白雲去来

蜷川正大の日々是口実

義士討ち入りの日。

2016-12-21 11:23:42 | 日記
十二月十四日(水)曇り後雨。

義士討ち入りの日か。そんなに遠くないのに、主君や義士の眠る高輪の泉岳寺にはお恥ずかしいことに行ったことが無い。来年は、必ず行ってみようと思っている。赤穂の浪士は皆切腹になったが、吉良の養子であった義周(よしひろ)も知行(ちぎょう=与えられた所職や所領を支配すること)を没収された。

忠臣蔵が好きだ。これまで映画やテレビでどれだけの人が、浅野内匠頭や大石内蔵助、四十七士を演じてきたのだろう。そう言えば、森繁が吉良を演じたこともあった。松坂慶子の浅野長矩の妻、瑤泉院が、一番良かった。日本人に愛されている忠臣蔵。どう考えたって死刑制度がなくなる訳はない。赤穂は、現在、兵庫県赤穂市となっているが、JRの駅は、今でも播州赤穂駅という古めかしい名前である。一度訪ねてみたいなぁー。

夜は、「チゲの素」を使って、豆腐とキムチを入れてキムチチゲで、「赤霧島」を相手に、酔狂亭で月下独酌。

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日清講和のふぐの店。

2016-12-21 11:02:00 | 日記
十二月十三日(火)晴れ。

今日は、お世話になっている方のご招待で、「ふぐ」から「寿司」へのダブルヘッダーと言う僥倖の日。玄品ふぐで待ち合わせたら、近くに馴染みの寿司屋があって、そこに良いマグロが入ったと連絡があったので、後で行きましょう。と言うことになった。それでは、と言うことで、ふぐは鍋を割愛して、刺身と白子、そしてブツでヒレ酒と言う、贅沢な物になった。一時間ほどいて、近くの寿司屋で、お刺身を堪能。浪人には、贅沢な夜となった。

ふぐと言う場、一度は行ってみたいのが、下関の春帆楼。このお店は、「高杉晋作が組織した奇兵隊の本拠地が阿弥陀時(現・赤間神宮)であり、その跡地に建ったのが現在の春帆楼です。春帆楼という屋号は、春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様から、伊藤博文が名付けました。明治二十年の暮れ、当時初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文公が春帆楼に宿泊した折、海は大時化でまったく漁がなく、困り果てた女将のみちは打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出しました。豊臣秀吉以来の河豚禁食令は当時まで引き継がれ、ふぐ中毒が増加するなか、法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていました。しかし禁令は表向きで、下関の庶民は昔からふぐを食していました。

若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤公は、初めてのような顔をして「こりゃあ美味い」と賞賛。翌明治二十一年には、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになりました。明治維新後、急速に近代化を進めた日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立を深め、明治二十七年八月、甲午農民戦争(東学党)の乱をきっかけに開戦しました。日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した戦況を受け、清国は講和を打診してきます。会議の開催地は、長崎、広島などが候補に挙がりましたが、一週間前に伊藤博文が『下関の春帆楼で』と発表。

明治二十八年三月十九日、総勢百人を超える清国の使節団を乗せた船が亀山八幡宮沖に到着しました。日本全権弁理大臣は伊藤博文と陸奥宗光、清国講和全権大臣李鴻章を主軸とする両国代表十一名が臨みました。講和会議は、当時の春帆楼の二階大広間を会場に繰り返し開かれ、4月17日、日清講和条約(下関条約)が締結されました。」とは、春帆楼のホーム頁から引用しました。

美味い物を食べて、美味い酒を飲むと、何か寿命が長くなるような気がする。

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