九月七日(月)雨。
機関誌を印刷するときに使用する専用紙を紙屋さんから取っているのだが、先月末に注文した分がなぜか届いていない。仕方がないので今ある分だけで印刷をしたが、半分くらいしかできなかった。紙屋さんに連絡したら「すみません。忘れていました」。こう堂々と謝られては、文句を言う気にもなれずに、ハハハハと笑ってしまった。
夕方までかかって何とか半分だけ印刷を終え、後は機械任せで丁合(頁揃え)、中綴じ、余白切りを済ませた。半分だけでも印刷ができて一応ほっとする。第二一五号のメインは、民族革新会議の犬塚博英議長が主宰している勉強会「博友会」における犬塚議長の『我が半生を語る―恩師・中村武彦先生没後十年の楠公祭を終えて』の講演録である。それを國の子評論の横山孝平さんにまとめて頂いた。タイトルでも分かるように『楠公祭を終えて』とあるので五月の講演だが、二時間にもわたる犬塚議長の講演をリライトするのはさぞ大変な作業であったに違いない。横山さんのご努力に感謝を申しあげる次第です。
内容は、中村先生の思い出や犬塚議長の運動の軌跡を様々なエピソードを交えてとても読み応えのあるものとなっている。犬塚議長の「回顧録」はそのまま戦後の民族派運動史であると言っても過言ではない。私と犬塚議長との出会いは、確か昭和四十九年ごろの「核拡散防止条約」の反対闘争がきっかけだった。当時、鈴木邦男、阿部勉、犬塚博英といった一水会系の人たちと学純同の関係者などが共闘して反核防闘争を行った。それは日本主義学生青年協議会に発展していったのだが、結局は長続きしなかった。その頃、「立ち上がる青年神道人の会」(だったと思うが)という団体名で参加していた人が、その後船舶振興会に就職し、「船の科学館」の館長を最後に定年退職したことを、先月行われた『尊攘義軍』の慰霊祭で知った。「新風」の初代代表の魚谷哲央さんも一緒だった。笠原正敏さんやブラジルで活躍している笹井宏次朗さんなどとも共に反核防闘争を行った。盟友の折本満氏、若くして亡くなった渡邊康司氏などもその核防闘争を通じて長谷川光良氏の紹介で知り合った。犬塚議長の講演録を読んでいて、当時のことを懐かしく思い出した。
半分しか完成しなかったが、自分へのご褒美として「カツオ」と「牛筋の煮物」を肴にいつもの「黒霧島」が切れたので、とっておきの「佐藤」の四合瓶の封を泣く泣く切って酔狂亭で独酌。
機関誌を印刷するときに使用する専用紙を紙屋さんから取っているのだが、先月末に注文した分がなぜか届いていない。仕方がないので今ある分だけで印刷をしたが、半分くらいしかできなかった。紙屋さんに連絡したら「すみません。忘れていました」。こう堂々と謝られては、文句を言う気にもなれずに、ハハハハと笑ってしまった。
夕方までかかって何とか半分だけ印刷を終え、後は機械任せで丁合(頁揃え)、中綴じ、余白切りを済ませた。半分だけでも印刷ができて一応ほっとする。第二一五号のメインは、民族革新会議の犬塚博英議長が主宰している勉強会「博友会」における犬塚議長の『我が半生を語る―恩師・中村武彦先生没後十年の楠公祭を終えて』の講演録である。それを國の子評論の横山孝平さんにまとめて頂いた。タイトルでも分かるように『楠公祭を終えて』とあるので五月の講演だが、二時間にもわたる犬塚議長の講演をリライトするのはさぞ大変な作業であったに違いない。横山さんのご努力に感謝を申しあげる次第です。
内容は、中村先生の思い出や犬塚議長の運動の軌跡を様々なエピソードを交えてとても読み応えのあるものとなっている。犬塚議長の「回顧録」はそのまま戦後の民族派運動史であると言っても過言ではない。私と犬塚議長との出会いは、確か昭和四十九年ごろの「核拡散防止条約」の反対闘争がきっかけだった。当時、鈴木邦男、阿部勉、犬塚博英といった一水会系の人たちと学純同の関係者などが共闘して反核防闘争を行った。それは日本主義学生青年協議会に発展していったのだが、結局は長続きしなかった。その頃、「立ち上がる青年神道人の会」(だったと思うが)という団体名で参加していた人が、その後船舶振興会に就職し、「船の科学館」の館長を最後に定年退職したことを、先月行われた『尊攘義軍』の慰霊祭で知った。「新風」の初代代表の魚谷哲央さんも一緒だった。笠原正敏さんやブラジルで活躍している笹井宏次朗さんなどとも共に反核防闘争を行った。盟友の折本満氏、若くして亡くなった渡邊康司氏などもその核防闘争を通じて長谷川光良氏の紹介で知り合った。犬塚議長の講演録を読んでいて、当時のことを懐かしく思い出した。
半分しか完成しなかったが、自分へのご褒美として「カツオ」と「牛筋の煮物」を肴にいつもの「黒霧島」が切れたので、とっておきの「佐藤」の四合瓶の封を泣く泣く切って酔狂亭で独酌。