白雲去来

蜷川正大の日々是口実

偶然買った情報誌が面白かった。

2010-01-25 08:50:44 | インポート

一月二十三日(日)晴れ。

 雨戸を開ければ、最高の陽射しが入ってきた。こんな天気の良い日は、気分も良い。午前中は、家族総出で家の掃除をした。一月でも、昼間がこのくらい暖かいといいのだが。

 午後から、上の子供が英語検定の試験を受けに行くので、試験会場まで送って行った。合格すると良いのだが。下の子供は友達と出かけて行き、良い天気だというのに、家人に手伝ってもらい、夕方までパソコンに向った。

 夕食は、子供達のリクエストで、チキンステーキ。私は、蒸し鶏にした。まじめに今日は休肝日。夕食後も、パソコンに向かい、連載させて頂いている原稿を書く。

 先日、何気なく入ったコンビニで、手にしたのが「モノクロ」という雑誌。様々な品物が紹介されており、私が買ったのは、「安くて良いもの大賞」という特集本。これが中々面白い。AV機器から旅行、洋服から食品まで「安くて良いもの」が出ている。A3のものがとれるスキャナーをずっーと欲しかったが、家電の量販店で定価を見たら、十万円を超えるものばかりで、あきらめていたら、「モノクロ」に、四万円台の物が紹介されていた。その他、便利なものが沢山あって、欲しくなって困ってしまった。こういった情報誌は、見ているだけでも楽しい。ポスターなどのデーターの保存に、是非共、そのスキャナーを買ってみたいものだ。

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「駒形どぜう」の会

2010-01-24 14:09:32 | インポート

一月二十三日(土)晴れ。

 七時起床。土曜日だというのに家人は仕事。朝食後は子供達にハッパをかけて、上の子供の部屋の掃除をした。何せ、我が家の子供達は掃除が苦手。少し、気を許すと、部屋はゴミ屋敷と化している。マットレスや布団、ぬいぐるみなどを干して、掃除機をかけ、床を拭いた。一日、窓を開け放して空気を入れ替え、やっとまともな部屋に戻った。

 仕事をしようと思ったが、そんな訳で、終了したのが三時を過ぎていた。今日は、六時半から、浅草の「駒形どぜう」にて、仲良しの人たちと「どぜうの会」を催す。五時十六分の横須賀線、成田行きで「馬喰町」下車。そこからタクシーでワンメーター。相変わらず、お店の前には、順番を待つお客さんが列をなしている。

 そこは地元に会社のある、今日の勧進元の隠岐康氏、しっかり予約をとってあり、スムーズに席へ。有り難いことに個室である。今日の、メンバーは、隠岐、大熊、山平、徐、高崎の諸氏に私と、某出版社の編集長のA氏の七名。

 店名になっている「どぜう」は、実は正式な旧仮名遣いではない。「どぢゃう」と書いていたのを、文化三年(一八〇六)に店が火事に遭い、初代が商売繁盛を願って変えた造語とのこと。めでたいものは奇数と決まっていたので、当時有名な看板描き、今で言うコピーライターの撞木屋仙吉に頼んで書かせたのが始まり。二〇〇一年一月二十日で二百周年を迎え、現在は六代目が店主となっている。とは、お店に置いてあったパンフレットからの引用である。

 ここに初めて連れてきて頂いたのは、亡くなられた元日本青年社の会長だった衛藤豊久先生。以来、この店のファンである。「どぜうなべ」や「なまず鍋」その他の料理に舌鼓を打ち、談論風発、美酒爛漫。その後、錦糸町に転戦して、十一時前に解散。楽しい一日だった。

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最近、はまっているブログが二つある。

2010-01-23 15:43:33 | インポート

一月二十二日(金)晴れ。

 飲んだ翌日は、これでもか、と言うほど寝ていられる。一度、八時前に起きたのだが、皆を見送った後に、再び布団に入って寝てしまった。目を覚ましたのは十時半。普段でも良く寝るほうだが、飲んだ翌日は更に良く眠れる。

 しばらくボーットしたのちに、机に向かった。しかし気が乗らずに、手紙を書いたり、本を読んだり、ほとんど仕事らしいこともせずに、三時過ぎに事務所に向う。五時に事務所を閉めて、自宅に帰る途中に、夕食の買い物。家族全員が揃って六時半に夕食。子供達はハンバーグだが、私たちは、頂き物の「鈴波」の魚の味噌漬け。いやはや贅沢な食卓である。

 食後は、家人と共に「マリーズバー」へ。そう「サリー」ではなく、「マリー」である。実は、十七日から一週間、サリー夫妻が、遅い正月休みをとり、ハワイに行っている。その間、友人のマリちゃんが、お店を開けているので、「マリーズバー」となった次第訳。十一時少し前まで飲んで、自宅に戻った。飲み足りなくて、我が家で少し飲んだ。

 話は、変わるが、最近、とても面白いブログにはまっている。「酔って候えど」という、B級飲み屋を楽しむもので、その人のこだわりや、肴や酒の薀蓄が沢山詰まっていて、とても面白い。時折、文中に「大破・轟沈」などといったキーワードが出てくるので、お会いしたことがある人かもしれない。

 もう一つは、「爆ちゃん吠える」というものである。これは政治批評で、とても勉強になる。多分、私の知っている「彼」だと思うのだが、文章の上手さには、ただ脱帽させられる。今まで、その「彼」の書いたものを読んだことがなかっただけに、余計に衝撃的だった。能ある鷹は爪を隠す、という諺があるが、正にその諺どおりだ。是非、読んでみて下さい。

 


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「味満ん」で、ふぐを堪能。

2010-01-22 17:57:10 | インポート

一月二十一日(木)晴れ。

 天気予報では、夕方まで暖かく、夜になると非常に寒くなると言っていた。午前中は曇っていたが、雨の降る様子もないので、洗濯物を外に干した。

 正午から事務所。様々な郵便物が届いていた。二時過ぎに、一水会の木村三浩代表から電話が入り、「少し早いですが、関内駅に着きました」。???エッ待ち合わせは明日のはずなのだが・・・。木村代表は、今日だと強調する。私は明日だと。「大吼」の春号用に、木村代表と対談をする予定になっていた。対談が終わったら中華街で食事でもと思っていたので、明日の予約を入れておいた。まあお互いの聞き違いで仕方ないが、来月にして貰った。

 五時前の電車で東京行き。大行社の三本菅会長のご好意での食事会を六本木で行なう。民族革新会議の山口申先生と、六時前に六本木の旧アマンド前で待ち合わせた。六本木で待ち合わせなんて、随分と久しぶりの事だ。かつては、アマンド前は待ち合わせ場所の定番だったが、アマンドが移転してしまい、待ち合わせの場所に困る。天気予報が的中し、コートを着てこなかったことを悔やんだ。山口先生と合流して向った先は、ふぐの名店「味満ん」。

 三本菅会長が先着しており、先ずはご挨拶。大好物の「ヒレ酒」を二杯飲むうちに、「テッサ」を残らず食べた。最高の味である。その後、唐揚げ、特大白子焼きを「森伊蔵」で堪能。〆は、白子入りの雑炊である。いやはや美味いのなんのって、私が、過去の人生で食したふぐ料理で、これほど美味いものは、「味満ん」のふぐ以外にない。大袈裟ではなく、人生観の変わるほどの「ふぐ料理」である。

 聞けばひっくり返るような値段なのに、銀座のホステスらしき美形を連れた四人組が隣に座った。どう見ても三十代の前半である。不況だといいながら、有る所にあるのがお金。個人的には、宝くじでも当らなければ、到底行けるような店ではない。

 その後、一軒転戦して、十時過ぎに帰宅。夢のような一日だった。美味いものを食べた時は、酒はほどほどにしないと、翌日、二日酔いでは、ご馳走に失礼である。三本菅会長に感謝である。


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亡くなられたミッキー安川さんは、高校の先輩だった。

2010-01-21 08:40:46 | インポート

一月二十日(水)晴れ。

 ベッドの脇のアラームが突然、チリチリと鳴り出したので、時計を見たらまだ朝の四時。ザケンジャネェと一人罵り、再び寝た。寝る前にフロントに八時にモーニングコールを頼んでいたにもかかわらず、かかってこなかった。温泉旅館のサービスなどをあてにしたほうが馬鹿だった。

 八時過ぎに、内田団長に起こされて朝風呂に行き、酒を抜いて、眠気を吹き飛ばした。幾らお付き合いで温泉に来ているとはいえ、考えてみれば贅沢な話だ。もう起きて仕事に出ただろう家人に、心でスマン、スマン、オスマントルコと詫びた。

 風呂でさっぱりしてから朝食会場へ。バイキングは余り好きではない。と言ってもこの人数では、一人ずつ用意をするのは無理か。和・洋・中のコーナーがあって、それぞれに好きなものが少しずつあるので、お皿に盛ると、品が悪くて恥ずかしい。

 大行社の諸君も朝食会場に来たので、朝の挨拶。九時に、内川徳彦君の車で、帰ることになった。ホテルの一階の売店で、名物の「信玄餅」をみやげに買って、帰路についた。寅さんが、旅から帰るときに、入りづらそうにして、手土産を渡す姿が、脳裏に浮かんだ。

 中央高速を走るが、「右がビール工場、左が競馬場」と、ユーミンの歌を思い出しながら、ウトウトしつつ大行社の本部に着いたのが、正午前。打合せを済ませた後に、内川君に内田団長と共に自宅まで送って頂いた。

 自宅で原稿の校正、六時まで。この頃には、家族が揃い、夕食は、「カレー鍋」。今日は、休肝日とした。

 ニュースでは、かつて巨人から阪神へ電撃トレードで移籍した、元ピッチャーの小林繁氏の葬儀の様子を映していた。江川卓氏の巨人入団のいわゆる「空白の一日」問題で、阪神にトレードされたが、この事があって、アンチ巨人になった人が多いと聞く。そういえば、この江川問題があって、ごり押しすることを「エガワル」との言葉が流行った。久し振りにテレビで見た小林氏のニュースが訃報であることに、何か割り切れないものを感じた。

 また高校の先輩で、辛口評論家のミッキー安川さんが亡くなられた。自宅も近所ではあったが、お付き合いはなかった。  ただ一度だけ、野村先生のお供で行った函館の空港でお会いし、先生から紹介されたことがあった。

 その昔、横浜に有名な「ナイト・アンド・デイ」というナイトクラブがあった。確か、場所は、関内駅から大通りを港に向った右側、弁天通りの近くにあったと記憶している。そのナイトクラブで専属で歌っていたのが、デビュー前の青江美奈さんで、その司会をしていたのが、ミッキー安川さんであったと、先輩から聞いたことがある。まだ私が中学生ぐらいの時だから、当然、行ったことはなかった。ちなみに青江美奈さんは、ジャズ歌手であったそうだ。

 何時頃まで、そのお店が営業していたかは、定かではないが、二十歳を過ぎてから、先輩に連れられて何度か行ったことがある。店の中に、中庭のようなものがあったことを、おぼろげに憶えている。

 当時の横浜は、ナイトクラブの全盛期で、何処のお店も、オープンが大体、夜の九時過ぎで、朝の四時、五時まで営業していた。東京から来るお客も多かった。

 ちなみに山下町には、有名な「ブルースカイ」。中華街には「グランドパレス」。そして「ナイト・アンド・デイ」の三軒が、当時の横浜を代表するお店だった。その後、雨後の竹の子のように、ナイトクラブがオープンした。若葉町には、美空ひばりが関係していた「おしどり」。日本大通りのサテライト・ホテルの上の「サテライト」。税関前の「クラブゼロ」。山下町の税務署の前の「ジュテーム」とその隣の「ナイトプラザ」。

 そして、山下公園脇の、今は、ドンキホーテのある場所にあったバンドホテルの上の「シェルルーム」。このホテルは、淡谷のり子さんの「別れのブルース」の作詞の舞台となったことで知られていた。福富町には「サンマロー」と、「シャンティー」があった。他のお店を思い出せないのがもどかしい。今度、サリーに聞いてみよう。

 朝まで生バンドが演奏していて、酒はもちろん食事にダンスをホステスと一緒に楽しんだ。今は、クラブやバーがはねた後に、ホステスと一緒に、食事に行ったり、飲みに行くのを「アフター」と言うそうだが、当時は、そんな言葉もなく、ほとんどナイトクラブで遊んだ。昭和のおおらかな時代だった。いつか、その時代の横浜のことを書いてみたいと思っている。

コメント (2)
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