白雲去来

蜷川正大の日々是口実

青山元動かず、白雲おのずから去来す。

2014-11-12 14:41:01 | 日記
十一月七日(金)晴れ。
※上の写真をクリックして下さい。

父と子の農夫が仕事を終え、馬を引いて家路につきます。通行人が彼ら親子を評しています。「バカな人間だな。馬の背があいている。誰か乗れば疲れなくてすむのに」と。それを聞いた息子は、なるほどと思い、父を馬に乗せて、今度は自分が馬の手綱を引いて道を急ぎます。 
その前方からきた通行人は、またすれ違いに、暗に父親を非難するように、「かわいそうに、子どもも疲れているだろう」 と、ひとりごとをいいます。それを聞いた馬上の父はあわてて下へ降りて、遠慮する息子をむりやり馬の背に乗せ、代わって馬を引きます。
しばらくしてまた数名の通行人が、こちらにやってきます。
彼らは、この父子の姿を見て、あきれたように「老いた父を歩かせて、いい若者がのんびりと馬の背にゆられている。世の中にはこんな親不孝者もいるんだなぁ!」と。息子は恥ずかしそうに馬から飛び降りて父と相談をします。そして誰からも文句をいわれないようにと、親子二人仲よく馬にまたがります。
今度こそ誰からも一言もいわれずにすむかと思っていたら、「大の男が二人も乗るなんて、何と残酷な人たちだろう。
馬がかわいそうだと気づかないのだろうか!」と激しい痛罵(つうば)の声を耳にします。父と子は困り果てます。して相談の結果、今度は二人して馬をかついで帰ります。人々はそれを見てびっくり仰天、やがて大きな声で笑いこけます・・・・・・。

私はこの、行く先々で人の意見に左右されてしまった父親と子どものお話を読み、自分にもそういうところがあるのではないかと振り返り、人に良く思われたいばかりに人の目ばかり気にしてしまい本来の自分を見失ったり、変な見栄やプライドが邪魔をして素直になれない自分がまだいることに気づきました。(どなたかのブログから転載いしました。謝々)

私のブログのタイトルの「白雲去来」は、「青山元不動、白雲自ら去来す(せいざんもとうごかず。はくうんおのずからきょらいす)」からとったものである。
意味は、青々とした山は元から動かず、白い雲が行き来するという意味となり、 雲に隠れて山が見えなくても山は元の場所から離れているわけでもなく、ただ雲が行き来しているのだということを表している。

「例えれば、山は雲で隠れてしまいますと見えなくなりますが、見えなくなったからといってその場所から無くなった訳ではありません。
雲が去ると、また、もとのように青々とした山が表れるといった、ありのままの自然の情景と物事を主観的に見るだけでなく、客観的に見ることも大切であることを表しているのではないでしょうか?
私たちの本来の心は、この山のように不動ですが、そこに自我の雲(こうしたい、こうなればいい等の自我の欲や思い)が行き来して、自分の思い通りにならないと心の中に雨が降ったり、嵐を起こしたりするように、平常の心が見え隠れしてしまい、心がどこかにいってしまったと錯覚してしまいます。ですが、その雲が過ぎ去るとまた本来の心が表れてきます。」とは、どなたかお坊さんの説教からです。

私もブログのタイトルに恥じぬように生きなければ・・・。もう遅いか。これまでの人生を顧みて、反省しつつ酔狂亭で月下独酌。嗚呼!

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