白雲去来

蜷川正大の日々是口実

自民党の三バカ大将は、皆、丹頂鶴。

2009-09-05 17:34:52 | インポート

九月四日(金)曇り。

 そういえば、昨日の勉強会で知ったのだが、自民党の丹頂鶴(頭頂部が赤い)、あるいは三バカ大将と呼ばれている加藤紘一、山崎拓、谷垣禎一の三人が、今回の自民党の敗北を、何を勘違いしているのか、「リベラルさが足りなかった」「もっと民主党よりもリベラルな政策を出せばよかった」などとのたまっているらしい。全く、バカにつける薬はない、とはこのことだ。民主党に比して、国民が自民党に期待したのは「保守らしさ」ではなかったのか。そんな世間の空気が読めない連中が自民党で重きをなしていることが、敗因であった。という事が分からない。それでも、かつて「文春」で、昔の女に「ホテルで有料放送のAVを大音量にして見ながら、コトをいたす」とすっぱ抜かれた(今週の「文春」にも出ています)エロ拓こと、山崎拓は天罰で落選。今回の自民党の総裁選挙で、もし加藤紘一なとが立候補したならば、今度は実家だけでは済まないだろう、というのが、我々のホンネである。

 八時に起床。社友の斉藤義一氏が千葉からわざわざ届けてくれた、大好物の「サバの文化干し」での朝食。食後に、愚妻と共に自宅のこまごましたことを終わらせてから、久し振りにウォーキングに出た。今日は、二人で目一杯歩こうと思い、まだ機関誌を送っていない方たちに届けるコースを選んだ。歩きながら郵便局に寄ったり、普段とは違うコースを歩いてみたが、退屈しなくて面白い。かねてから、井土ヶ谷事件の記念碑を探そうと思って調べていたのだが、ようやく発見。その場所は事務所に行くときにいつも通る道にあったのが、驚き。やはり車では見落としてしまう景色があると反省した。

 井土ヶ谷事件は、幕末の1863年10月14日(文久3年9月2日)に武蔵国久良岐郡井土ヶ谷村字下之前(現在の横浜市南区井土ヶ谷下町3付近)で起きた、攘夷派の浪士によるフランス士官殺傷事件。

 横浜居留地の警備のため上海より呼び寄せられていたフランス陸軍アフリカ猟歩兵第3大隊所属のアンリ・カミュ少尉(1842~1863)と士官2名は、程ヶ谷宿に向かうため乗馬で井土ヶ谷村に入ったところを、浪士3名に襲撃された。先頭に居たカミュは刀で右腕を切断され、さらに顔・首・胴・左腕を切られ死亡した。同行した他の2名は逃走し命に別状はなかった。

 神奈川奉行並合原猪三郎は捜査を開始したが、フランス公使ド・ベルクールおよびフランス海軍提督ジョレスには犯人逮捕は難しい旨が報告され、襲撃した犯人は不明のまま逮捕されなかった。ベルクールは事件の解決と謝罪のため、フランスに特使として外国奉行竹本正雅(甲斐守)を派遣することを幕府に勧めた。12月、幕府は横浜鎖港の交渉を行うために外国奉行池田長発ら34名からなる遣欧使節団を派遣。翌年3月、使節団はフランスを訪れ政府に事件を謝罪すると同時に、195,000フラン(35,000ドル)の扶助金を遺族に支払い事件は解決したが、鎖港の交渉は失敗に終わった。

 カミュの遺体は、横浜市中区の横浜山手外国人墓地に埋葬されている。

P1000089 中央が事件の碑。左側は戦没者の慰霊碑。

 いやはやいつも通る道にあったのを見落としていたとは、お恥ずかしい限りである。その後、自宅から一時間半ほど歩いて、平沢次郎邸のポストに機関誌を配達した後に、横浜橋商店街の近くにあるお店でランチ。食後に、商店街で買い物をしてからバスで自宅まで戻った。約、二時間の散歩でした。

 夕方、「実話時報」の編集者より、原稿の校正が入る。連載第三回のタイトルは「最後の旅・マドリッドからモロッコへ」である。世界遺産の都市、トレドにて私のビデオの前で先生が語ったことなどを挿入しながら、マドリッドの旅の思い出を書いてみた。この連載原稿を書くのがとても楽しい。

 夜は、横浜橋で買ってきた、中々上等のカツオを肴に一杯やった。原稿が、まだ一本残っているので、頑張らなくては。


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