このところ、葬儀の席に出ることが多くなりました。
知人その人というより親や仕事関係。
訃報を聞いてお悔やみを述べたあと、
思い迷うのは
きもの、着て行こうかしら?
でも、結局は洋服にしてしまう。
それというのも、
喪服と聞いて頭に浮かぶのは、
向田邦子さんのエッセイと小説。
「思い出トランプ」と「父の詫び状」
ほかの向田本はあらかた処分したけど、この二冊だけは。
エッセイでは、喪服を新調した途端
雨靴を買った子供が
雨ふりを待つように
「早く着てみたい」との気持ちがうずく。
それは人の不幸を待つ気持ちに通じる~~。
というもの。
「~~死を嘆き悲しむ気持ちと美容院の鏡の前で
きれいする動作とは、
私のなかでは一つに溶け合わない」
「葬儀の席できれいにセットされた髪をみると、
胸の隅に冷えるものがある」
こんなエッセイを読んだときの私は20代後半。
このときの向田さんは48歳。
「そうだよね」と頷いた私も
もう60代半ば。
考えが変わってきた~~。
もう向田さんの年をはるかに超えてしまったのね、ワタシ。
こちらは市川崑監督の「妻と女のあいだ」のワンシーン。
父親の法要のシーン。
もうひとつ、
「かわうそ」という女の怖い一面を描いた小説。
「~~厚子は新調の喪服を着て、
涙をこぼすという形ではしゃいでいた。
ほおっておくと、泣きながら、
笑いだしそうな気がして宅次は、
おだつな、とたしなめるところだった」
「おだつ」とは、調子づくといった意味。
かわうそは食べるためではなく、獲物を捕る
楽しみだけでたくさんの魚を殺す。
「火事も葬式も、夫の病気も厚子にとっては
体の騒ぐお祭りなのである」
自分の女房が「かわうそ」だと知る~~。
先のエッセイを小説にするとこうなるのですね。
美しいキモノ春号」の岩下尚史氏のエッセイは
喪服。
「慎む上にもなお謹慎しての喪服といいながら、
かえって粋に感じられなくもない」と。
自分の両親の葬儀には和の喪服を着ましたが、
このときはまだきものを着る楽しみを知らず、
着せられているという気持ちでした。
いま、きものを身にまとう楽しみを
知ってしまうと、迷う~~。
迷いながら、結局洋服を選んでしまうのは、
着物を着ることで、自分のなかに「おだつ」部分が
動き出すのを恐れる~。
しかし今では、
「鏡の前に立ち、着付けに集中しながら、
悲しみを一時でも忘れることができる」
あるいは「悲しみの中でも、
気持ちは悲しみ一色に染めなくても いいのでは」
と思うようになりました。
それでも雨や寒さを理由に
結局は洋服を選んでしまうのは、
向田刷り込みが大きいから??
というよりも現実的には
しきたり間違っているかも、など
処々にメンドウが先立つから~~。
この気持ちも、
向田さんが新調の喪服をある会に出ることで
ケリをつけたように、
何かの折に着用してケリをつけましょうか。
こちらは「月刊アレコレ」のきくちいまさんの
「喪服」に関するエッセイ。実用的。
でも、やはり喪服のきものは、
「慎む上にもなお謹慎してといいながら」
やはり美しい~~。
知人の喪の席、きもの喪服、着ますか?
いつも応援ポチ
ありがとうございまし。
励みになっております。
コメントありがとうございます。深く、深く納得、得心いたしました。本当に仰る通りです。「目立つから着ない」「何か言われるから着ない」ということはない。潔い、素敵という言葉は軽いけど、芯のある性格を思わせる言葉です。そうですね。これは喪服だけのことではありませんね。「心から喪を悼める人」の場合のみ参列、潔くてその通りだと思います。コメント感謝
いたします。
さて、喪服の件ですが、私は祖母が亡くなった時、ずーっと和装で過ごしました。
何故なら、祖母自身が洋服を着ない大正レディ人だったからです。
勿論、私と彼女は身長が全く違うので、私用の喪服を着ましたけども。
戦中戦後と、激動の時代を和服を着通した人生の大先輩への敬意を表して、ずーっと着物を通しました。
今年、七回忌が終わりましたが、法要も全て着物で通しています。
まぁ、私自身が着物を着る機会の多い人、という事もありますが、例えば目立つから着ない、とかそういう思いは一切ないです。
特に、喪の際には、絶対に着物で参ります。
それが、私の中では故人の人生への最大限の敬意だと信じています。
その代わり、義理だけで行くような葬儀には参りません。
ワガママかもしれないけれど、心からその喪を悼める場合のみ、参列させて頂いております。
乱文、失礼致しました。
和の喪服に託した深い思いをありがとうございます。私は想奏さんには、どんなときでもきれいであってほしいなと思います。想奏さまのことを知っている方は、どんなに懸命に尽くしたか、それまでの出来事を知っている。詳しくは知らない人でも、どんなに隠しても、あるいは悲しみを装ってもわかるのではないでしょうか。その上であれば、やはり死力を尽くして自分を整えたい。そのほうが、亡くなった方も喜ぶのではないでしょうか。私、喉の奥が痛くなりました。抑えてもあふれる悲しみ、それほど悲しいことはないのですから。
きれいに整えていくのは「亡くなった」相手への礼儀だった。でも今は遺された方々への目のほうだけを気にする時代になってしまったのですね。本当に寂しいことです。だからこそ、あえてきもの喪服を選ぶことで、相手への敬意というか想いが感じられるかもしれません。「法要もしきたりも生きているものの都合」ほんとにそうですね。亡くなった方にはどうでもいいこと。遺されたものたちの「けじめ」ですものね。きもの喪服からいろいろと考えさせられてしまいました。ありがとうごございます。
変色してしまった昔の寸法の喪服では無く、夫の家紋を入れた喪服が、あの場にきっとふさわしかったのかもしれない。悲しみに傍目も構わなかった私を、しっかりしなさいと、支えてくれていたのかもしれない。
今、ようやく、きっとそうだったんだと、思えるようになりました。
和の喪服、どう捉えたら良いのかの機会に感謝の思いです。
おっしゃること、すべて深い意味を感じます。
祖母が98歳で天寿を全うした時、心おきなく和の喪服を着て、奇麗にすることができました。祖母の為におめかししようと。
父を亡くし母を亡くした時、私は喪の着物を着ませんでした。本当に悲しみに沈むとき、そんなことはどうでもよくなるのですよね。それだけでなく、しきたりとか、法要とか、もう、個人には関係なく、生きている者の都合のような気がして、どうでもよかったんです。
それで、私は簡単な洋装の黒の服でした。
でも、故人を大切に思うゆえに、あえて衣服を整え、凛としている。故人にはそれだけのことをしてあげたい。という気持ちもとても理解できます。
冠婚葬祭は、昔は社会的なもので、お付き合いの一種でしたから、奇麗に衣服を整えていくのも相手の「家」への礼儀だったのでしょうね。それと、着物の喪服しか持たない時代は、何も思わず着ていられた。でも今は、残念ながら、社交辞令の面が大きくて・・・。
私は死んだときには、葬儀はしないでと、遺言しています。そんな、私とは関係のない所で気を遣ったり、体裁を整えていただくことは無いのです。ただ、私の好きな音楽をかけて、ワインでも飲んでもらえたらと・・・。
大切なのは故人を思いやる気持ちをどこへ持って行くのかですね。それを周りの者がとやかく言わないことですね。
私は遊びなどではきもの着ますが、葬儀となると逆に「さりげなく」着ることができなくなります。まだまだですね。お茶や着付けの先生などでは自然にお召しになっており周りも当然のことと受け留めるますね。若くて美しい人が着る喪服は、あまりにまぶしいのかもしれません。「新しい喪服を誂えた」ばかりの出来事、「悔いればいいのか、良しとすればいいのか」。私は「よし」と思っていただきたい。どんなに介護で疲れていても、葬儀ではやはり凛と美しくあってほしい。愛情を持った相手が逝くときこそ、悲しみが深いほど、窶れを見せるより、意地でも。自分を内外ともに整えたい。自分なりにきれいでいたい。想奏さまのコメントを拝読して、そう思えるようになりました。ありがとうございます。
私もいつも拝見しております。とても丁寧で参考になります。葬儀の席で褒められたり、きちんとして礼を尽くす、それで褒められても目立ってもいいのではないかと、今の私は思います。それも年を重ねたせいかもしれません。ある程度の年齢だときもの喪服は特に悪目立ちすることもない。自分で書いておいてなんですが、でも悲しみの席だって、美しさはあっていい。心狭い人は別にして、お弔いにきた人も救われる面があると思います。本音コメントありがとうございます。
妥当な適切な判断だと思います。「きものだと特別な関係に見られる」そうなんでしょうか? きもの喪服「李下に冠を正さず」あらぬ誤解は避ける、とまでになったのですね。寂しいですね。
着物を着なかった頃、ご夫婦や親以外の人の和装の喪服を見て、何か違和感すら覚えたのですが。それが、何故なのか。。
このところ、着物を着るようになり、ふと和装でも良いかしらとよぎります。亡くなった方に敬意を払うにも、和装で整えることが面倒で無くなってみると、難儀でもなく、相応しく思えたりします。
しかし、俯瞰で想像してみると、たくさんの洋装の中の和装。。何やら何故か、張り切った感が少し見えてしまう?
例えば、しおんさんのように、着物を着ている人と広く認識されていれば、さりげなく受け止められると思います。
認知も少し進んだ母に何か有ったらと、誂えたばかりの喪服のしつけを取ったのが夫の葬儀にて。
新しい喪服を誂えたこと、悔いればよいのか、よしと思えばよいのか。今も時々問うてます。
元上司の葬儀で、「お召し物、素敵ですね」と言われたときの自分の気持ち。きちんと礼を尽くして良かった…だけではなかったその時の自分の気持ちを思い出し、ハッとしました。一つ紋の銀鼠色の色無地に、黒の名古屋帯での列席でした。
もう着物の人との認識をされてるし
ワタシ以外にも着る人がいるので。
法事の時とか着物姿が1人でも
「わざわざ着物で来てくれて」と喜ばれます。
仕事関係や友人知人の場合は洋服ですね。
着物だと特別な関係に見られちゃうかもしれませんもん (^-^;;
李下に冠を正さず…大勢の人になじませないと(笑)
いつも本音の、とても参考になるコメントありがとうございます。おばさまから形見に喪帯をいただいたら、堂々とそれを締めていけると思いますけど。そうなんだ、いまでは葬儀社の人が「きもの着るんですか?」というんですね。葬儀できもの着る人少ないのはそのせいかも?「看護してきたんだから、きものくらい着させてよ」いや素敵な言葉だと思います。それで看護のストレスも発散している人多い。その延長で葬儀にこんな気持ちできもの喪服着るの、納得がいきます。しきたりもメンドウというより、細かいしきたり自体が、知っている人が少なくなったのかもしれません。葬儀社の人が「きもの?」というくらいですから。そう思うと葬儀の席で、きもの着て行けるかもとおもいました。お別れの会なら、もう堂々と、故人に見ていただくつもりで着られますかね。重ねて御礼。ありがとうございます。
早速のコメントありがとうございます。お寺などでのお葬式には喪主はきもの着ていらっしゃいますが、なんというのですか最近は「お別れの会」だけで済ませること多くて火葬場でそのまま葬儀する形式もありますね。そんなときには確かに見渡してみても、きもの着ている方いませんね。こういう場合はあまりしきたりにうるさくないからいつもきもの着ているんだから着てくればよかったな、思うことありました。
私は自分の母の葬儀は喪主として着物で出ました(七年前)。でも、その時も家族に「着物着るの?」と聞かれて「看護とかで、イロイロ大変だったんだから、着物くらい、着させてよぉ。」と言って着た記憶あります。今思うと、着る事がストレス解消の一部となってますよね。
一年前のおばの時は結局洋服で行きましたが、(着物着るチャーンス!)と思う気持ち、正直なところありました。懺悔ものですかね?
葬儀社の方に、家族が着物着る様子ないので、やめましょう的な(かなり強い感じで言われました)のでやめました。確かに参列者に着物人はゼロでした。
でも、そのおばの形見分けの時に喪帯をもらいましたので、次の時にはそれを締めて出たいな。と思ったりしていましたが、今回のテーマから考えると葬儀を楽しみにしてるようで不謹慎なんですかね?
きくちいまさんのエッセイ、私も読みました。この記事も着物で葬儀に出てみたい私の気持ちをかきたててます。(素敵な感じですものね。)
やはり、悲しむ気持ちより、着物を着る楽しみを優先してますかね?
みなさまのご意見も伺いたいです。
何十年も前に母が誂えてくれた喪服はあるし、いまじゃわたしも、(少なくともフォーマルだと)洋服着るのも着物を着るのも、敷居の高さはさほど違わなくなっているので、着物の喪服でもいいとは思うし、着ないと、せっかく母が誂えてくれたのに申し訳ない...という気持ちもあります。
でも、いまどきのお葬式、喪主さんでさえ、着物はまず着ない(地域によるかもしれませんが)。ましてや、一会葬者が喪服着たら、目立つことこの上ないと思うんです...。
どうなんでしょう・・・?