きな慶……)
空気が入ってくる。大丈夫。大丈夫……。
よかった。本格的に苦しくなる前に引きかえせた……。
と、そこへ。突然、携帯が震えだした。ディスプレイに着信の表示が。
「!」
慶からの電話。反射的に通話ボタンを押す。
「慶!?」
「………早っ」
ビックリしたような、あきれたような声。聞きたかった大好きな声。
「何? 今、携帯使ってたのか?」
「あ、うん。今、ちょうど、慶の写真見てニヤニヤしてたとこ」
「…………。ばかだろ、お前」
あ、「あほ」じゃなくて「ばか」だって。相当呆れてるし照れてるな。慶。
「で、どうしたの?」
「あー、お前、まだ仕事?」
「んー……」
終わろうと思えば終わるし、終わらないと言えば終わらないという感じ……。
「おれ、もう上がれるんだよ。せっかく早いから飯、外でと思ったんだけど……」
「行く!」
やった! 早く会える!!
「おれも速攻で上がる!」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃなくても大丈夫! 今すぐ会いたかったからすっごく嬉しい!」
「…………」
何かツッコまれるかと思いきや、
「浩介」
真面目な声。
「お前、何かあったのか?」
「……どうして?」
出来るかぎりの普通の口調で言うと、
「なんか……泣いたあとみたいな声してる」
「……………」
ぐっとつまる。バレるわけにはいかない。明るい声で言い返す。
「あ、うん。泣いてた。慶に会いたくて」
「……………」
慶はあきれたようなため息をつくと、「まあいいや」とつぶやいた。
「じゃあ、終わったら連絡くれ」
「わかったーあとでねー」
幸せな余韻に浸りながら電話を抱きしめる。
ああ、早く会いたい。早く会いたい。
「………あ」
立ち上がり、椅子の上に放置されていた名刺に気がついた。
毒々しいピンクの名刺……。
このまま放置していきたいところだけれど、校内にキャバクラの名刺を置いておくわけにはいかない。
しょうがなく、拾ってポケットに入れる。その場所だけズッシリ重くなった気分だ。
樹理亜のリストカットはおそらくまだ続くだろう。
なんとかしてやりたい、という気持ちと、教え子でもなんでもないもうじき成人する女の子にあまり関わるのもまずいだろう、という気持ち。それに……自分のトラウマに抵触することが怖い、という気持ちが複雑に入り混じっている。
「…………大丈夫、大丈夫」
もう一度、静かに息を吸い込む。左手の薬指の指輪をぎゅっと握る。
おれには慶がいるから大丈夫。
--------------------------
はあ。書いてるこっちまで苦しくなってきた。
「いまだかつてなく甘やかされている」浩介の話を書きたくなってきた。
もちろんR18話なわけですが……そのうち書こーっと。
通常、この2人、浩介がまめまめしく慶の世話をしたがる感じなので、
浩介がされるっていうのは新鮮でいいですな。怪我した甲斐がありましたな。
でもきっと、慶は体洗ったりしてくれるのも、淡々と事務的にやりそう……。
次は、慶の妹、南ちゃん視点、いっときますかね~。
南ちゃん、母になってもあいかわらずの腐女子です。
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