2015年12月3日(木)
2週間ぶりにみた目黒樹理亜は、ひどい顔をしていた。リストカットを繰り返していた頃に戻ってしまったような表情……。せっかくここ数ヵ月、通院回数も薬の量も減っていたのに……
「樹理ちゃん。なにがあったの?」
「…………」
樹理亜は蒼白な顔をしたまま首を振ると、苦しそうに言葉を吐き出した。
「壁に囲まれて苦しくて息ができない……」
「…………」
「慶先生に会いたい。慶先生に会ったら壁なくなるから……」
それだけ絞り出すように言うと、胸を押さえて下を向いてしまった。
「…………西田さん」
情報通の看護師、西田さんを振り返ると、西田さんはわずかに眉を寄せて、
「今日は小児科、研修会なんですよ。もう出てるはずです」
「そうですか……」
タイミング悪いな。午前中なら診察あったから病院にいたのに……
「でも」
西田さんは樹理亜の肩をガシッと掴んで、自分の方を向かせると、
「駅まで走って行ってみる? もしかしたら間に合うかも」
「え」
樹理亜は目を見開き、うん、うんうん、とうなずいた。西田さんはニッと笑うと、
「戸田先生、いいですよねー?」
「あ……はい」
苦笑してしまう。我が道を行く西田さんには誰も逆らえない。
まあ、元々、樹理亜は突然来たため予約と予約の間に無理矢理ねじ込んだので、時間もないのだ。西田さんの提案に乗ってみよう。
「渋谷先生に会えても会えなくても、戻ってきてくださいね」
「はい。じゃ、行こっ」
「…………ん」
西田さんに連れられて出ていく樹理亜の後ろ姿に不安を覚える。いったい何があったんだろう………。
その後、一人の患者さんの診療が終わってから、再び樹理亜が診察室に入ってきた。
(…………良かった)
先ほどよりもずいぶん落ち着いていた。どうやら会えたらしい。
「見てこれー慶先生がくれたのー」
見せてくれたのは、オレンジ色ののど飴。くまのかわいいパッケージ。
「浩介先生のお気に入りの飴なんだってー。慶先生が今日研修会で発表があるっていったらお守りがわりにくれたんだってー。2個あるから1個お裾分けだってー」
「そっか」
あいかわらず仲が良い渋谷先生と桜井氏。同性のため結婚はできない二人だけれども、新婚さんのようにラブラブで、それでいて熟年夫婦のような雰囲気も醸し出している。
「それで、樹理ちゃん。壁は……」
「こっぱみじんこ」
それをいうなら「木っ端微塵」。というツッコミは横に置いておく。
「それは良かった」
「でもねーそのあとねー怖かったんだよー。どうしようー」
「怖かった?」
聞き返すと、樹理亜はシーっというように指を口元に当てた。
「あいつ……いたの」
「あいつ?」
コクコクとうなずく樹理亜。
「あいつ、しつこいの。もうヤダ。ヤダヤダヤダヤダヤダ…………」
「あいつ……」
もしかして……
「こないだ新宿で会った男の人?」
「うん……」
「あの人、いったいなんなの?」
「うんー……」
樹理亜は大きく大きく息をつくと、再び口元に人差し指を立てた。
「戸田ちゃんだから言うけどー………」
「うん」
「お客さん、だった人」
お客さん? キャバクラの?
聞くと、樹理亜は困ったように鼻にシワを寄せた。
「まーそうなんだけどー、それだけじゃなくてー……あの……ウ……」
「あ、うん。分かった」
みなまで言わさず言葉をかぶせた。彼女にとって消したい過去だ。言葉にさせたくない。
売り……売春。しかも母親に強要されての行為。これは良いことだと刷り込まれて、知らずに身を削っていた過去……
迂闊だった。言わせずに察するべきだった。ただ……言い訳をさせてもらうなら、女の子を違法に買うような男には見えなかったのだ。恰幅も良く、見栄えもいい。女に不自由しているようにはとても………
「偶然なのか、後つけてきたのか分かんないけどー超怖くないー?」
「………怖いね」
本当にいたかどうかは分からない。幻覚かもしれない。でも、それは問題ではない。樹理亜に見えたということが問題なのだ。
「7時までには帰らないとバイトの時間に間に合わないよー」
「そうだよね……。んー………送っていきたいけど……」
今日は7時半まで予約でうまっている。それに女一人着いていったところで、どれだけの抑止力になるのか……。
やはり誰か頼りになる男の人にお願いするべきだ。でも、誰に……
一番はじめに浮かんだのは、当然、ヒロ兄。この病院の院長。でも、院長も今日は会議があるから無理だ。
あと、頼りになって信用できる人………
「うーん…………」
頼りになる人……頼りに…………
「…………あ」
ふっと浮かんだ。
意外にも力強く、頼りになると思えた背中。少しの躊躇もなく、私と樹理亜を後ろに庇ってくれた背中……
「……山崎さん」
「え?」
キョトンと、聞き返した樹理亜の腕をたたく。
「山崎さんに連絡してみよっか」
「あ、そっか。こないだも追っ払ってくれたもんね!」
「ね」
今、5時半。定時は過ぎたはず。
『至急でお願いしたいことがあります。電話しても大丈夫ですか』とラインを送ると、すぐに電話がかかってきた。事情を説明すると、山崎さんは聞き返すこともなく、『一時間以内に迎えにいきます』と言ってくれた。
(暇なのかな……)
なんて失礼なことを考えながらも、対応の良さに満足する。このレスポンスの早さは好感度高い。仕事が出来る男って感じがする。
夜8時過ぎ。山崎さんと待ち合わせをした。送らせるだけ送らせて、何もお礼もせずに帰らせるのは申し訳ないと思ったからだ。
「一応、目を配ってみたのですが、例の男は見当たりませんでした」
「そうですか………」
お店は、1テーブルずつ仕切られている和食屋を選んだ。何となく、山崎さんには和室が似合う。
「しばらく、樹理ちゃんの勤め先のバーの前にもいたのですが……」
「あ、でもあそこ」
「そうなんです」
苦笑気味に山崎さんはうなずいた。
「女性専用のバーなんですよね。『オジサン、まさか樹理に何かしようってんじゃないよね?』って、女の子たちに囲まれてしまって、あわてて退散してきました」
「……あらら」
その様子を想像して笑ってしまう。
「すみません、変なことお願いして……」
「いえ、いいんです。実は私も戸田さんにお願いしたいことがあって、ご連絡しないと、と思ってたんです」
「お願い?」
首をかしげると、山崎さんはふいっと視線をこちらにやった。
「……っ」
ギクッとしてしまう。この人、時々、すごく瞳の奥が深く深く光るときがある……。
でも、そんなことおくびにも出さず、にっこりと見つめ返す。
「なんでしょう?」
すると、山崎さん、なぜかシドロモドロになり……ようやくボソッと言った。
「あの……今月の23日ってご予定空いてらっしゃいますか?」
「23日?」
祝日。
クリスマスイブ前日………
(…………え!? クリスマスイブイブ!?)
気がついて、ドキッとする。
(え、ちょっと待って。イブイブの誘いってこと? え、え、え……)
「あ、ご無理ならいいんです。断ってください。午後一番から夜までお願いしたかったので………」
「あ………えと……」
動揺を抑えるために、手帳を取りだす。空いていることは分かっているけれど、もったいつけて「うーん……」なんて言いながら、
「えーと、夜っていうのは何時……」
「9時には終わると思います。6時半開場、7時開演ですので……」
「………………」
開場?開演? 何かのコンサート? でも、午後一からって……?
「戸田さんに司会をお願いしたいって、色々な人から言われてまして……でも、一応全部断ってるんですけど、実行委員長だけは断っても断ってもしつこくて………」
「…………」
実行委員長………ああ、あの押しの強いオバサンというか、おばあちゃんね………。って!!
(…………そういうことか)
焦った自分がものすごく恥ずかしくなってきた。
先月、山崎さんの勤める区役所共催の音楽祭の司会を引き受けたのだ。終了後、確かに色々な人から、今度うちの演奏会の司会を……って声をかけられたけど、皆さん社交辞令ではなく本気だったらしい……
「実行委員長のいる団体、今度が30周年記念の演奏会らしくて、それで……」
「………………」
一生懸命説明する山崎さんの様子に、なんかどうでもよくなってきた…………
「あー……いいですよ」
「え!? ホントですか!?」
「…………」
かなり投げやりに答えたにも関わらず、山崎さんは、パッと表情を明るくして、深々と頭を下げてきた。
「すみません。助かります。あの人、おそらく来年も実行委員長やるので、機嫌損ねると色々面倒で……」
「…………」
なんか………すごく、どうでもいい。どうでもいい……はずなのに、ものすごいイライラしてきた。
「あのー……」
「はい?」
安心したように、お茶をすすりはじめた山崎さんを上目遣いで見つめる。
「その代わり、条件があります」
「え、あ、はい」
神妙な顔をした山崎さん。この真面目な顔を崩してやりたい。
「その演奏会終わった後、飲みに連れていってください」
「あ、ええ、それはもちろん……」
なんだそんなことか、とキョトンとした顔に追撃する。
「ちゃんと素敵なところに連れていってくださいね?」
「え?」
そして、人差し指を口元にあて、にーっこりと笑ってやる。
「この日、クリスマスイブイブですから」
「………………あ」
山崎さんの頬がみるみるうちに赤くなっていく。
(…………勝った)
心の中でガッツポーズをしている私は、相当に性格が悪いのかもしれない。
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お読みくださりありがとうございました!
戸田ちゃん、イブイブは午後一からリハーサルで、夜本番です。よろしくね~(^_^;)
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