白雲去来

蜷川正大の日々是口実

後藤新平邸で救援活動を行なった大行社の清水行之助先生

2011-04-16 08:59:43 | インポート

四月十二日(火)晴れ。

  今回の大震災での復興計画が各界で議論されているが、その折に必ず引き合いに出されるのが関東大震災の直後に組閣された第二次山本内閣で、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した後藤新平である。

 その後藤新平に掛け合って、被災者の支援をしたのが大行社を創立した清水行之助先生であったことは余り知られていない。大行社が出版した「清水行之助回顧録」の中に、関東大震災の直後に、後藤新平から、金を出させて、炊き出しなどの支援にあたった事が生々しく語られている。

 「私は米、味噌、醤油、うどん粉、塩、梅干しなど緊急な物資を内務大臣の後藤邸に運べと交渉して回った。後藤さんが内務大臣になったことはもうこの頃は知れ渡っていた。大臣の屋敷に運ぶのだから、手付金だけでもみんな信用して持ってきてくれる。注文した品物が届くと、それと引き換えに残金を支払ってやった。そして翌四日から、後藤邸の横門に「避難民収容所」という看板をかかげて、それから約一カ月間、救助活動を始めた。
 

 なるべく多くの人の便宜をはかった。しかもあくまで応急の対策が目的だったから.一晩しか泊めないようにした。とりあえず後藤邸で 一晩休憩し、それから親戚 '知人を頼って出ていくという訳だ。数の多い日は一日に三百人くらい収容 したこともあった。
 私と金内(注・清水先生の門下生)は腕に「内務省」という腕章をつけて'結局、一ケ月間、後藤邸に寝泊りした。 

 後藤さんとお母さんは、広い屋敷のうち、奥の十畳の間だけを自分たちで使われ、残りの部屋はことごとく避難民の収容に解放された。それでも足りない場合は、さらにテントを庭に用意して下さった。その間、時の顕官である後藤内務大臣はもとより年老いたお母さんも何一つ嫌な顔をされず、我々の救援活動を見守って下さった。その立派な態度には、本当に頭の下がる思いだった。
 

 ちなみに紹介すれば、九月半ばまでに東京市内で公共機関に炊き出しを給与された人数は、のべ百五十三万一千四百八十人に及ぶと言う。また飲料水の配給が始まったのは東京市では二日、横浜市は七日からである。しかし、給水用の自動車の焼失やガソリンの不足で思うにまかせず、九月未に水道が復旧するまで、人々は不自由を忍んだ。」(「清水行之助回顧録」より)

 自らが所有する「音羽御殿」と称される大邸宅。実の母親から五年間で九億円もの小遣いを貰うほどの大金持ちである鳩山由紀夫元総理が、その御殿に避難民を収容したり、ソフトバンクとまでは行かなくとも、ユニクロくらいの寄付をしたとも聞かない。後藤新平と比して、その品性も政治信念も人間性においても比べようもない。

 以前にも書いたが、最悪の内閣の時に、最悪の震災が起きた。どちらも史上初という点では同じだが、災いまで同じとは、神様も酷いことをするものだ。


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