白雲去来

蜷川正大の日々是口実

サンコンさんの息子は、ヨンコンだって。

2010-02-17 11:25:18 | インポート

二月十五日(月)曇りのち雨。

 毎日寒い日が続いている。まあ冬だから、と言ってしまえば、それまでだが。私の日常とは関係ない話を一つ。いつも送って頂いている「週刊朝日」の中に、「親子対談」のコーナーがあり、そこに登場していたのが、良く私がギャグに使わせて頂いているオスマン・サンコンさん。彼は、ギニアの秀才で、国費でソルボンヌ大学に留学した。その後、日本での大使館設立の為に親善大使として来日した。

 その時のエピソードをサンコンさんが話しているのをテレビで見たことがある。それはギニアにいる頃は、日本と言えば、サムライの国と言うぐらいの知識しかなく、今でも本当にチョンマゲ姿のサムライがいると思っていたらしい。

 しかし成田空港に着いても、ホテルに行く道すがらも、一人もサムライと出会うことがなかった。サンコンさんは、ここは大都会の東京だからサムライがいないのではと、勝手に判断した。何気なく、ホテルの部屋でテレビをつけた所、何と、そこに映っていたのが「水戸黄門」。やっぱりサムライはいた、と大喜びしたそうだ。

 「親子対談」で、驚いた、いや笑ってしまったのは内容よりも、レゲエの歌手として活躍している息子の名前。何と、サンコンさんの息子の名前が、「ヨンコン」と言うのだ。思わず笑ってしまった。最初は、バンドをやっているというので、芸名かと思ったが、どうやら本名らしい。彼に弟がいるかどうかは知らないが、もしいたとしたら、。サンコン、ヨンコン、に続いて「ゴーコン」だったらいいなと思った次第。

 五時過ぎに友人が来訪するので、久し振りに松原商店街に買い物に出た。おなじみの「魚孝」でマグロとカマを買い、肉屋で餃子とシュウマイ、そして八百屋で、白菜とキュウリのおしんこを買った。気前良く「甕雫」を開けて、十時近くまで飲んだ。

 友人のブログは、皆、政治的な話に終止し、世に警鐘を乱打しているにも関わらず、私の場合は、ほとんど酒の話でスミマセン。でも国を憂い、世を嘆いて、悲憤慷慨の酒を飲んでいますので、勘弁してください。


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野村先生の生誕祭に、先生の演出か・・・。

2010-02-16 10:07:55 | インポート

二月十四日(日)晴れ。

 世の中は、バレンタイン・デーとか、わが街ヨコハマでは、中華街で春節の行事が行なわれていて、世をあげてお祭りムードである。家のバカ娘も、先日から、手作りのチョコレートや、ケーキ作りに精を出している。誰に渡すのかと少々気になったが、メモを見たら、いつもわが家に遊びに来る友達ばかりで、いわゆる「友チョコ」でチョット安心した次第。

 今日十四日は、野村先生の誕生日である。お元気ならば今日で七十五歳となられる。群馬県は館林にある雷電神社の境内に、群青の会の正田暢鍵氏らが尽力して建立した先生の句碑がある。その雷電神社にて、ご夫人や門下生が集い、「野村秋介大人命生誕七十五年祭」を執り行う。

 八時に、松本佳展君が来訪。一路群馬に向う。良い天気である。暖房を入れなくとも、車の中が暖かく、ついウトウトしてしまう。眠気覚ましに途中のSAにてコオヒイを飲む。上着を着なくとも、寒さは感じられず、柔らかな日差しが気持ちよい。

 しかし、この後に不思議な現象が起きた。それまで青空だったのが、館林のインターを出た途端に、にわかに空が曇りだした。すると霧が発生し、十メートル先も見えない。周りの木々には昨日降ったのだろうか、雪が花を咲かせており、とても幻想的である。

Dscf1800 ※こんな感じです。

 雷電神社に着いた時は、霧は止んでいたが、周りの木の雪化粧がこれまた幻想的で美しかった。句碑の前で記念写真を撮った。

Dscf1804

わが生の 須臾(しゅゆ)なる命 如何にせむ の句碑。

Dscf1813 ※句碑の後ろの木が雪で花が咲いているように見えます。

 十時半から、お祭りを開始。雷電神社は、群馬県の文化財であるため、火の気が一切ない。神殿の中は、冷蔵庫のようであるが、その凛とした寒さが、かえって心地よい。厳かに祭典が終了し、ご夫人のご挨拶で終了。表に出てみれば、太陽が燦々と輝き、わずか三十分ぐらいの間に、木々の雪がすっかり解けていた。

Dscf1816 ※神社にて。

 ご夫人を含め、私達門下生の共通の思いは、これはきっと雪景色を愛した野村先生の演出に違いないという思いにかられた。午前中の霧と雪景色・・・。正に先生の生誕祭に相応しい演出であった。

 信じられないかも知れないが、生前に、野村先生と旅をしていると、そういった不思議なことに度々遭遇した。例えば、ベネチアで偶然に入った鄙びたレストランで、何とその店にいたのが内田裕也氏だったり、香港に行った時は、府中刑務所で一緒だった中国人が、ガイドとして付き、不思議な再会に驚いたこともあった。その他、今日のような天気の激変など、数え上げたらきりがない。

 一昨年、フイリピンのマタブンカイに群青忌の撮影に行った時もそうだった。乾期というのに、フイリピンは、二、三日前から大雨が続いており、各地に被害が出てた。私達が到着した時も、雨はその勢いを増し、スケジュールの都合で、撮影は、その日、一日しかない私達を暗くさせた。

 先生の著書「美は一度限り」の中に描かれている、マタブンカイの落日。この映像を撮れなければ、日本から、大勢の人たちを連れてきた意味がない。撮影スタッフも我々も、空を見上げて、ため息ばかりついていたが、監督の根本順善氏が、こう大見得を切った。「大丈夫です。私が晴れさせてみせます。野村先生も見ています」と。

 しかし、篠突くような雨は止む気配もない。あきらめて、ホテルのロビーで、サンミゲルを飲んでいたら、誰かが、「雨が止んだぞぉー」と叫んだ。信じられぬ思いで海岸に出てみれば、本当に雨が止み、雲の間から夕陽が顔を出しているではないか。そして、ルバング島が黒いシルエットとなって、水平線の彼方に見える。

 撮影が終り、夕陽が完全に沈むと、また雨が降りだした。翌日も雨で、その雨の中で先生の奥様のインタビュー撮影が行われた。結局、一泊での滞在中に晴れたのは、昨日の夕方の二十分だけだった。私は、先生と英霊のご加護を信じずにはいられなかった。「どうだ蜷川」と、先生の高笑いが聞こえるようだった。

Manila_cd01_254 ※僅か二十分だけ晴れた時の、マタブンカイの夕陽。正に、野村先生のご加護と確信した。

 雷電神社での、生誕祭が終了した後に、埼玉県は川口市にて、正田氏が経営しているお店で直会。門下生を代表して、私が挨拶をさせて頂いた。三時に終了。岩上賢先輩と共に横浜へ戻った。

 自宅に着くと、後輩のY氏から連絡が入り、私の先輩で、私に陸上競技を勧めてくれた、故山崎邦雄さんのお墓参りを終えて、伊勢佐木町の「花笠」にて、直会を行っている、と連絡が入り。夕食を兼ねて家族で伺った。山崎さんのことは、近々書きたいと思っている。

 


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皇室とティラピア

2010-02-14 07:05:50 | インポート

二月十三日(土)霙。

 朝七時に起床。いつもは薄手のジャージのようなものを着て寝ているのだが、さすがに昨夜は寒くて目が覚めてしまった。トイレに起きたついでに外を見れば雪が降っていた。寒いわけだ。獄中にいる同志は、この寒さでは大変だろう。

 「タグラグビー」とやらの試合に出る子供を集合場所まで送り、のんびりと朝食。上の子供は、明日が珠算検定で、朝食後は、部屋にこもってパチパチ算盤の練習問題に取り組んでいた。家人は仕事。折角の土曜日なのに、仕方なく、冷蔵庫のような事務所に行って、「大吼」の校正に精を出した。

 昼過ぎに、天気が悪くて、タグラグビーの試合が午前中で終わったと、連絡が入ったので、子供を迎えに行き、東戸塚のダイエーで昼食とお茶。

 そういえば、社友で、豊橋に在住の福井英史さんより、とても良い話を教えて頂いた。福井さんは、「福井のカレー」という、手作りのカレーを通販で販売している。ファンも多く、食通の中では有名な人だ。

 その福井さんの友人なのだろうか、「毎日カレーとタイ料理」というブログの中に、タイでは大衆魚となっている「ティラピア」という魚に関する、とても良いエピソードが紹介されていることを教わった。

 そして今日一番お知らせしたいのが、「タイのティラピアと日本の皇室とのつながり」である。過去に何度か紹介したことがあるが、最後に書いてから2年近く経過しているので、ここで改めて。
『現在の明仁天皇陛下が皇太子であった当時の話。タイ皇室からタイ国民のたんぱく質不足の相談を受け、1965年(昭和40年)3月25日に、東京・赤坂の御用池のティラピアを50匹寄贈した。
ティラピアが淡水魚で繁殖力があったことから、養殖などが進んで、いつの間にかタイでも数が増え、50万匹、500万匹~へとその数は大きくなった。そして現在では大衆魚として輸出するほどまでに広がっている』。
そして驚くべきことに、このエピソードのタイ人の認知率はほぼ100%。スラータニでも「プラーニン・ミャンカム」を食べながら再びこの話題になったが、宴会に同席した10人超のタイの方は全員知っていた。さらには、「プラー・ニン」の名前の「ニン」は、日本の皇室男系でよく使われる『仁』から命名したそうで~。

 今度、タイに行ったら、必ず、「ティラピア」を食べてみるつもり。夕食後は、おとなしく机に向かって、仕事をした。たいして飲まずに、深夜一時過ぎに就寝。

コメント (2)
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橋本聖子氏を文部科学大臣に。

2010-02-14 00:41:16 | インポート

二月十二日(金)曇り。

 朝食後、一人になって、自宅でパソコンに向って、アルバムの整理。二、三歳の頃から、小学校、中学までの写真の整理がようやく終わった。新しいアルバムに張替え、パソコンにも入力した。次は、高校時代から、民族派運動に入るまでの時代のものを整理しなければならない。もっとも、写真は陸上部関係のものばかりだが。

05

※昭和40年、小田原の陸上競技場のサブトラック。私は中学の3年生。

三時から歯医者。ランドマークタワーにあった有隣堂が撤退してしまい、時間を潰すのに困っていたが、新しい書店が入ったので、歯医者に行くのも楽しくなった。しかし、今日は、我が酔狂亭に友人が来訪するので、その肴の準備をしなければならないので、歯医者が終わった後は、すぐにスーパーへ買出しに行った。

五時半に友人が、つまみ持参で来訪。私が用意した鳥の水炊きで、酒宴の始まり。どんな美味な肴よりも、人間味。延々十時過ぎまで飲んで解散。いい酒だった。

 そういえば、冬季オリンピックが始まる。ウインター・スポーツにはあまり興味はないが、それでも日本選手には頑張ってほしいものだ。そのオリンピックに向う、空港で日本選手の服装の乱れを、選手会長の橋本聖子氏が、「だらしない」と注意し、注意された選手がオリンピックの選手村の「入村式」を辞退し、会見で謝罪したニュースを見た。

 橋本聖子氏も中々やるではないか。遊びに行くのでも、自費で行くのでもない。国家の代表、という自覚と態度が求められるのは当然である。たしかに、その選手は、子供の頃から注目され、ワールドカップなどで優勝するくらいなのだから、普段は練習漬けで遊ぶ暇もないだろう。多分、まっすぐな性格で、とてもいい男であるかもしれない。服装で人の性格までは分からないが、しかし、大人としての自覚も必要なのだ。親もいれば、監督、コーチも入ることだろう。普段はどんな格好をしても、フォーマルであるべきところは、キチンとしないと、お里が知れるというものだ。

 昔は、「お里が知れる」という事を言われるのは、その個人だけではなく、家の恥だった。そういうことを教える大人が少なくなった。

 受験生の服装が乱れていることで、不合格にした校長が左遷されたことがあった。これからは橋本聖子氏を文部科学大臣にするといい。たいしたものではないか。次は、国会で民主党の倫理の乱れを追求して欲しいものだ。


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建国記念の日、紀元節です。

2010-02-14 00:11:20 | インポート

二月十一日(木)小雨。紀元節。

 起床後、顔を洗い、口をすすぎ、玄関に日の丸を掲げる。神武天皇肇国の昔をしのび橿原神宮、皇居を遥拝。

 公私共にお世話になってる方から、紀元節に際して、紅白のお饅頭をご恵送頂いた。その中に入っていた栞には、大変分かりやすい紀元節意義が書かれていた。

ここに転載させて頂く。 

 

 建国記念の日 (紀元節)

 わが国の皇室は世界史上最長の歴史を誇る王朝であり、皇室は今もなお凛と輝きを放っている。初代の神武天皇が即位されたのが紀元前六六〇年。以来二千六百七十年の間、神武天皇の男系の子孫が脈々と皇位を継承してきた。これを「万世一系」といい、現在の天皇陛下(今上陛下) は第百二十五代にあたる。

 世界史の年表を見ても、二百年以内に滅びた王朝が大半を占め、五百年以上続いた王朝は数えるほどしかない。わが国の皇室が二千年以上続いてきたのは世界史の奇跡といえるだろう。

皇室は昔から日本人の宗家ともいえる存在で、天皇はその家長に当たると考えたらわかり易いだろう。天皇は「祭り主」 であり、祈る存在である。日本国民はそのような天皇をいつの時代にも大切にしてきた。天皇と日本国民は特別な縁と、目に見えない信頼で繋がっているのである。

 わが国は『日本書紀』の記述を根拠に、神武天皇が即位された二月十一日を「建国記念日(紀元節)」と定めている。神武天皇即位によってわが国の歴史は始まった。皇室が世界最長の歴史を誇るだけでなく、わが国は現存する国家の中で、最古の国家ということを考える日が「建国記念の日」なのである。    

(日本文化チャンネル桜 キャスター濱口和久)

 

 今日は、午後の一時から、神宮外苑にある日本青年館において、日本誠流社の貴田誠会長の戦線復帰のお祝いがあり出席のため、東京行き。また日本青年館では、午後の三時より紀元節奉祝の集会もある。

 

 当初、酒を控えて、午後の奉祝大会にも出世の予定だったが、隣の席には、坂田秀道、丸川仁、木川智といった同志の方々がいる。お祝いの席ともあって、つい酒がすすむ。気がつけば、私達のテーブルには、グラスの山。三時前に終了したが、酒が入ったままで、奉祝祭典に出席するのも、申し訳ないので、丸川氏と日本青年館を後にした。

 

 自宅に戻ってから、少し仕事をしたのちに、家族で食事。昼間の酒のせいか、風呂に入ったらすぐに眠くなり、早めに寝てしまった。

 


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