十二月七日(水)晴れ。
蕎麦屋で酒を飲むことを教えてくれたのは、亡くなられた元楯の会の阿部勉さんと、岐阜の花房東洋先輩の二人である。岐阜の蕎麦屋の名店、吉照庵で、やはり亡くなられた服部愛山先生らと卓を囲み、生まれて初めて「焼酎のそば湯割り」を飲んだ。昭和五十年の後半の頃だったと思う。阿部さんには、平成になってから、当時赤坂にあった野村事務所にいると、度々、「砂場」に呼び出された。初めて、砂場に呼ばれた時、すでに阿部さんや、一緒にいる人たちの卓には、徳利やらビールなどで賑わっていた。たまにはと思って、会計をしたら、えっ!蕎麦屋ってこんなに高い店もあるのかと、知った初めだった。
蕎麦屋では、酔うまで飲んではいけないと、教えて頂いたのは、野村先生だった。もともと野村先生は食が細い。ペースの速い私は、いつも別メニューにさせて頂いた。先生のお気に入りは、確か増上寺の前にある、何でも江戸時代からやっていると言う「更科布屋」だったと思う。何度かか連れて行って頂いた。
私のお気に入りは、横浜は、平沼にある「角平」。このお店は、岸信介や大野判睦、重光葵といった自民党の大物政治家に愛され、色紙や写真が残っている。また、横浜では歴代の市長より有名な、藤木幸夫先生の色紙も飾ってある。昭和二十五年開店の、角平の名物と言えば、海老の「つけ天そば」と「カツ丼」であろう。角平の近くに、やはり暖簾の古い「田中屋」もある。その日の気分で使い分けている。
夜は、お世話になっている方に誘われて、関内は、サリーの店の前にある「中村庵」という蕎麦屋で一献会となった。オーナーは横浜マリノスの関係者とのこと。仲良しさんたちとワイワイ飲んでからサリーの店で仕上げ。いい夜だった。写真は、「角平」さんの頁から転用しました。
蕎麦屋で酒を飲むことを教えてくれたのは、亡くなられた元楯の会の阿部勉さんと、岐阜の花房東洋先輩の二人である。岐阜の蕎麦屋の名店、吉照庵で、やはり亡くなられた服部愛山先生らと卓を囲み、生まれて初めて「焼酎のそば湯割り」を飲んだ。昭和五十年の後半の頃だったと思う。阿部さんには、平成になってから、当時赤坂にあった野村事務所にいると、度々、「砂場」に呼び出された。初めて、砂場に呼ばれた時、すでに阿部さんや、一緒にいる人たちの卓には、徳利やらビールなどで賑わっていた。たまにはと思って、会計をしたら、えっ!蕎麦屋ってこんなに高い店もあるのかと、知った初めだった。
蕎麦屋では、酔うまで飲んではいけないと、教えて頂いたのは、野村先生だった。もともと野村先生は食が細い。ペースの速い私は、いつも別メニューにさせて頂いた。先生のお気に入りは、確か増上寺の前にある、何でも江戸時代からやっていると言う「更科布屋」だったと思う。何度かか連れて行って頂いた。
私のお気に入りは、横浜は、平沼にある「角平」。このお店は、岸信介や大野判睦、重光葵といった自民党の大物政治家に愛され、色紙や写真が残っている。また、横浜では歴代の市長より有名な、藤木幸夫先生の色紙も飾ってある。昭和二十五年開店の、角平の名物と言えば、海老の「つけ天そば」と「カツ丼」であろう。角平の近くに、やはり暖簾の古い「田中屋」もある。その日の気分で使い分けている。
夜は、お世話になっている方に誘われて、関内は、サリーの店の前にある「中村庵」という蕎麦屋で一献会となった。オーナーは横浜マリノスの関係者とのこと。仲良しさんたちとワイワイ飲んでからサリーの店で仕上げ。いい夜だった。写真は、「角平」さんの頁から転用しました。