二月十四日(日)晴れ。
世の中は、バレンタイン・デーとか、わが街ヨコハマでは、中華街で春節の行事が行なわれていて、世をあげてお祭りムードである。家のバカ娘も、先日から、手作りのチョコレートや、ケーキ作りに精を出している。誰に渡すのかと少々気になったが、メモを見たら、いつもわが家に遊びに来る友達ばかりで、いわゆる「友チョコ」でチョット安心した次第。
今日十四日は、野村先生の誕生日である。お元気ならば今日で七十五歳となられる。群馬県は館林にある雷電神社の境内に、群青の会の正田暢鍵氏らが尽力して建立した先生の句碑がある。その雷電神社にて、ご夫人や門下生が集い、「野村秋介大人命生誕七十五年祭」を執り行う。
八時に、松本佳展君が来訪。一路群馬に向う。良い天気である。暖房を入れなくとも、車の中が暖かく、ついウトウトしてしまう。眠気覚ましに途中のSAにてコオヒイを飲む。上着を着なくとも、寒さは感じられず、柔らかな日差しが気持ちよい。
しかし、この後に不思議な現象が起きた。それまで青空だったのが、館林のインターを出た途端に、にわかに空が曇りだした。すると霧が発生し、十メートル先も見えない。周りの木々には昨日降ったのだろうか、雪が花を咲かせており、とても幻想的である。
※こんな感じです。
雷電神社に着いた時は、霧は止んでいたが、周りの木の雪化粧がこれまた幻想的で美しかった。句碑の前で記念写真を撮った。
わが生の 須臾(しゅゆ)なる命 如何にせむ の句碑。
※句碑の後ろの木が雪で花が咲いているように見えます。
十時半から、お祭りを開始。雷電神社は、群馬県の文化財であるため、火の気が一切ない。神殿の中は、冷蔵庫のようであるが、その凛とした寒さが、かえって心地よい。厳かに祭典が終了し、ご夫人のご挨拶で終了。表に出てみれば、太陽が燦々と輝き、わずか三十分ぐらいの間に、木々の雪がすっかり解けていた。
※神社にて。
ご夫人を含め、私達門下生の共通の思いは、これはきっと雪景色を愛した野村先生の演出に違いないという思いにかられた。午前中の霧と雪景色・・・。正に先生の生誕祭に相応しい演出であった。
信じられないかも知れないが、生前に、野村先生と旅をしていると、そういった不思議なことに度々遭遇した。例えば、ベネチアで偶然に入った鄙びたレストランで、何とその店にいたのが内田裕也氏だったり、香港に行った時は、府中刑務所で一緒だった中国人が、ガイドとして付き、不思議な再会に驚いたこともあった。その他、今日のような天気の激変など、数え上げたらきりがない。
一昨年、フイリピンのマタブンカイに群青忌の撮影に行った時もそうだった。乾期というのに、フイリピンは、二、三日前から大雨が続いており、各地に被害が出てた。私達が到着した時も、雨はその勢いを増し、スケジュールの都合で、撮影は、その日、一日しかない私達を暗くさせた。
先生の著書「美は一度限り」の中に描かれている、マタブンカイの落日。この映像を撮れなければ、日本から、大勢の人たちを連れてきた意味がない。撮影スタッフも我々も、空を見上げて、ため息ばかりついていたが、監督の根本順善氏が、こう大見得を切った。「大丈夫です。私が晴れさせてみせます。野村先生も見ています」と。
しかし、篠突くような雨は止む気配もない。あきらめて、ホテルのロビーで、サンミゲルを飲んでいたら、誰かが、「雨が止んだぞぉー」と叫んだ。信じられぬ思いで海岸に出てみれば、本当に雨が止み、雲の間から夕陽が顔を出しているではないか。そして、ルバング島が黒いシルエットとなって、水平線の彼方に見える。
撮影が終り、夕陽が完全に沈むと、また雨が降りだした。翌日も雨で、その雨の中で先生の奥様のインタビュー撮影が行われた。結局、一泊での滞在中に晴れたのは、昨日の夕方の二十分だけだった。私は、先生と英霊のご加護を信じずにはいられなかった。「どうだ蜷川」と、先生の高笑いが聞こえるようだった。
※僅か二十分だけ晴れた時の、マタブンカイの夕陽。正に、野村先生のご加護と確信した。
雷電神社での、生誕祭が終了した後に、埼玉県は川口市にて、正田氏が経営しているお店で直会。門下生を代表して、私が挨拶をさせて頂いた。三時に終了。岩上賢先輩と共に横浜へ戻った。
自宅に着くと、後輩のY氏から連絡が入り、私の先輩で、私に陸上競技を勧めてくれた、故山崎邦雄さんのお墓参りを終えて、伊勢佐木町の「花笠」にて、直会を行っている、と連絡が入り。夕食を兼ねて家族で伺った。山崎さんのことは、近々書きたいと思っている。