病院の駐車場に停めた車の中で、長い長いキスをした。
フロントガラスに置いたサンシェードのおかげで外からは見えない、はず。
それでも、いつもだったら、速攻で押し返されるか頭突きされるかするのだけれど、今日の慶はされるがままでいてくれた。そして、おれの震える手をぎゅうっと握りしめてくれた。
「大丈夫。大丈夫」
コツンとおでこを合わせて、呪文のようにいってくれる。
「おれがついてるからな」
「……うん」
こっくり肯き、再び唇をあわせる。
大丈夫。おれには慶がいるから大丈夫。
慶の優しい唇を味わいながら、おれも呪文のように心の中で繰り返した。
今日は母親との合同カウンセリングの日だ。
母とは5か月ほど前に数分会ったが、その時にはおれは嘔吐と過呼吸の発作でまともに話すことができなかった。先週偶然見かけたときは話しかけなかった。だから、こうしてきちんと対面するのは12年以上ぶりになる。
カウンセリングルームのドアの前で息を整える。
母はおれより15分早く呼ばれているので、もう中にいるはずだ。心臓が体から飛び出てしまうのではないかと思うくらい跳ね上がっているのに、頭の中は妙に冴えている。
「……じゃ、いくね」
「ああ」
横にいてくれる慶の手を一瞬だけ握ってから、ドアをノックする。
「どうぞ」
戸田先生の、低めの落ちついた声を受けてドアを開けると……
「………」
泣きそうな、嬉しそうな、困ったような顔をして、ハンカチを握りしめながらソファーに座っている母の姿が目に飛び込んできた。記憶よりも少し小さくなった印象の母の姿……。
「浩介っ」
「………っ」
(浩介! あなたはどうしていつもいつも……)
母の声に軽いフラッシュバックが起こり、立ち尽くしてしまう。そこへ、
「……浩介」
とん、と背中を支えられた。慶の温かい手……。途端にフラッシュバックが止む。
同じ「浩介」という単語を言っているのに、慶の「浩介」という言葉はなんて甘くて優しくて、幸せで包んでくれるような響きなんだろう……。
「どうぞ、お二人ともお座りください」
「あ……はい」
戸田先生の声に我に返る。
「……大丈夫か?」
「ん」
小さく聞いてくれた慶に肯いて、覚悟を決めて母の前に座る。さあ、これからが勝負の始まりだ。
**
カウンセリングは、戸田先生が司会者となり、両方の言い分を引きだしていく、というまるで会議のようなものだった。そのビジネス的な雰囲気のおかげで、自分でも驚くほど冷静に、こちらの言い分を言葉にすることができたと言える。
母も、今までならば、ヒステリックに怒鳴り散らして最後まで聞かなかったような話でも、ハンカチを握りしめたままジッと耐えて聞いていた。それは、戸田先生と慶という2人の他人がこの場にいるからなのか、今まで受けていたカウンセリングのおかげなのか、12年という年月で少しは変わったからなのか、それはわからない。
おれの要求は一つだけだ。もう二度と、干渉してほしくない。
大学まで出してもらったことには本当に感謝している。その教育資金を返済することも考えている。それで勘弁してほしい。
「お金なんていらないわ……」
母がポツリという。
「私は時々でいいから、あなたがうちに顔を出してくれたらどんなに嬉しいか……」
「無理です」
自分でも冷たいと思うけれど、冷たい言い方しかできない。
「百歩譲って、一年に一度、正月に顔を出します。それでいいですか?」
「一年に一度って……」
大きくため息をつく母。
「お父さんももう、82よ。一年に一度なんて言ったらあと何回会えるか……」
「…………」
82、か。もうそんなになるんだ。父と母は一回り離れているので、母は70ってことになる。
父のあの威圧的な目を思いだして身震いしてしまう。
「お父さんは僕とは死ぬまで会いたくないと思ってると思いますけど?」
「そんなこと……っ」
ない、とは言えない母。やっぱりあるだろ。あの父がおれを許しているわけがない。
母は気を取り直したように顔をあげた。
「私は、あなたに会いたいわ。だって親だもの。当然でしょう? あなただって親になれば分かるわ。今からでも全然遅くないわよ。あなたが生まれたのだって、お父さんが今のあなたくらいの歳だったんだから。今から結婚して子供を持ちなさい。そうすれば自分の子供がどんなに大切かもわかるし、孫が生まれたらお父さんだって……」
「それは無理です」
やはり出た。昔と変わらない母の押しつけに、思わず冷笑を浮かべてしまう。
「僕は渋谷君以外の人は考えられない。それに子供も絶対にいらない」
あなたたちみたいな親になりたくないから。だから……
「こんな思いをするのはおれまでで沢山だ。子供なんて絶対に作らない」
「………どういう意味?」
「どういうって……」
きょとんとした母に、猛烈に腹が立ってくる。この人は本当に本当に何も分かっていない!
「あなたはやっぱり何も分かってない。おれがあなたたちのせいでどれだけ苦しんできたか……っ」
「桜井さん」
「浩介」
とんっと太腿に手を置かれ、言葉を飲む。慶の手。温かい手……。
そうだ。ここで冷静さを失ってどうする。
「話がそれたので、戻しましょう」
戸田先生があげかけた腰を下ろし、ピッと人差し指を立てた。
「お母様のおっしゃる『時々』というのはどのくらいの頻度ですか?」
「え」
母がまだきょとんとしたまま、戸田先生を見返す。
「そうね……月に一度……」
「ありえない!」
思わず叫ぶと、再び慶にトントンと太腿を叩かれた。冷静に冷静に……
深呼吸をしてから、母に向き直る。
「一年に一度が少ないというなら、お盆も足します。盆と正月。それで充分でしょう?」
「浩介……」
演技かかった様子で母が下を向く。
「どうしてそんなになっちゃったの? 昔は私がいないと泣いてばかりの子だったのに……」
「いくつの時の話してるんですか。申し訳ないけど、そんな記憶は残っていません」
呆れてしまう。
「僕の記憶の中のあなたは、いつもヒステリックに怒っている母親でしかない。僕はあなたから逃げたくてしょうがなかった」
「そんな……」
母がまた演技の続きでハンカチを目もとにあてる。
「私はあなたのことを思って、心を鬼にして叱って……」
「おれのため、おれのため。いつでもあなたはそう言っておれを追い詰めた」
叩かれ、なじられ、否定され……。ようやく逃げ出したのにやっぱり雁字搦めになっている。
どうしても、逃れられない。あの時の記憶から。そしてこれからも同じことが起こるのではないかという恐怖から……。
「浩介……」
涙目の母にじっと見られ、即座に視線を逸らす。
おれはやっぱりどうやっても、母を許すことができない……
『許すも何も、だってママだよ?』
「!」
ふいに蘇る、樹理亜の言葉……。
価値観を押しつけられ、売春までさせられたというのに、樹理亜はケロリと言ってのけたのだ。
『何があっても大好きに決まってるじゃん』
「………」
そんなこと……そんなこと、おれには絶対に言えない。
おれにとって、母とは何なのだろう。
母にとって、おれは………
母が涙目で迫ってくる。
「浩介にとって、私は邪魔でしかないの? 私と過ごしてきた時間は全部嫌なものばかりなの?」
「………」
母と過ごしてきた時間……?
部屋に押し込められて勉強させられて、間違ったら背中をひどく叩かれて……
それ以外に何かあったか? それ以外には何もないじゃないか。
「おれは……」
「桜井さん」
答えようとしたところで、戸田先生に遮られた。
「すみません。少し急ぎ過ぎたようです。今日はここまでにしましょう」
「え」
出鼻をくじかれ固まってしまった。今日はここまで?
「来週はお盆休みですので……再来週、お一人ずつにお話伺って、その次に再び今日のような形を取るということでいかがでしょう?」
「え……」
「そんな先生、私は浩介の答えを……」
「渋谷さん」
戸田先生が母の言葉を遮って、慶に視線を向けた。
「渋谷さんから何かありますか?」
「私ですか?」
慶は驚いたように目をぱちくりとさせ、戸田先生、おれ、母………と視線を移した。
「そうですね………」
皆が注目する中、慶は「ああ」と手を打った。
「油揚げ」
「え?」
油揚げ? 皆の頭が???となる。慶は気にした様子もなく母に問いかけた。
「油揚げの中に、豆腐とかシーチキンを入れたのをフライパンで焼いた料理、ありますよね?」
「え……ええ」
慶、何を………。
「あの中の調味料、何使ってますか?」
「え……」
母が、いぶかしげに答える。
「おしょうゆとマヨネーズだけど?」
「マヨネーズ?」
思わず声をあげてしまい、母にビックリしたように見られ、慌てて口を閉じる。
(あのコクはマヨネーズだったのか……)
納得だ。
「何の話ですか?」
戸田先生の問いに、慶が答える。
「昔一度、彼が作ってくれたことがあるんですよ。でも、何か違う、とか言ってそれ以来作ってくれなくて」
そう。記憶を頼りに作ったけれど、何か足りない味になってしまい、悔しくてその後作っていなかったのだ。
慶がニコニコとおれの腿をたたいた。
「これで問題解決だな。あれまた作ってくれよ」
「………慶」
慶、そんな大昔のこと、よく覚えてたな………。
「桜井さんお料理上手なんですよね?」
「ええ。そりゃあもう」
戸田先生の言葉に慶が嬉しそうに肯く。
「毎日色々なもの作ってくれます。何しろ彼の長所は料理が上手なところですから」
「もう、慶……」
それが長所ってどうなの? と、肘でつつくと、慶が「本当のことだろ?」とつつき返してきたので、小さく笑い合ったが、
「そう……」
割りこんできた母のつぶやきに、おれも慶も口をつぐんだ。
「浩介、私が作ってたお料理、作ってくれたの」
「え」
そちらをみて、ぎょっとする。
母の目にうっすらと涙が……。先ほどまでの演技のような涙ではなく、たぶん、本物の……
「嬉しいわ」
母は静かに言って、ハンカチで目じりをぬぐった。
「嬉しい……」
「………お母さん」
なぜか突然、脳内に母のオムレツの味がよみがってきた。
フワフワしてた。どうしてもあのフワフワ感は再現できない。
とても、おいしかった。……おいしかった。
「では、桜井さん」
「は、はい」
戸田先生の声に我に返る。振り仰ぐと、戸田先生がニッコリといった。
「次回の合同カウンセリングまでに、お母様にお聞きしたいレシピの一覧を作成してきてください」
「え」
「宿題ですよ? 渋谷さんもお手伝いしてあげてくださいね?」
変な宿題を出されてぽかんとしている間に、第一回合同カウンセリングは終了した。
**
母をカウンセリングルームに残し、おれと慶は先に急いで退出した。
仕事を抜け出してきてくれている慶を、車で勤務先の病院に送り届けるためだ。
「……変な宿題だされちゃったね」
「だな。でも」
おれが言うと慶はちょっと嬉しそうに言った。
「おれはこれでまた更にお前の料理の腕が上がったら嬉しいけどな」
「嬉しい?」
「うまいもん食えるのも嬉しいし、みんなに自慢できるのも嬉しい」
「慶……」
かわいいかわいい慶に手を伸ばし、ぎゅっとその手を握る。
「今日はありがとね。慶がいてくれたから大丈夫だった」
「ああ、わりと普通の仲の悪い親子っぽかったよな」
「なにそれ」
笑ってしまう。普通の、仲の悪い親子。それで十分だな。
「じゃ、今日の夕飯はさっそく油揚げな」
「わかった。じゃあ、お仕事頑張ってね」
「ん」
最後にもう一回、ぎゅううっと手を握ってくれてから慶が車をおりた。
颯爽と病院に向かって走っていく後ろ姿を見送りながら一人ごちる。
「オムレツ……慶も好きだよな……」
思いだす。先ほどの母の声……
『浩介にとって、私は邪魔でしかないの? 私と過ごしてきた時間は全部嫌なものばかりなの?』
………母との時間。
嫌な思い出しかないけど……でも、ご飯はおいしかった。
特に、平日の昼食は、父がいないから、おれの好きなものを作ってくれた。手作りのプリンもおいしかった。
『全部嫌なものばかりなの?』
たぶん……母の料理を食べるのは嫌いではなかった。
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以上です。
最後までお読みくださりありがとうございました!!
細かい話ですが、慶と浩介は普段は「おれ」ですが、慶は公の場では「私」、浩介は「僕」か「私」です。
浩介は親と話す時は基本「僕」ですが、感情が高ぶると「おれ」になります。
戸田先生は、普段は慶のことを「渋谷先生」と呼んでますが、カウンセリングの時は「渋谷さん」と呼びます。
……なんてどうでもいいですね? いや、私の中のこだわりポイントでして^^;
ということで。真面目な話ですみません……。次回もよろしければ、お願いいたします!
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