白雲去来

蜷川正大の日々是口実

アッコ姐さんの新年会。

2013-01-31 17:15:42 | インポート

一月二十七日(日)晴れ。

朝は、ガアッーと起きて、朝食を済ませてから、リビングと和室の掃除をした。貧乏性なので、休日、それも天気が良いと、掃除に洗濯と家族にハッパを掛ける。金などなくとも、目を覚まして天気が良いと、それだけでなぜかウキウキする。安上がりにできている。

午後一時から、倶利伽羅紋々のアッコ姐さんが主宰している神輿会、「女人会」の新年会が、ヨコハマの下町の吉野町にある居酒屋の二階で行われ出席した。この吉野町周辺は私にとっては懐かしい場所だ。その昔、通っていた中学がすぐ近くにある。従って同級生や先輩、後輩も近所に沢山住んでいたが、所在が分かる人は少なくなってしまった。

いつもの人たち、三十人ぐらいが集まって昼間からにぎやかな酒席となった。私は、神輿を担ぐことはしないが、サリーファミリーに関係者が多いこともあって、飲み会にはマメに出席する。

民族派として、日本の伝統と文化を大切に。などと言っている割には、座敷の宴会が苦手である。もう長いことテーブルで食事をする習慣がついているので、長時間の胡坐がキツイのである。ちゃぶ台で食事をしていたのは高校生までで、その後はテーブルになった。もちろん正座など五分も出来ない。情けない話である。以前、宴席で、芸者さんに聞いたことがあるが、芸者になる人が少ないのは、正座が出来ないことも影響していると言っていた。ナルホド。

その後、サリーやヒゲジイ達と、後輩の尼野保氏が経営している「一銭」に転戦。気の置けない人たちばかりなので、楽しい二次会となった。八時前に帰宅。


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贅沢な夕食。

2013-01-31 10:47:57 | インポート

一月二十六日(土)晴れ。

 今日は、特別な日である。といっても政治やお国には関係なく、単に我が家の家族揃って、某ホテルの鉄板焼きでの夕食にご招待された。

 私の後輩でもあり、もう三十年以上もお付き合いのあるY氏が退職することになった。その記念?の意味もあっての夕食の会となった。Y氏と初めて会ったのは、もう三十五年も前になるだろうか、伊勢佐木町はオデオンの前の二階にあった「スタンドロツク」という今で言えばショットバー、その昔はカクテルコーナーと言った。その店には、私の中学の先輩で、私が陸上部に入るきっかけとなった山崎邦雄さんが店長をしていた。そのお店でバイトをしていたのが、若き日のY氏である。その後の交流や様々ないきさつは、もう少し日が経ってから書いてみたいと思ている。

 先輩の山崎邦雄さんが、平成の十年の二月十六日に五十歳と言う若さで亡くなられた。命日には、Y氏や、現在、横浜市営地下鉄の「吉野町」駅のすぐ上で「一銭」という小料理屋を経営している尼野保氏などと毎年お墓参りに行っている。最近はほとんど同窓会のような集まりになっている。

六時から、鉄板コーナーで、フルコースの食事。先付けは「お刺身」、そしてフォアグラ、伊勢海老、アワビにステーキ。そしてガーリックライスにデザート。いやはや贅沢な夕食である。子供たちは、フォアグラデビューとなった。本来ならば、私が、長年のご厚誼に対する感謝の意を表して、接待しなければならないのに、申し訳ないことこの上もない。

食後は、子供たちを先に帰してサリーの店へ。仕事を終えたY氏が合流。その後、山下町の「ラッキー」の店へ。先日亡くなられた鄭さんが「横浜マイスター」となられた際のビデオを共に見ながら献杯。日にちが変わる直前に帰宅した。


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孤愁・サウダーデ・・・。

2013-01-31 10:09:22 | インポート

一月二十五日(金)晴れ。

 新田次郎の未完の絶筆を息子さんの藤原正彦が書き継いだ、「孤愁」(文藝春秋・2100)が面白い。いや面白いと言っては失礼かもしれないが、とても良い本だ。明治時代にポルトガルの外交官として来日したモラエスの伝記文学である。当初、これは新田次郎が、丹念な取材を経て書いていたが、完成する前に亡くなられた。その父の後を継いで息子の藤原正彦が完成させ単行本とした。私は、小説や文学の碩学ではないので、詳しいことは分からないが、親子で一冊の本を書き上げるというのは、ごくまれな試みではないかと思っている。

 本の解説によれば、ヴェンセスラオ・モラエス(1854~1929)は、ポルトガルのリスボン生まれ。1889年に初来日。マカオ勤務などを経て、1899(明治32)年にポルトガル在神戸副領事として赴任、のち総領事。神戸在勤中に芸者およねと出会い結婚。1912(大正元)年によねが亡くなると翌年に公職を辞し、よねの故郷徳島に移住。日本滞在時には「日本通信」をポルトガルの新聞に連載し、「日本精神」「おヨネとコハル」「徳島の盆踊り」などの著書を通じ明治・大正期の日本人と日本文化の素晴らしさをヨーロッパ社会に紹介した。

 本のタイトルとなった「孤愁」は、ポルトガル語では「サウダーデ」。ポルトガル人は、そのサウダーデという言葉を多様に使うらしい。別れた恋人を思うことも、死んだ人のことを思うことも、過去に訪れた景色を思い出すことも、十年前に大儲けをした日のことを懐かしく思い出すのもすべてサウダーデ。「そうすることによって甘く、せつない感情に浸りこむ」ことを意味するとのこと。

 日本とポルトガルとの交流は古いことは、鉄砲伝来やキリスト教の布教など、子供の頃に学校で習ったが、それがきっかけでポルトガル語で日本化したものは実に多い。人口に膾炙している言葉だけでも、パン、ビスケット、カステラ、テンプラ、カルタ、ボタン、タバコ、キセルなどに加えて、京都の先斗町もポルトガル語のポンタ(Ponta先端の意)から来たものらしい。

 意外だったのは、「唐辛子を食べると、口がピリピリする」という表現をするが、その「ピリピリ」とは、ポルトガル語で、(PriPiri)は、唐辛子の意味であり、その昔にポルトガル人が持ち込んだ唐辛子が、そのまま味を表現する言葉になって、使われているということを知った。

 恥ずかしながら、私は、「孤愁」を読むまで、モラエスの名も、もちろんその存在すら知らなかった。日本に移住した著名な外国人としては、明治29年に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗ったラフカディオ・ハーンぐらいしか記憶にない。こういった作家の人たちの地道な努力によって、うずもれていた人たちが脚光を浴びることはとても良いことだ。

 良い本に巡り合ったと思っている。私にとって良い本との出会いは、良い人、良い酒、良い肴との出会いと共通語である。今日も、酔狂亭で月下独酌。頂き物の「赤霧島」の四合瓶の数の減りが早い。嗚呼・・・。

Photo※★5つ。一食抜いても是非。


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