白雲去来

蜷川正大の日々是口実

十六夜。

2011-09-15 13:17:20 | インポート

九月十三日(火)晴れ。

 今日は、十六夜(いざよい)である。昨夜は私の家からも中秋の満月がきれいに見えた。娯楽の少なかった昔は、そういった日の行事を大切にしていたのだろう。そして、照明の普及していない時代では、月明かりでも十分に周りのものを判断できたのに違いあるまい。

 有名な李白の「静夜思」という詩に、「牀前看月光(牀前、月光を看る)疑是地上霜(疑ふらくは是れ地上の霜かと)」という一節がある。

 寝台の前に差し込んだ月光をじっと見る。もしかしたら、これは地上におりた霜なのかと。(松浦友久訳・岩波文庫「李白詩選」)。その昔、中国の人たちは霜は天から降りてくるものと信じていた。例えば、日本人ならほとんどの人が、そらんじている、張継の 楓橋夜泊には、「月落ち烏啼ないて霜天に満つ」とある。天に満ちた霜が、地上に降りてくるものと思って、こう詠んだのである。

 今では、月明かりが、家の中に差し込む、などと言うことはなくなった。節電と言っても、まだ日本の夜は明るすぎると思う。だから、想像力が欠落し、風流を味わうということが、出来なくなっているのかもしれない。

 霜つながりでもう一つ。三島由紀夫の辞世に、「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに、幾年耐えて今日の初霜」がある。「初霜」とは、冬の初めの寒い朝に、最初に出来る霜のことを言う。陽が出ると消えてしまう初霜。しかし、その初霜がおりなければ本格的な冬の訪れがない。先駆けとして散って行くわが身を、初霜に譬えたのである。 

 そうか十六夜とは何にも関係ないか。十六夜は、「ためらう」「躊躇する」という意味の動詞の連用形が名詞化した言葉である。陰暦十六日の月の出は、十五日の満月に比べてやや遅いことから、月がためらっていると見立てたものである。

 その十六夜の月を見るため、ではなく、恒例の「蜷川会」を関内の、HIROというお店で行なった。一時間半ほどの楽しい語らい。その後、友人と一軒転戦して帰宅。


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