『大好きだよ』
耳元で囁かれた甘い言葉を思いだしては、どうしようもなく顔が緩んでしまう。
やはり『思い』というのは言葉にするべきなのだ。
昔からのあれやこれやをずっと思い出してみたのだが……慶にここまでハッキリと『好き』と言われたのは、高校の時におれが告白したのに対する返事以来じゃないだろうか? ……いや、あの時も「ずっと好きだった」って言われたんだ。それ以降も、会話の中で言ってくれることはあった。「そういうお前のこと好きになったんだ」とか、そういう感じで。だから、
『好きだよ』
……うん。ない。はじめてだ。
でも、『~~だよ』って言い方は、イマイチ慶っぽくないな、とも思う。ちょっとセリフちっくだ。
いつもの慶だったら、そうだなあ……『好きだ』?『好きだぞ』? ……うーん。やっぱり『好きだよ』になるのかなあ……
「センセー夏休み中何かあったのー? 超機嫌いいー」
「え」
しまった。新学期早々、生徒に冷やかされ、いかんいかん、と顔を戻す。
「みんなに会えたのが嬉しくて機嫌がいいだけだよ」
「わー調子いいー」
笑う一人一人の顔をチェックする。
不安になっている子はいないだろうか。ここはみんなの居場所になっているだろうか。
ここは普通高校とは少し違う。心に傷を負った子供たちを受け入れる砦なのだ。
慶がおれの光となってくれたように、おれも一人でも多くの子供を励ます光となりたい。
***
おれが中学校で不登校になった原因は、クラスメートからのイジメだった。
教室に入れず、いわゆる『保健室登校』をしていたが、それでも登下校待ち伏せされ執拗な嫌がらせを受けたため、中学2年からは登校もほとんどできなくなった。
定期テストは母に付き添われて登校して受けさせられていたのだが、そこで毎回、学年上位の成績を取っていたのも、イジメグループの気に触ったらしい。
父は、学力至上主義者だった。「成績表は教師の主観が入るが、実力テストには純粋に学力のみが反映される。だから成績表はいくら悪くても構わないが、テストだけは良い点数を取らなくてはならない」と、よく父に言われていた。
父はおれにとって恐怖の対象でしかなかった。眼鏡の奥の鋭い瞳に睨まれると、竦んで身動きがとれなくなった。たぶん母もそれは同じで、母がおれに折檻までして勉強を強要したのは、父の機嫌を損ねたくなかったから、というのが一番の理由だったのだと思う。父は王様。おれと母はその駒でしかなかった。
その恐怖心は根強く、大人になって実家を出てからも、日本を離れてさえも、消えることはなかった。母に対しては恐怖心よりも嫌悪感のほうが強い気がするが、父に対してはひたすら恐怖を感じていた。
そんな父が、倒れた、と母から連絡があったのは、2回目の合同カウンセリングの翌週、おれが一人でカウンセリングを受けていた最中だった。
おれは母に連絡先を教えていないので、母がクリニックに電話してきたのだ。
倒れた、といっても病気ではなく、本当に「倒れた」そうだ。リビングの電球の入れ替えをしている最中に脚立から転落したらしい。足が腫れていて歩けないから病院にも連れていけず、でも救急車も呼ぶなと言われて困っている、と……。うちのリビングは天井が高いので、かなり高くのぼる必要がある。下手をすると骨折しているかもしれない。
「どうぞ行って差し上げてください。今の桜井さんだったら大丈夫ですよ」
「…………はい」
主治医の戸田先生に背中を押され、戸惑いながらも肯く。
父に会うのは12年以上ぶりになる。
***
久しぶりに見る父は、矍鑠としていてとても82歳には見えなかった。それでも、記憶の中にある父よりも2回りくらい小さくなった気がする。そのせいか、恐怖で身が竦むという現象は起きなかった。
父はおれを見るなりムッとした表情を浮かべたけれども、何も言わず、おれの背中にのり、車まで大人しく運ばれた。初めて父をオンブした。……というか、父とこんなに体を密着させたのも初めてだと思う。
予想よりも体重の軽い父に少し衝撃を受けた。おそらく、背は慶よりも高いけれど体重はずっと軽いのだろう。まあ、慶は筋肉で重いとも言えるのだが……。普段から慶のことをふざけて抱っこしたりオンブしたりしていて良かった。おかげで、まったくふらついたりせずに父を運ぶことができた。
駐車場から病院へは、車いすを借りて移動した。その間も父はほぼ無言だった。した会話といえば、
「痛くないですか?」
「大丈夫だ」
これだけだった。それでも、声が震えなかった自分を自分で褒めたいくらいだ。
検査の結果、足首は捻挫だったのだが、左手首が折れていることが分かった。入院と手術が必要だという。
「お父様、そうとう痛かったと思いますよ。この年代の方は我慢強すぎて困る」
診察してくれた医師にあとからこっそりと言われ、父らしくて少し笑ってしまった。
入院に必要なものを取りに戻る車の中、母がぽつぽつと話しだした。
「お父さんねえ、庄司さんと喧嘩別れしちゃったのよ」
「………喧嘩?」
庄司さんとは、おれが小学生の時から父の事務所で働いていた、おれより15歳年上の男の人だ。
おれが弁護士にならないと宣言してすぐに、父は庄司さんを跡取りと決めた。5年ほど前に事務所も庄司さんに譲り、自分は顧問として時々顔を出していたらしいのだが……
「色々口出しされることに庄司さんがとうとう我慢できなくなって……」
それで、今まではうちのこまごまとした男手の必要なこと………大掃除とか、それこそ電球の付け替えなどは、庄司さんが親切でやりにきてくれていたのだけれども、喧嘩して以来、まったく来なくなってしまったため、父がすることになってしまったそうだ。
あの父が脚立にのり、小さくなったあの体で電球に向けて手を伸ばしていたと思うと、なぜか胸が傷んだ。
「もう仲直りは無理だと思うのよね」
頬に手をあて、ため息をつく母。
「でもお父さんももう歳でできないことあるし、これからも今回みたいなことがあるんじゃ、ホント困っちゃうわ」
「………電球くらい」
うつむいた母を見て、ほとんど無意識に、言葉を発していた。
「電球くらい、僕がつけかえますよ」
「え」
「え?」
自分でも驚く。おれ、今、何言った?
「そう……ありがとう。助かるわ」
「あ……いえ」
何言ってんだ?おれ……
嬉しそうに微笑んだ母から慌てて目をそらす。ハンドルを握る手に汗が染みてくる。
「さっき、お父さん背負ってる浩介みてて、ほんと感心しちゃったわ。もうすっかり大人ね」
「…………」
40過ぎた息子に、今さら大人ってことないだろ、と言いたいところだけれども、たぶん母の中ではおれはまだ大学4年の22歳で止まっているんだろうな、と思う。
「明日の手術って、全身麻酔なんですってね。腕を手術するのにどうして全身を麻酔するのかしら?」
母は手を揉み絞りながらブツブツと言っている。この仕草、昔から変わらない。
「全身麻酔って危険じゃないのかしら。これで何か障害が残ったりしたらと思うとこわいわ」
「………」
「ねえ、浩介、明日の手術の時、一緒にいてくれる?」
「………え」
ごくごく普通に言われ、戸惑ってしまう。
おれはずっと両親のことを憎んでさえいて、ずっと避けてきた。こうして母と二人きりで話すのも12年以上ぶりだ。でも、母はそんなことなかったかのように、普通に言う。
「私一人じゃ何かあっても判断できないもの。お願い」
「…………。分かりました」
何だかおれも、22歳の大学生に戻ったような気分だ。
**
病院を往復して、実家の電球まで変えたので、すっかり遅くなってしまった。
母に夕飯食べていく? と言われたけれど、せっかく今日は母に対してムカつくことがなかったのに、これ以上一緒にいて、また地雷を踏まれたら嫌なので、丁重にお断りをした。すると、
「じゃあ、これ、渋谷君と食べなさい」
「え」
タッパーを3つ渡された。ひじきの煮ものと、なすの味噌いためと、かぼちゃの酢豚。
「なすは昨日のお夕飯の残りだから今日中に食べたほうがいいかも。ちゃんと火通してね」
「あ……はい」
受け取り、頭を下げる。
渋谷君と食べなさいって……。
「ありがとう……ございます」
「じゃあ、明日よろしくね」
「…………はい」
渋谷君と………
心に温かいものが灯る。
渋谷君と。渋谷君と。
母がそんなこと言ってくれるなんて。
「お母さん」
「なに?」
首をかしげた母をじっと見つめる。この人も歳を取ったな………。
ふっと言葉が自然に出てきた。
「おやすみなさい」
「…………え」
びっくりしたような母を置いて玄関を閉める。母に「おやすみ」なんて言ったの、大学卒業以来だ。
***
その日の夜……
「慶、ちょっとおれのことオンブしてみてくれる?」
「………は?」
食事の後片付けも全部終わり、お風呂も入り、あとは寝るだけ、の状態になったところで慶にお願いしてみる。
案の定、その綺麗な眉を寄せた慶。
「何言ってんだ?」
「いや、今日、父をオンブしてるとき思ったんだよね。おれが将来、足腰立たなくなったとき、慶はこうやってオンブしてくれるのかなあ…とか」
「するけど……」
でも、おれ達同じ歳だからな? どっちが先に体がきかなくなるかなんてわからないだろ?
眉を寄せたまま言う慶に、いやいやいや、と手を振る。
「どう考えても、慶の方が健康だよね? 絶対おれの方が先にダメになるって」
「だからお前も鍛えろって言ってるんだよ。……ほら」
向けられた背中に、えいっとしがみつく。
すると、とんとんっと体が宙に浮き、軽々とオンブされた。
「わあ、すごい!」
思わず感嘆の声をあげてしまう。慶はおれよりも13センチほど背が低い。でもそんなこと関係ないようだ。
「別にすごかねえよ」
言いながらも、慶はおれをおぶったまま、ウロウロと歩き回ってくれた。そして、時々下にずりおちてくるのを、また、とんとんっとおれの体を宙に浮かせて、元の位置に戻してくれる。
「んー……」
その浮遊感、そして慶の腰のあたりに押しつけるようになっている感じ、慶の髪の匂い……これは、ヤバい。
落ちつかせようにも落ちつかない。というか、落ちつかせなくてもいいのか? どうなんだ?
どうしようかと、モゾモゾとしていたら、
「お前……」
おれの異変に気がついた慶に、オンブの手を離されてしまった。途端に床に足がついてしまう。
「何勃ってんだよ」
「ごめん、だってさー……」
後ろからぎゅうううっと抱きしめる。
「どうしよう。おれ絶対、足腰立たなくなっても、慶にオンブされたら元気になっちゃう」
「アホか」
心底呆れたように慶がいう。
「そのころにはもうそんな元気ないだろ」
「えーわかんないよー。すっごい元気かもよー」
今の父と同じ歳になるのは、約40年後……。おれ達、どんな風に過ごしてるんだろう。想像もつかない。
でも、一つだけわかっているのは……
「ああ、良い事思いついた」
「何だ?」
眉を寄せたまま振り返った慶の唇にそっと口づけ、にっこりとする。
「オンブする前に、やっとけばいいんだよ。その直後ならいくらなんでも勃たないでしょ」
「………色々ツッコミどころ満載な提案だな」
「そう?」
「お前、ほんとアホだよな」
「そうかなあ」
言いながら唇を重ねる。慶の唇。愛おしい唇……
「40年後……」
慶の細い腰を抱きながら、その白い耳にささやく。
「40年後もこうして一緒にいようね?」
「………当たり前だ」
背中に回された手にぎゅうっと力が入る。
「慶、大好きだよ」
「……ん」
40年後、どんな風に過ごしているのかはわからない。
でも、一つだけわかっていることがある。
それは、おれ達が一緒にいるということ。
もしも、どちらかがいなくなっていたとしても、魂だけとなっていても、おれ達は必ず一緒にいる。
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以上です。
最後までお読みくださりありがとうございました!!
老いた両親と向き合う……ようやく、ようやく、向き合える日がきました。
このシリーズも、残すところあと数回。
こんな真面目過ぎるお話にお付き合いくださり本当にありがとうございます。
次回もよろしければ、どうぞお願いいたします!
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クリックしてくださった方々、本当にありがとうございます!
カウント数に励まされ、ここまで書き続けてまいりました。おかげで、ようやく父親との対面も果たしました。
本当に本当に感謝しております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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