十月三日(木)曇り。
文芸評論家の蓮坊公爾さんから、昭和五十二年一月創刊の「花曜日」という雑誌をご贈呈して頂いた。昭和五十二年という年は、三月三日に野村先生が同志らと「財界の営利至上主義を撃つ」として財界の総本山である経団連会館を襲撃占拠した、いわゆる「経団連事件」に決起した年である。
従って、その「花曜日」のことは良く覚えている。確か民族派におけ文學運動を起こそうして発行されたと記憶している。執筆者には野村先生の他に、鈴木邦男さん、そして深瀬愛彦さん(確か鈴木さんのペンネームだったと思う)、更に倉前盛道先生、当時筆名の高かった山本次郎さん。驚いたのは森田政治元国粋会の総長が「漢詩」を寄せていること。編集者は永田美穂さんだった。創刊号が出た直ぐに「経団連事件」が起きて、皆さん「文芸誌」どころではなくなり、その後、すぐに休刊となったのではなかったか。
当時、「愛国戦線」という民族派の雑誌の昭和五十三年の「初夏号」の特集が「経団連事件」で、永田美穂さんが、「萩がこぼれる 桜がまた散る」というタイトルの文書を寄せていた。そのタイトルの新鮮さ、文学的表現に唸ったものだ。ちなみに「愛国戦線」の編集長は猪野健治先生である。当時は、民族派もクオリティーの高い雑誌を随分と発行していた。
話を「花曜日」に戻せば、野村先生が掲載した原稿は「まぼろしの娘」。これは先生が、千葉刑務所時代に、全国の刑務所の機関紙?「人」新聞に掲載されたものである。一口に刑務所の新聞と言っても、全国の受刑者が投稿、応募するので、新聞に掲載されると言うのは並大抵のことではない。「まぼろしの娘」は刑務所以外では、この「花曜日」が初出である。
「河野邸焼き討ち事件」にて千葉刑務所に座っている時に、娘の泰子さんのことを思って書いたものだが、とても感動する文章である。その後、「友よ山河を亡ぼすなかれ」に収録されたが、その本も廃刊となっているので、いずれ弊社で再刊するつもりでいる。「花曜日」は、私も持っていなかったので、先生の二十年祭に良いプレゼントになった。御礼を申し上げる次第です。そう言えば、何年か前にある宗教団体の機関誌に永田さんの名前を見つけて、懐かしく思ったことがあった。
夜は、酔狂亭で月下独酌。群青忌が近いので、何かと落ち着かない。