二月二日(月)晴れ。
七時に起床。朝食は、納豆、白菜のおしんこ、ふくやの明太子。愚妻と子供が出かけた後は、大忙しである。掃除に洗濯、原稿書き。十一時過ぎに終了。車に乗ろうとしたらフロントガラスが汚れている。何かと思ったら、浅間山の火山灰だとニュースで知った。そういえば、ここの所、家に金を入れていないので、我が家の山の神も、噴火の寸前である。くわばら、くわばら・・・。十二時より病院。ぎりぎりに着いた。検査に時間がかかって、一時半に終了。 二時前に、愚妻と上の子供と待ち合わせて、横浜駅西口の家電の量販店に行く。実は、我が家を事務所兼用で使っていた時があって、電話は「ビジネスホン」と言うものを使っていた。一般の事務所にあるような電話である。その電話も古くなり、普通の電話に変える工事が明日行われるので、家庭用の固定電話を買いに行った。
その昔は、家庭に電話を入れる場合は、「電話債券」を購入したり、随分とお金がかかったものだ。その債権は質屋にも入った。アアなつかしい。若い人は、知らないだろうが、私の子供の頃は、お米も配給制で、各家庭に「米穀通帳」というものがあった。むろんその配給だけでは足りずに、東北の米所から売りに来る「闇米」を、母は買っていた。
米穀通帳は身分証明書にもなり、質屋に行く時は、それを持って行った。当時は、着物やコートなどの衣類も質草となった時代で、私の母などは、季節代わりには、質屋を箪笥代わりに使っていたぐらいだ。昭和三十年代、我が家だけではなく、日本人のほとんどが、まだ貧しい時代だった。
横山孝平君のブログ「國の子評論」の「母の話」に影響された訳ではないが、私は、小学校の四年から、卒業するまでの三年間、夕刊の新聞配達をしていた。中学の時は、三年間、牛乳配達をした。今なら、児福法で禁止されているが、私達の頃は、新聞や牛乳は、大体小学生か中学生が配っていた。
別段、何かの目的があってアルバイトをしていたわけではなかったが、母一人、子一人の家庭で、母の役に立っている、という思いと、母が喜ぶ顔を見ることが、何よりにもまして嬉しかった。もちろん、わずかなバイト代だったが、自分で使ったという記憶がない。貧乏だったが、いわゆる「ひもじい」という思いを経験したことがない。その経験からか、貧乏や金のないことを「純粋」などと勘違いしている連中が好きではない。一万円がなくて泣く人もいれば、一億なくて倒産する人もいる。金の価値は人様々なのだ。大事なことは、人を羨まぬこと。金がないのは、そのまま自分の器量の無さの裏返し。せめてそう思って笑い飛ばして、安酒を飲むのがわが人生よ。
少々、キザかもしれないが、右翼たるもの、貧乏を趣味として生きたいものだ。酒と友がいればそれだけで幸せと言うものではないか。なぁ、横山、小針、松本の愛すべき後輩と、佐久間、細川、山平、隠岐、三ちゃんの諸酒友。信じ合える同志、先輩。私を支えてくれている読者・社友会、一門の人たち。サリーズバーのファミリー、しんちゃん。さあ、いざ我が友よ、まず一献。
今月は、母と野村先生の誕生月である。いい人達にめぐりあったと、しみじみ思う。夜は、連載させて頂いている「実話ドキュメント」の原稿に向かう。休肝日であった。