15年くらい前に幸田文の文章に
ハマったことがあります。
ご存じ幸田露伴の娘で「小石川家の家」や
「幸田文の箪笥の引き出し」
で知られる幸田玉さんのお母さんですね。
「みそっかす」から始まって
「おとうと」には号泣したものです
なんといってもそのきもの姿がカッコいい。
きものには興味がなくて、
「きもの」(新潮文庫)も途中でやめた記憶があります。
参考になる言葉、教えの連続なのですが、
ふと目についたのは「福分」という言葉。
沢村貞子さんとの対談のなかの言葉です。
(「幸田文対談集」(岩波書店)
沢村さんの
「私、あまり高いものは着ないんです。
なんとか安くあげよう、と苦心するんです」
という言葉に対し、
「いいことがわからないのではなく、
いいものを身につけようとは思わない、
それがあなたの福分なのね」
と応え、こう続けます。
「--私も、結構な美術品みたいなもの、
美しさがわからないわけじゃなし、
それが国の一つの文化のバロメーターに
なっていることも分かっているんですが、
それを着るということは私のすることではない、
金がないからとか、器量がわるいからとか、
恰好がわるいから着ないというのではないんです。
関係ないのね、自分の福分だけできめて。
それでけっこう人からも似合うと
いわれる。
似合わないといわれたら、
これは困る。
人のも不愉快な感じをあたえているのに相違ないから」
「福分」
恥ずかしいながら、
初めて耳にした言葉でした
まあ、「分相応」という意味だということは、
文脈からわかりますが、
それよりも、なんというか、いい響き
調べてみると、
「仏教、善行、修行の結果が現世で利益の形になったもの」
あるいは単に「幸運・よき天運」とあります。
うーん、なんだか、固い
私は、お二人の対談から、
「値段も種類も着方も、
自分に合っていることが、
その人を一番幸福にする」と解釈しました。
本音を言うと、私だって、
「~~高価なきものを着てみたい」
と思う気持ちはあります。
そのなかには好奇心だけではなく、
「こんなお高いものもお持ちなのね」
と言ってほしいという虚栄心も
いや、でも、やはり、似合わないでしょう、
自分の生活から大きく外れたきもの、は。
沢村「-なにか無理をしようとしますと、
私の母なんか、一升枡に一升五合は入らないよって。
その範囲内でなとかしたいと思って」
幸田「持っている福分を、
フルに使ってという感じね」
うーん、なるほど。
自分の持っている福分、
フルに使うというのは、きっとコーディネイトの巧拙もありますね。
なんだか、さっぱりした気分です。
だからといって、もちろん、
経済的にも年齢的にも不相応な
「あんなきもの」「こんな帯」に
憧れる気持ちあるんですけどね。
そこがきものの面白いところ、
というか、ワタシクのイタラナサ、
でございます。
まだまだきもの途上人
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