不妊治療には疲れた。
気かつけば私は40半ば
妻も40才を過ぎていた。
養子の話を持ち出した時
妻は反対すると思っていた。
しかし、思いのほか、妻は賛成してくれた。
私以上に疲れていたのだろう。
娘は中学1年だった。
親の虐待や育児放棄で私たちの子供になった。
同世代の子と比べて小さく
まだ小学生にしか見えない。
こちらも親になった実感は湧かないが
向こうはもっと理解できないはずだ。
暗闇にいた目をしていた。
娘は私たちのことを名字に「さん」付けで呼び、次第に「おじさん、おばさん」と呼ぶようになった。
私たちは勝手につけられていた「なお」という名に「ちゃん」をつけた。
娘ができて、1年が過ぎる頃になると
彼女はすっかり、他の生徒の身長に追いついていた。
やはり、栄養が充分でなかったのだろう。
この時期だろうか、娘はおじさん、おばさんに紛れて
たまに、砕けた調子で「お父さん、お母さん」と呼ぶようになった。
照れ臭かったに違いない。
ただし、私と妻の感慨は浅からぬものがあった。
「確実に親子に近づいている」
妻の目はそう問いかけていたし
私のそれも彼女に伝わっただろう。
高校に進学した頃には娘は美しく成長した。
私も妻も、彼女が産まれた時から見守っている錯覚にとらわれていた。
「なお」
何ていい名前を私たちは思い付いたのだろう。
しかし、娘には拭えない暗闇があるはずだ。
私は、この天使の夢から醒めたくなかった。
10年の歳月が流れた。
娘は大学卒業後、大手企業に就職し、しばらくして私たちの家を出た。
入社して5年程たった頃
娘は私たちの家に男性を連れてきた。
結婚を考えているという。
娘の隣に座るこの好青年が、私たちから娘を奪っていく。
娘たちは結婚式も行わず、入籍して新生活を始めたらしい。
そんな時、娘から手紙が届いた。
リビングの私と妻は、花の散った枯木のようだった。
「なんだい。改まって手紙なんて」
夢が終わる可能性に怯える私をよそに
妻は事務的に封筒を切り、目を通した。
しばらくして私に手紙を渡した。
それを手にした私の手は少し震えていた。
「今、私はとても幸せです。
12才までの私は生きながら死んでいました。
そんな私に少しずつ、温かい、柔らかい光が差したのです。
私は生きていることを初めて実感しました。
お父さん、お母さん、私に光を、温もりをありがとう。
私を産んでくれてありがとう」
私は暫く娘の文字を眺め続け、時折、目頭を押さえた。