白雲去来

蜷川正大の日々是口実

重陽の節句の日に、昔を懐かしむ。

2009-09-10 23:17:57 | インポート

九月九日(水)曇り。

 今日は、重陽、菊の節句である。私は、個人的にこの日が好きだ。金があろうとなかろうと、近所の花屋で白菊を買って愛でる。この重陽の日を意識したのは、もう随分と前の事だ。網走の独房にいるときに、野村先生の句集「銀河蒼茫」と、岩波の「唐詩選」を常に座右の書として傍に置き、励まされた。その「唐詩選」の中に、今日の日の事を詠んだ詩が多く、どれも胸を打つ、良いものが多い。ご存知の方も多いだろうが、この重陽の節句は支那の文化である。奇数が縁起の良いと思われている国で、九が重なるから、重陽。支那では、この日<茱萸(ぐみの実)を袋に入れて丘や山に登ったり、菊の香を移した菊酒を飲んだりして邪気を払い、長寿を願うという習慣があったそうだ。

 ご皇室では、陛下やご皇族が紫宸殿に集り、詩を詠んだり菊花酒を飲み穢れを祓い長寿を願った。支那では、菊は不老長寿の薬としての信仰があり、観賞用としてよりも先に、薬用として用いられていた。漢詩の中でも、陶淵明や杜甫などに、この重陽の日の習慣である「登高」を詠んだ詩が多い。その中でも、私が好きなのは、王維の、「九月九日憶山東兄弟」(九月九日山東の兄弟を憶う)の詩である。

独在異郷為異客 (独り異郷に在って 異客と為り)

毎逢佳節倍思親  (佳節に逢ふ毎(ごと)に 倍(ますま)す親(しん)を思ふ)

遥知兄弟登高処 (遙かに知る兄弟 高きに登る処)

遍挿茱萸少一人偏 ((あまね)く茱萸(しゅゆ)を插(さ)して 一人を少(か)くを)

  当時、望郷の思いに駆られながら、口にした、この漢詩が忘れられない。もし、無人島に流されて、本を持つことを許されたならば、野村先生の「銀河蒼茫」と「唐詩選」の二冊に尽きる。

 今日は、仕事の合間に、愚妻と初めて「餃子の王将」に行った。私は、「餃子定食」。餃子が二人前もついていて、嬉しかったが、まあ正直言って、可もなく不可もない。という感じがした。しかし、この値段なら文句は言えないかな。愚妻は、天心炒飯を食べ、私も少し貰ったたが、これは中々美味かった。BGMにリズム&ブルースがかかっていて、餃子定食を食べながら、私の好きな、「男が女を愛する時」を聞いて、まあヨコハマだからと、納得した次第。

 また、今日は、昔ファンだった歌手の日野てる子さんのご命日。「夏の日の思い出」や、彼女の「南国の夜」が好きだ。ユーチューブで、彼女の歌を聞きながら、「赤霧島」で彼女を偲んだ。

 白菊の白が溢れてとどまらぬ

 とは、野村先生の句だ。

   


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