一月七日(月)晴れ。
私の携帯は、夜十時から朝の八時までは自動的に繋がらないようになっている。朝の八時になると電源が入って、昨夜の夜遅いメールや電話の着信が分かるようになる。今朝も、八時に、着信の知らせがあって確認すると、古い友人で後輩のY氏からの着信。こんなに朝早くに電話などしてくることがなく、嫌な予感と共に彼にすぐ電話を入れると、横浜の先輩でもあり、飲み友達でもあり、公私共にお世話になっている鄭 惠淋さんが今朝早く、病院で亡くなられたとの知らせ。
突然のことに、しばし呆然となる。鄭さんを紹介して頂いたのは、電話を頂いたY氏で、山下町にある「ラッキーの店」だった。もう五年ほど前のことだ。歳は私よりも一回り以上離れていたが、Y氏やサリーという共通の友人がいたせいもあり、仲よくさせて頂いた。お祭りが好きで、サリーの招待で良くご一緒させて頂き、昨年末の私の忘年会にも出席をして頂いた。
とてもお歳を感じさせないダンディーな方で、お酒も強く、十二時を過ぎてラッキーの店に行くと、ほとんど一緒になった。年末も、友人らとラッキーの店で飲んでいたら、元ゴールデンカップスのエディ蕃氏と一緒にひょっこり入ってきて、古き良き横浜の話で盛り上がった。
また鄭さんは、横浜市が平成8年度から行っている事業の一つでもある、市民の生活・文化に寄与する優れた技能職者の「横浜マイスター」の調理師部門の一人に選ばれており、神奈川県中日調理師会の会長も務めていた。横浜マイスター名鑑に登録されている鄭さんの経歴を紹介してみたい。
横浜マイスター名鑑 平成十八年度選定 第十一期 調理人(中国料理)/中区 <o:p></o:p>
鄭 恵淋 (てい けいりん)<o:p></o:p>
中国料理の中でも多様な食材、調理方法を用いた特徴を持つ広東料理を得意としています。横浜中華街に生まれ、祖父、父を継いでこの道に入りました。早くから食と健康に注目し、いわゆる医食同源の考えを実践しています。一般の方を対象とした料理講習会を頻繁に開催するかたわら、若手調理師を対象とした研修会では、技能のみならず、接客や経営等マネジメントについての指導も行っています。<o:p></o:p>
【職歴】<o:p></o:p>
昭和三十一年「同發別館」マネージャー兼調理部
昭和五十二年 東京芝「留園」調理部<o:p></o:p>
昭和五十三年 東京「中国飯店」調理部<o:p></o:p>
昭和五十四年「同發新館」副支配人兼調理主任<o:p></o:p>
昭和五十七年 東京青山「桃源閣」料理長<o:p></o:p>
昭和六十二年「大海飯店」調理部指導・監督<o:p></o:p>
平成五年 横浜ロイヤルパークホテル「皇苑」総料理長<o:p></o:p>
平成九年「香港ガーデン(株)」専務取締役兼総料理長<o:p></o:p>
平成十九年 横浜ロイヤルパークホテル「皇苑」<o:p></o:p>
【下積みの頃】<o:p></o:p>
中華街で生まれ育ち、広東料理界を代表する調理人の一人となった鄭さんは、「学校卒業当時は、就職難の時代だったため、友人とも相談して、親と同じ中華の調理の道に入りました。下積み時代は、どんぶり洗いなどの細かい仕事で、包丁を持てるようになるのはずっとあとのこと。毎日がわからないことばかりの連続でした。最初に包丁を持てた時は、嬉しかったですね。ようやく洗いものから開放されるという気持ちもありました。これまで、親方から教えられた広東料理の味を忠実に守ることを信条としてやってきました」と振り返ります。<o:p></o:p>
【今後は、横浜で】<o:p></o:p>
鄭さんは、職場を横浜に移されたのを機に、今後は、マイスター活動や施設への訪問・中華街地区の街づくり等のボランティア活動について、今まで以上に 活発な取組みを計画されています。
更に、鄭さんは 伊藤ハムの要請で、鄭恵淋氏監修の「巨匠の彩 ムースーロー」と「同 海鮮あんかけ炒飯」を初めとする中華惣菜シリーズを発表している。
鄭さんとの思い出は尽きないが、余りにも突然のことなので、気持ちの整理が出来ずにいる。寂しいよ鄭さん。
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