白雲去来

蜷川正大の日々是口実

霧雨が悲しみを増すこともある。

2010-02-12 01:34:02 | インポート

二月十日(水)曇りのち雨。

 七時に起床。家族で朝食。冷凍保存しておいた、紅鮭、納豆、もやしのみそ汁。名古屋の友人から頂いた「森口漬け」、という、正しい日本の朝食。

 八時を過ぎると、家にいるのは私だけである。「大吼」の春号の校正に精をだす。今回は、小沢一郎批判特集号となる。一時過ぎから事務所へ。本の注文やDVDの注文が来ていて、その発送を行なったり、資料の整理などをして、四時過ぎに帰宅。

 今日は、六時より、六日に逝去した、「清水苑」のオヤジの通夜が久保山の一休庵という葬儀場にて行なわれるので、家人と共に喪服に着替えてから家を出た。自宅の近所の焼肉屋「清水苑」のオヤジこと永山悠基さんと私は同じ歳であり、中学は隣同士。私が、現在の家に引越してきてから、馴染みとなり、仲良しになった。

 自宅までの帰り道には、必ず、店の前を通るので、車のスピードを落として、店の中を見ると、暇なときは、オヤジが入り口のテーブルに腰掛けて、焼酎のサワーを飲みながらテレビを見ている。近所のオヤジ連中が一緒の時もある。つい私も寄り道して、一杯飲んでしまう。大体食事を済ませてきた後なので、料理など取らずに、親父と馬鹿っ話をしながら、閉店まで、ということが度々あった。

 そのオヤジが体調を崩したのが、一年半前ぐらいか。案の定肝臓を悪くした。家族や周囲の心配をよそに、一向に酒を止めない。腹水がたまって、顔もむくみ、大黒様のような体になって、ようやく入院。でも、少し良くなると、病院で隠れて、缶チューハイを飲み、医者にバレて、病院を出される、という事が何度か続いて、さすがに家族もあきらめた。

 しばらくは、店を息子に任せて、自宅療養をしていたが、コンビニでばったり会ったら、缶チューハイを抱えていた。悪戯を見つかった子供のように、慌てていた顔を思い出す。

 次に会った時は、酒が入ると、立ち上がることも出来ないくらい弱っていた。馴染みの客も、あきらめていて「冥土の土産に一杯飲め」と、仕方なく酒を勧めていた。

 お店のママも、「好きなように生きてきた人だから、好きにさせてあげるの」と、サワーを持ってきた。女房というものは、菩薩のようだと、感じた一瞬だった。

 そのオヤジが、突然脳梗塞で倒れたと聞いたのは、昨年の十一月だった。家人と見舞いに行ったが、生きているだけで、反応が全くなかった。「ユキちゃん」と声をかけたが、聞こえたのだろうか。やはり脳梗塞で倒れた母のことを思い出した。

 葬儀は、殆どが町内の人たちで、皆、飲み仲間。関内の綺麗どころも随分と来ていて、オヤジが元気で、ネオン街でブイブイやっていた頃のことが、浮かんだ。葬儀に来ても一寸の隙もない喪服姿のネェさんたちも皆、一様に目を赤くしていた。

 私が、彼の店を友人に紹介して、常連となった人たちも来てくれていて、その中の一人、後輩のS君を誘って、久し振りに関内へ弔いの酒を飲みに出た。

 「写楽」で、寿司をつまんで、古い付き合いのママのいる店に転戦したのちに、仕上げは、やはりサリーの店。十二時過ぎに帰宅したが、傘をさそうか、どうしようかという程度の霧雨が降っていた。土砂降りの雨よりも、この程度の雨の方が、悲しみが増すこともある。

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紅梅キャラメルのカメラ当り券。

2010-02-12 00:34:22 | インポート

二月九日(火)曇り。

 毎日、目を覚ますと、「今日は早目に連載させて頂いている原稿を書こう」と思うのだが、雑事をこなしているうちに、つい他のことをしてしまう。

 二時まで、自宅でパソコンに向って、私の個人的な写真の整理をした。実は、小学校から中学時代のアルバムを出してみたら、アルバムそのものも、台紙がはがれて、ボロボロで、所々にカビも生えている。これ以上の保存は到底無理。貼ってある白黒写真も、現像の処理が悪いのか、黄色く変色している物もある。まあ考えてみれば、もう五十年以上も前のものもあるし、仕方がないのかもしれない。

 そこで、一度、皆、パソコンに取り込んで、CDに入れて保存することにし、アルバムも新しいものと交換することにした。

 といっても、私の小学生時代や、それ以前の子供の頃の写真は、幾枚もないので、それほど体力と時間を要しない。

 決して裕福ではなかったわが家でも、写真館で撮ったものが何枚かある。当時は、庶民にとってカメラは貴重なものであった。今のように、デジカメで気軽に写真が取れるような時代とは違い、七五三や子供の成長を記念する写真は、どこの家庭でも少々無理をしても、町の写真館で撮ったものだ。

 今でも、子供の幼稚園、七五三、小中学校の入卒業といった節目には、馴染みの写真館で撮っている。しかし、その写真館もデジカメの普及で、つい最近廃業してしまった。手軽な「現像屋」はあるが、写真館が姿を消して行くのは寂しいものだ。子供に聞いてみても、写真館に行く友達は少ないそうだ。

 私が、小学生の頃も、自分のカメラを持っている子供など稀だった。遠足などにカメラを持ってくるのも、大体親の物を借りてきたものだ。

 私が子供の頃に、「紅梅キャラメル」というものがあった。キャラメルの中に、巨人軍の選手の写真などが入っており、小遣いが入るたびに、「紅梅」を買った。巨人軍の選手の写真を集めるのが目的ではなく、そのカードを集めるともらえるおまけの景品が目的だった。

 駄菓子が主流だった時代でも、失礼ながら「紅梅キャラメル」は、森永のものと比べると、不味く、カードを取り出した後は、食べずに、「ぶつけっこ」をしていたくらいだ。

 その景品の中で、一番人気があったのが、小型カメラだった。しかし、その「カメラ当り券」が、中々入っていないのだ。家には、紅梅のキャラメルが山のようにたまってしまい、良く、母に怒られたものだった。

 その頃の事を書いた本に「さよなら紅梅キャラメル」(澤里昌与司著・東洋出版)がある。同世代の方は、是非ご一読下さい。

 自分のカメラを買ってもらったのは、中学の頃だった。そのカメラで撮った修学旅行や遠足の写真が残っている。随分と前置きが長くなったが、そんな昔のものを整理するのも楽しい作業だ。他にやらなければならないことが山ほどあるのに、つい、脱線してしまう。

 三時に、事務所に来客あり。その後は、真面目に仕事をした。夜は、伊勢佐木町裏の鶏肉の「梅や」にて、地鶏を買い求め、鳥と豆腐の鍋にした。スープは、石澤昆布をたっぷりと使った出汁と、花カツオ、日本酒、薄口醤油で味付け。

 そういえば、昨日も「湯豆腐」だった。しかし、豆腐と卵は安くて庶民の味方だ。所帯じみた話で恐縮だが、事務所に行く途中のスーパーの卵は、MSサイズの物がワンパック、八十八円で売っている。豆腐も三丁で百円である。その分、鶏肉に贅沢が出来る。

 鶏肉と豆腐以外は、一切入れない。ひたすら鶏肉のうま味と、そのうま味をたっぷり吸った豆腐を楽しむ。私は、そのスープに柚胡椒。「伊佐美」を、ふふふ、と一人笑いをしながら飲んだ。一升瓶をグラスに注ぐ度に、家族の冷たい視線が刺すように集中し、少しだけにしようかと思うが、「敗けてはならぬ」と、根性をきめて、なみなみ注ぐ。どんなもんだい。と胸を張るが、家族は無視している。酒を飲むのにも、かつての米ソのような冷戦状態がわが家にはある。

 仕上げは、インスタント・ラーメン(辛ラーメンの麺だけ)を入れて仕上げ。十二時前に寝た。


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湯豆腐のこだわりと「MJQ」

2010-02-08 23:48:10 | インポート

二月八日(月)曇りのち晴れ。

 七時に起床。朝食は、「湯どうふ」にした。私は、湯どうふが好きである。でも、湯豆腐というと、最近は「寄せ鍋」と区別出来ないような、具たっぷりのものが主流だが、私は土鍋には「とうふ」しか入れない。白菜など、他のものを入れると、とうふに妙に味がついて嫌なのである。

 札幌の社友、石澤博文君が、定期的に送ってくれる上等な「利尻昆布」を、前の晩から水に浸してじっくり出汁をとる。入れる野菜は大根を一欠けのみ。なぜか切った大根を入れると、豆腐がふっくらするから不思議だ。昆布は沸騰する前に出してしまう。豆腐も煮てはいけない。中が暖まる程度で良い。

 しかし、幾ら上等な豆腐を入れても、また良い昆布で出汁をとっても、醤油が駄目だと、どうしようもない。伊勢原は大山に「豆腐料理」の店が随分あるが、残念なことに醤油が駄目だ。豆腐にこだわるならば、なぜ醤油や鰹節にこだわらないのか良く分からん。恐らく、酒を飲めない人が作っているのかもしれない。

 わが家は、それほど高くはないが、ヒゲタの「減塩本膳」か、イリショウというメーカーの「澪つくし」というものをもう十年以上使っている。それぞれ、お中元などで頂いた物だが、なくなると自分で頼むようにしている。鰹節は、もちろん自分で削る、「削り節」。あとは、ネギのみじん切りか、たっぷりの「青のり」。朝から、家族で、湯豆腐の鍋を囲み、フウフウやりながら食べるのも、しばし団欒の一時で、会話が弾んでいい。是非、朝食に、湯豆腐をお試しあれ。安くていいですよ。

 また上等な豆腐は、醤油を使わずに、岩塩で食べるとめちゃくちゃ上手いが、中々そんな豆腐にめぐり合う機会もなくなった。

 八時を過ぎると、家にいるのは私一人。午後から、某週刊誌の取材が入っていたので事務所へ。五時に帰宅。帰りしなにスーパーを覘いたら、鳥肉のセールを行なっていたので、買って、夜は水炊きにした。散々迷った挙句に思い切って「伊佐美」の封を切った。最近、会っていない酒友のマークや、弘明寺のM田君、郡山のS間君、岐阜の細川先生や、社友の人たちの顔が脳裏に浮かんだが、美味い焼酎を一人で飲む後ろめたさに、スマン、スマン、オスマン・トルコと三回謝って、ふふふ、もう四合も飲んだ。

 そういえば、自宅に帰る前に寄った、ブックオフで、「MJQ」の名曲、「ジャンゴ」の入っているライブ盤のCDが、なんと三百円で売っていた。何という僥倖。仲間由紀惠をナンパしたのと同じくらいの嬉しさに、思わずニンマリした。

 レコードでしか持っていなかったので、CDは嬉しかった。今、そのMJQのアルバムを聴きながら、「伊佐美」を一人で飲んでいます。ミルト・ジャクソンのビブラフォンがいいナァー。何という贅沢だろうか・・・。


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女房元気で留守は寂しい。

2010-02-08 22:53:48 | インポート

二月七日(日)晴れ。北方領土の日。

 下の子供の朝練の為に朝五時に起床。いやはや、好きでやらしているとはいえ、朝の五時とは、親泣かせである。ヘロヘロになって、朝食と弁当を作った。愚妻も朦朧として送って行った。当然、二度寝して、目を覚ましたのが十時過ぎ。今度は、上の子供が、部活で出掛けて行った。日曜日だというのに、家族が揃わない。成長することは嬉しいが、少々寂しくもある。昼から、愚妻も、「適当会」へ出席の為に出かけて行った。トホホホ、一人ぼっちである。

 「適当会」とは、サリーが中心となって行なっている、おんなどうしの飲み会であり、メンバーは十人ほどだが、皆揃って男勝りの酒豪ときている。集る日も適当ならば、何時解散するのも適当な会である。大体、八時間から十時間ぐらい、四、五軒はしごしても、殆ど平気という女傑ぞろいなので、体力のない男が参加しても馬鹿にされるだけなので、早々に送り出した。自宅に一人でいるのもつまらないので、女房を「適当会」に行かせて、留守番を余儀なくされている男やもめの二人を我が家に誘って、こっちは、こっちでの一献会となった。

 四時過ぎから、一日やもめの松本佳展君、カメちゃんと、特別参加の小針政人君とで、わが家で、私の手料理で一杯やった。奥方どもは、どうせ豪勢にやっているのだろうからと、こちらも豪勢にと、カメちゃんの差し入れの「一休寿司」の刺身、先日、友人から頂いた、特別上等な「からすみ」、釧路の「シシャモ」、函館から送って頂いた「いくら」などで、ガンガンやった。しかし、共通の思いは、女房元気で留守は寂しい・・・。

 時計を見れば、十時。奥方達は、十時間も飲んでいるわけだ。十時を過ぎて、ようやく帰宅した、私、カメちゃん、松本君の奥方達と、飲みなおして、十二時前に解散。マイッタ、マイッタ。お陰で「王道楽土」が空いてしまった。

 国家の行く末も、小沢問題も、何も考えずにいた一日だった。スマン、スマン、オスマン・サンコンである。


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勉強会へ参加。そして友の訃報。

2010-02-08 11:47:42 | インポート

二月六日(土)晴れ。

 午前中は、事務所へ。過去に野村先生が出演したテレビや「風の会」などの映像をまとめた「野村秋介ライブラリー」の整理の為に、一時過ぎまで事務所にこもっていた。

 四時に、松本佳展君来訪。今日は、新宿の某所にて、新体制となった民族革新会議(犬塚哲爾議長)の勉強会が開催される。道路が混んでいて十五分ほど送れて会場に着。

 小沢一郎に対する検察のあり方に対して、マスコミの方をゲストに迎えての勉強会。いかに小沢に金銭的な疑惑があろうとも、「検察頑張れ!」という思考は危険、というのが、出席者の大半の意見であった。私は、小沢が、政治資金規正法などで起訴されようが、されまいが、そんなことは余り重要なことではない。むしろ、彼の金銭疑惑のみがクローズアップされ、先般の、陛下に対する不敬発言や、外国人参政権問題が忘れ去られてしまうことの方が問題であると思っている。今、民族派が団結して、この問題で小沢糾弾の声を挙げ、行動すれば、以後、外国人参政権の問題を口にすれば、民族派からこれほどの抗議と抵抗を受ける。という前例となり、彼等も簡単には、その問題には触れなくなるのではないか。

 また、小沢は支持率を見ながら、五月迄には幹事長を降りるのではないか。それを「みそぎ」として、若い者に幹事長の座を譲り、支持率を回復してから参議院選挙に望む。幹事長であろうがなかろうが、民主党内における小沢の力は、隠然たるものがあり、誰が総理や幹事長になろうとも、垂簾の政を行なうことは目に見えている。敬天新聞の白倉康夫社主ではないが、民族派の正念場となるのではないか。

 白熱した議論で、二時間が過ぎ、会議の終了後は、近くのスナックにて直会。一水会の木村三浩代表から、三島由紀夫の「憂国」のDVDをお借りした。是非、若い人達に見せて頂きたいとのことであった。木村代表の決意表明とも言うべき、「憂国」のDVDを心して見たいと思った次第。松本君に送って頂き、十時過ぎに帰宅。

 実は、今日の午後に、友人でもある焼肉屋、「清水苑」のマスターが亡くなったとの知らせをご子息から受けた。昨年の暮に倒れて、入院したが、意識のない状態が続いていた。見舞いに行ったが、医者の話によれば、目は開いていても、誰かと言う判別はつかず、いわゆる植物人間の状態であるとのこと。彼と、私は、同じ歳で、仲が良かっただけに、入院、死亡の知らせは、予期していたこととは言え、やはりショックだった。通夜が、十日の水曜日の六時から、久保山の一休庵で行なわれる。合掌。


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