12月9日(土)晴れ。
朝食は、冷ご飯が冷蔵庫に沢山あったので、昆布と鶏ガラ、かつお節でたっぷりと出汁を取って「お粥」にした。「安記」風にネギをみじん切りにしてごま油と醤油で味を付けた薬味で食す。辛い鮭を一品。昼は抜いた。夜は、エビのガーリック炒め、ジャーマンポテト、津軽漬け。ほうれん草のおしたし。お供は「黒霧島」。
小春日和の良い天気。半藤一利氏が編集した本に「12月8日と8月15日」(文春文庫)という本がある。その日付のタイトルを見れば、よほどのアホでない限り昭和16年の開戦の日と、昭和20年の終戦の日のことをまとめた本であることが分かる。戦後の日本人は、大東亜戦争(太平洋戦争ではない)を「連合軍総司令部(GHQ)が戦後、教育やメディアを通じて植え付けた『日本だけが悪かった』という『GHQ史観』から抜けきっていない。これでは、祖国のためにと戦い戦場に散った幾百万の同胞に申し訳が立たない。」と昨日の産経新聞でコラムニストの乾正人さんが書いていた。
あらためて半藤一利氏の本を読んでみた。開戦の臨時ニュースを聞いたとき、歌人の斉茂吉は日記に「昨日、日曜ヨリ帝国ハ米英二国ニタイシテ戦闘ヨ開始シタ。老生ノ紅血躍動!」と書き「たぎりたる炎をつつみ堪えるしのびこらえ忍びしこの国民(くにたみ)ぞ」と詠んだ。この時茂吉59歳。また北原白秋は、「やまとの天皇(すめらみこと)の高しらす大き構想はたぐうすべなし」。吉井勇は「勝たん勝たんかならず勝たんかくおもい微臣のわれも拳握るも」。私の出た中学の校歌の作詞者でもある土岐善麿は「撃てと宣(の)らす大詔(おおみことのり)遂に下れり撃ちてしやまん海に陸に空に」。最後に与謝野晶子の歌は「み戦の詔書の前に涙落つ代は酷寒に入る師走にて」。
戦争だから、アジア解放、自存自衛という側面もあれば、確かに侵略的な要素もあったかもしれない。しかし、野村先生は、自決の際に同志らに宛てた「檄文」「天の怒りか、地の声か」の末尾をこう結んでいる。「ちなみに、神風特攻機は二千八百四十三機飛び立ち、二百四十四機が敵艦に突入したと記録にある。英霊よ、安らかに眠れ。いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったのかは、後世の史家が明らかにしてくれるであろう」。
今日の日本の平和と繁栄は、先の大戦で亡くなられた英霊のご加護であると、私は思っている。