白雲去来

蜷川正大の日々是口実

紀元節の日に、友誼団体の新年会に出席

2009-02-11 23:33:49 | インポート

二月十一日(水)晴れ。紀元節。

 起床後、顔を洗い、口をすすぎ、玄関に国旗を掲げ。神武天皇肇国の昔を偲び、橿原神宮を遥拝。

 今日は、サリー姐さん主催の食事会があったが、私は欠席。愚妻の友人夫妻が十一時に来訪して、しばらくお茶。正午に家族と友人夫妻が出かけた。

 私は、原稿に向かう。一時過ぎに、昼食に近くの中華屋「たつや」にて、中華丼セット。二時に帰宅してから、出かける仕度。今日は、私が役員の末席を汚している千葉の大日本憂国協議会の新年会がある。

 保土ヶ谷から三時十分の電車で、蘇我へ。ここで特急に乗り換えて大網。ここから東金線で東金駅へ、というコース。東金駅には、五時少し前に着いた。先日の国民協議会の新年会の会場もすごく遠い場所だったが、考えてみれば、その方々も、私と同じ思いをして上京してくるわけだから、グチをこぼしたら失礼になる。今日の東金も電車で二時間の距離だが、石井幸雄会長や同志の人たちは、運動や会合があるたびに、同じ時間をかけてくるわけだ。大変なのはお互い様。むしろ私は飛行機よりも電車の移動が好きなので、長い時間乗っていても苦にならない。読書に飽きたならば車窓を流れる景色を眺めて、様々な思いをめぐらす。そういえば随分と海外に行ったが、電車に乗ったことがない。いずれシベリア横断鉄道でも乗ってみるか。

 そんな事を考えているうちに駅に着いた。偶然に、古い同志の吉田哲雄氏と一緒になった。恐らく今日の新年会に電車で来たのは、吉田さんと私の二人だけではあるまいか。会場へは、歩いて五分ほどの距離である。久し振りに吉田さんと昔話をしながら歩いた。

 会場には、斯界の諸先生がすでに到着しており、まずはご挨拶。六時に開会。僭越ながら祝辞を述べさせて頂いた。八時に終了。帰りは、仲程通也氏と共に菊水国防連合の同志の方々の車に同乗させて頂き、自宅まで送って頂いた。感謝、合掌。

 明日、早いのだが原稿の締め切りが迫っているので、机に向かった。先日、ブログをアップしようとしたら消えてしまったことを書いたら、小針政人氏や響氏からコメントが入り、お二人も、同じように苦い経験があるそうだ。いやパソコンをやる人ならば皆、一度や二度はあるに違いない。確かに、二度目の方が文章が整理されて、良いものが書けることもあるが、歳のせいにはしたくはないが、気持ちが萎えてしまい、続かない。長いものを書いた時は、一度ワードで保存する癖をつけようと思っている。

 紀元節の歌です。是非聞いて下さい。


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また「新潮」のヨタ記事に振り回された。

2009-02-11 13:22:41 | インポート

二月十日(火)晴れ。

 良い天気である。子供たちは学校、愚妻は仕事。一人残された私は、掃除に洗濯の後に、事務所に行き注文された書籍やDVDの発送。その後は、寒い事務所で原稿を二時まで。仕事を終えた愚妻と自宅近くの「永楽」という蕎麦屋で昼食。

 午後から、「週刊新潮」のヨタ記事の早刷りが手に入ったという、知り合いの記者たちから、次々と電話が入り、昼食どころではなくなってしまった。早速、自宅に戻りFAXを確認。相変わらずヨタ記事を性懲りもなく掲載しているナァー、と呆れて読んだ。大体、野村先生のことを「ダンナ」なんて呼ぶ人を見たことも、聞いたこともない。また先生のことを「オヤジ」と呼ぶ、女性など絶対にいなかった。当時の野村事務所は、浜松町にあり、事務所の責任者は、先生の娘婿で現在は県会議員となっているT氏、それに編集長としてS氏がおり、女性事務員はOとSさんの二人がいて、資料整理にカオリではなく「ユカリ」チャンが在籍していた。秘書兼運転手は、Aという男から、Mという元タクシー運転手に、そして私の事件の後に、国会議事堂に火炎車で突入したSの三人が担当した。

 その中の何人かを除いて現在も全員と連絡が取れる。一応確認してみたが、皆、一笑に付していた。そういえば、先生のことを「オヤジ」と呼ぶ人が二人いる。一人は、前述のT氏。この人にとって、先生は義父にあたのるで、「オヤジ」と呼んでおかしくない。もう一人は、「蒲田の姐さん」。しかし蒲田の姐さんはワープロなど打てないし、そんなことがあったなら、真っ先に私に連絡してくるだろう。

 赤報隊事件の時は、私は、在獄中であり、もし先生が非合法の運動に関わるとしたら、間違いなく、現一水会の会長の木村三浩氏に依頼するに違いない。さらに先生は、とても慎重な人で、犯行声明文などを打たせるとしても、決して人前で指示をするようなことはしないと断言できる。大体、私を含めて、旧野村事務所に在籍していた人たちや門下生に聞いても、新潮に名乗り出た人を誰も知らないというのは、不自然ではないか。

 「週刊文春」の記事も読んだが、こちらの方が、よほど信憑性がある。昭和五十一年から平成四年まで一緒に生活していたという元妻の証言。今回のドタバタは、この人の一言に尽きる。

 夜は、「蜷川政経懇話会」を野毛の「弥平」にて開催。久し振りに、マーク氏も合流して、あんこうのシャブシャブに舌鼓を打った。四月に結婚式を挙げるという後輩に、酔いもあって、随分しつこく話していたらしい。ゴメンナサイね。その後、マークとサリーの店に寄ったら、何と満席で、珍しく、サリーパパのヒゲジイがカウンターを手伝っていた。社友の古谷喜久男氏を誘ったら、フラれてしまった。十二時近くに帰宅。


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