一月二十日(水)晴れ。
ベッドの脇のアラームが突然、チリチリと鳴り出したので、時計を見たらまだ朝の四時。ザケンジャネェと一人罵り、再び寝た。寝る前にフロントに八時にモーニングコールを頼んでいたにもかかわらず、かかってこなかった。温泉旅館のサービスなどをあてにしたほうが馬鹿だった。
八時過ぎに、内田団長に起こされて朝風呂に行き、酒を抜いて、眠気を吹き飛ばした。幾らお付き合いで温泉に来ているとはいえ、考えてみれば贅沢な話だ。もう起きて仕事に出ただろう家人に、心でスマン、スマン、オスマントルコと詫びた。
風呂でさっぱりしてから朝食会場へ。バイキングは余り好きではない。と言ってもこの人数では、一人ずつ用意をするのは無理か。和・洋・中のコーナーがあって、それぞれに好きなものが少しずつあるので、お皿に盛ると、品が悪くて恥ずかしい。
大行社の諸君も朝食会場に来たので、朝の挨拶。九時に、内川徳彦君の車で、帰ることになった。ホテルの一階の売店で、名物の「信玄餅」をみやげに買って、帰路についた。寅さんが、旅から帰るときに、入りづらそうにして、手土産を渡す姿が、脳裏に浮かんだ。
中央高速を走るが、「右がビール工場、左が競馬場」と、ユーミンの歌を思い出しながら、ウトウトしつつ大行社の本部に着いたのが、正午前。打合せを済ませた後に、内川君に内田団長と共に自宅まで送って頂いた。
自宅で原稿の校正、六時まで。この頃には、家族が揃い、夕食は、「カレー鍋」。今日は、休肝日とした。
ニュースでは、かつて巨人から阪神へ電撃トレードで移籍した、元ピッチャーの小林繁氏の葬儀の様子を映していた。江川卓氏の巨人入団のいわゆる「空白の一日」問題で、阪神にトレードされたが、この事があって、アンチ巨人になった人が多いと聞く。そういえば、この江川問題があって、ごり押しすることを「エガワル」との言葉が流行った。久し振りにテレビで見た小林氏のニュースが訃報であることに、何か割り切れないものを感じた。
また高校の先輩で、辛口評論家のミッキー安川さんが亡くなられた。自宅も近所ではあったが、お付き合いはなかった。 ただ一度だけ、野村先生のお供で行った函館の空港でお会いし、先生から紹介されたことがあった。
その昔、横浜に有名な「ナイト・アンド・デイ」というナイトクラブがあった。確か、場所は、関内駅から大通りを港に向った右側、弁天通りの近くにあったと記憶している。そのナイトクラブで専属で歌っていたのが、デビュー前の青江美奈さんで、その司会をしていたのが、ミッキー安川さんであったと、先輩から聞いたことがある。まだ私が中学生ぐらいの時だから、当然、行ったことはなかった。ちなみに青江美奈さんは、ジャズ歌手であったそうだ。
何時頃まで、そのお店が営業していたかは、定かではないが、二十歳を過ぎてから、先輩に連れられて何度か行ったことがある。店の中に、中庭のようなものがあったことを、おぼろげに憶えている。
当時の横浜は、ナイトクラブの全盛期で、何処のお店も、オープンが大体、夜の九時過ぎで、朝の四時、五時まで営業していた。東京から来るお客も多かった。
ちなみに山下町には、有名な「ブルースカイ」。中華街には「グランドパレス」。そして「ナイト・アンド・デイ」の三軒が、当時の横浜を代表するお店だった。その後、雨後の竹の子のように、ナイトクラブがオープンした。若葉町には、美空ひばりが関係していた「おしどり」。日本大通りのサテライト・ホテルの上の「サテライト」。税関前の「クラブゼロ」。山下町の税務署の前の「ジュテーム」とその隣の「ナイトプラザ」。
そして、山下公園脇の、今は、ドンキホーテのある場所にあったバンドホテルの上の「シェルルーム」。このホテルは、淡谷のり子さんの「別れのブルース」の作詞の舞台となったことで知られていた。福富町には「サンマロー」と、「シャンティー」があった。他のお店を思い出せないのがもどかしい。今度、サリーに聞いてみよう。
朝まで生バンドが演奏していて、酒はもちろん食事にダンスをホステスと一緒に楽しんだ。今は、クラブやバーがはねた後に、ホステスと一緒に、食事に行ったり、飲みに行くのを「アフター」と言うそうだが、当時は、そんな言葉もなく、ほとんどナイトクラブで遊んだ。昭和のおおらかな時代だった。いつか、その時代の横浜のことを書いてみたいと思っている。