白雲去来

蜷川正大の日々是口実

友が皆、我よりも偉く思える日。

2014-02-22 14:04:33 | インポート

二月二十日(木)晴れ。

風邪がまだ治らず体調は良くないが、一日中安静にしているほど余裕などない。食事を作る気力もないので、午前中に帰ってきた下の子供を連れてファミレスでランチ。その後、伊勢佐木町の有隣堂から注文を受けた「さらぱ群青」を届けに行く。入金は二か月後とのこと。まっいいか。どこの誰が注文をしてくれたのか知らないが、読んで頂けるだけで嬉しい。先生の本を売ることも私にとっては、ある意味で運動でもある。


その後、事務所に行き、郵便物の確認。鈴木邦男さんから「連合赤軍は新選組だ」をご恵送頂く。また古い同志でもある笠原正敏氏から、昨年還暦を迎えた記念としてご夫婦で作った句集、「鉄馬」と「痕跡」の二冊を頂いた。思えば、鈴木、笠原両氏とも昭和 五十年初頭の「核拡散防止条約」の反対闘争以来のお付き合いである。

Photo ※彩流社刊です。

当時、核保有国が、持たざる国を支配しようとした不平等条約に対して、一水会や学純同、新日協に加盟していた人たちと共闘戦線を構築した。一水会の人たちは、鈴木邦男、阿部勉、犬塚博英、四宮正貴といった人たち。その他には、京都の魚谷さん。現在ブラジルに在住している「良識復活国民運動」の笹井宏次朗さん。新日協からは笠原正敏さん。「立ち上がる神道人の会」の森田文憲さん。学純同では大場俊賢、長谷川光良、前田伏樹の諸氏。そして私は「横浜青年政治研究会」を主宰していた。

Photo_2 ※笠原さんご夫妻の句集。

日枝神社に集合して「一日共闘」を行った時に、長谷川氏の紹介で街宣車で参加したのが、国防青年隊を結成したばかりの渡邉康司氏だった。


笠原さんから頂いた「句集」の跋文を読んで。ふとそんな昔のことを思い出した次第である。


夜は、酒をほんの三杯だけにして早めに布団に入った。


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レルヒ少佐と礼留飛さんに平身低頭。

2014-02-20 18:01:59 | インポート

二月十九日(水)晴れ。

幾らか体調は良くなったが、まだ咳と鼻水が止まらない。今日は午後から私が役員の末席を汚している大行社の役員会議がある。大事をとって休もうかとも思ったが、月に一度のことなので、無理をして出席した。会議では、顧問、相談役の挨拶と言うものがあり、毎月、簡単な挨拶を述べるのだが、いつも「講演の名手」の四宮正貴先生の後で、前座が真打の後に話をするようで、どうも具合が悪い。でもこれも勉強とアホなりに頑張っている。

 

今日は、若い人たちの前で、「名は体を表す」ということについて話をさせて頂いた。それは、ちょっと私の世代では信じられないような名前を子供につける親が多いと、何かで読んだことがあり、それが「キラキラネーム」というものであることを最近知った。PCで調べてみたら、目を疑うと言うか、親の顔が見たい、と言おうか、頭がおかしいんじゃネェの、と思うような名前が沢山あって、正に暗澹たる気持ちになった。まあ考えてみれば、縁もゆかりもない他人の子供のことだから目くじら立てることもないのだが、ウクレレ持って「あーあ嫌になっちゃった、驚いた」とのたまってみたいと思うのは、もう時代遅れなのだろうか。

 

ソチオリンピックのスキージャンプ団体戦で銅メダルを取ったメンバーの中に、清水礼留飛(れるひ)さんと言う人がいて、無知無能な私は、例のキラキラ関係かと思って、またまたあー。とつぶやいてしまいました。そう思っている矢先の二月十九日の「産経抄」に、「礼留飛」さんの名前の由来が出ており、清水さんが居るであろうソチに向かって平身低頭しました。以下は「産経抄」から。


日本に本格的にスキーが導入されたのは明治44(1911)年のことである。新潟県高田(現上越市)の陸軍歩兵第58連隊で、オーストリアから招かれたテオドル・レルヒ少佐が兵士たちに滑り方を手ほどきした。なぜ軍隊でだったかには理由があった。その9年前の明治35年1月、青森県の八甲田山麓を雪中行軍していた青森第5連隊の210人が遭難した。生還したのは11人だけ、199人が死亡するという、日本の山岳史上に残る大惨事となった。記録的な寒波の中、猛吹雪で道を失ったのである。無謀とも思えるこの行軍は、実際には2年後に起きるロシアとの戦いへの備えだった。冬季、ロシアが津軽海峡や陸奥湾を封鎖し攻め込んできた場合、これと戦うには、八甲田山を通り青森と弘前などを結ぶルートを確保する必要がある。そう考えての訓練だった。遭難の原因には、地元民の案内人を付けなかったことなどがあげられた。だがもうひとつ指摘されたのが兵士たちの足元だった。大半は「かんじき」をつけるか普通の軍靴だけで、想像を上回る積雪に動きが取れなかった。陸軍は「スキーをはく軍隊」の必要を感じたのだ。現実にレルヒ少佐がスキーを伝授したのは日露戦争後だった。今では軍事と関係なく国民の多くがゲレンデで楽しむ時代となった。その陰ですっかり忘れ去られていた「スキー事始め」やロシアにおびえていた歴史がソチ五輪で、突然のようによみがえった。レルヒ少佐にちなんで名づけられたという清水礼留飛(れるひ)選手がスキージャンプ団体戦で銅メダルを獲得したからだ。因縁めくが、ひとつ上の2位になったのは少佐の母国、オーストリアだった。日本として「恩返し」できたというべきか、どうか。


いやはや知らぬこととはいえ、アホバカ「キラキラネーム」と誤解して、この罪、万死に値します。

 

 


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有田氏側の「お詫び」。

2014-02-20 12:22:24 | インポート

二月十八日(火)晴れ。

過日の、有田芳生氏の国会質問に関連して、有田氏側のサイトに「謝罪文」が掲載されていない。との連絡が、大行社の周本昌山副会長などから指摘がありました。有田氏に確認をしました所、氏の公式ブログに「お詫びが」がありました。掲載させて頂きます。


有田芳生の『酔醒漫録』 (公式ブログ)2月10日付。
【お詫び】質問のなかで基本的なミスをした。野村秋介さんの肩書きとピーター・バラカンさんのお名前を間違えたことだ。いずれも翌日に書類を提出し、議事録には正確な内容に訂正された。野村秋介さんの門下生代表である蜷川正大さん、湯川れい子さんを通じてピーター・バラカンさんにも了解をいただいた。記してお詫びしたい。


追記 以下は弊社に届きました有田氏からの「謝罪文」です。再度アップ致します。
2014年2月7日   有田芳生


昨夜、蜷川さんの質問書を拝受いたしました。2点のお訊ねにお答えいたします。
【経過】2月5日の参議院予算委員会ではNHK会長発言と東京オリンピック・パラリンピック問題を質問する予定でした。ところが9時からの開会直前に、毎日新聞で報じられた長谷川三千子さんの問題についても、急きょ取り上げることになりました。そこで作成したのが添付した短い原稿です。答弁者に向けての質問通告です。そこに書いてあるとおり、口から出る予定の言葉は「右翼団体元幹部」でした。ある方から昨日御指摘があり、確認をしたところ「暴力団」という言葉を使っていたことに気づいた次第です。まったく無意識のうちに発した言葉でした。


【背景】この日の質問についてはいろいろと反省点があります。実はNHK問題では人名を間違えるというミスもありました。ピーター・バラカンさんを「バカラン」と言っていたのです。これまた無意識のなせることです。国会議員になって3年8か月。委員会でいろいろ質問をしてきましたが、全閣僚が入り、しかもNHKが中継することに緊張していたのでしょう。繰り返しますが、野村秋介さんの呼称についても、まったくの無意識から生じた誤りでした。


【対応】昨日夕方に記録課に連絡を取り、誤った発言部分を「右翼団体幹部」に訂正しました。「元」を取ったのは、1993年当時は「元」ではなかったからです。したがって正式な議事録では、誤った発言は訂正されることになります。参議院議長宛ての訂正書類もすでに提出しております。私の発言で御遺族、蜷川さんをはじめとするお弟子さんたちに怒りと不快感を与えたことはまことに申しわけありません。こころから謝罪申し上げます。  ◎有田 芳生◎

風邪が治らず、一日中、カメのように布団から顔だけ出してジットしていた。病院へ行こうかと思うのだが、あの狭い待合室で一時間も待つのかと思うと、行く気がしない。かえって具合が悪くなりそうだ。薬局で「ストナプラス2」という薬を買って来て貰い飲んでみた。うーん早く治るように・・・。


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浪人生活が板に付いた。

2014-02-20 11:46:29 | インポート

二月十七日(月)晴れ。

 

いつもなら二、三日で治るはずの風邪がまだ尾を引いている。熱は出ないのだが、咳と鼻水で難儀している。お蔭で休肝日を設けられているが何とも寂しい限りだ。

 

不如意の泥沼から抜け出されず、もがいても、もがいても浮上しない。ディーゼルの潜水艦ならば適当に浮上して空気を取り入れなければならないのだろうが、原潜ならば何か月も潜水状態でいられる。正に、今の私の不如意は原潜並みだ。それでも本人は至って気楽なもので、「無いものは、ない」とあきらめの境地にいる。

 

そう言えば、その昔に買っておいた頭山満や三上卓などの額や頼山陽の掛け軸もほとんど酒代に代わってしまった。野村先生の書も、残っているのは四枚となった。生前、私が先生に「何か書いて下さい」と言うと、笑いながら「皆、蜷川の酒代になるんだからたまらないよ」と笑って応じてくれた。二十枚ぐらいもあったが、先生の言葉通りにさせて頂いた。(笑)残っているのは以下の四枚。句集「銀河蒼茫」に未収録の物もある。

 

ひとり来て また独りゆく 冬銀河

 

冬の怒涛を見たし 憂憤あればなほ

 

葉桜の風は海辺の音に散る ※「銀河蒼茫」未収録。

 

蝉しぐれ一度限りの命かな ※「銀河蒼茫」収録。

 

「まくり」のままなので近々、額装をしコピーもとって保存しておかなければと思っている。

体調が悪く、お湯割りを三杯だけで、早めに布団に入った。


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風邪のため先輩の墓参を欠礼した。

2014-02-19 12:10:02 | インポート

二月十六日(日)晴れ。

 

朝起きると、頭痛がして喉も痛い。幸いに熱はないが、典型的な風邪の予兆である。寒気もするし最悪の状態である。今日は、友人たちと先輩である山崎邦雄さんの墓参に行く予定となっている。待ち合わせの時間は二時なので、朝食後に薬を飲んでしばらく横になった。二時間ほど寝ていたが、体調は戻らず、結局、友人に連絡して欠席した。

 

夕方、墓参に行った友人らからメールが入り、雪で墓苑は閉まっていたが、無理を言って開けて頂き、花を手向けたそうだ。友人によれば、他のお墓は雪で埋まっていたにもかかわらず、山崎さんのお墓だけは、まるで墓参に来る人たちを待っていたかのように、雪がなかった。とあった。無理をしてでも行けば良かったと後悔した。

 

亡くなられた山崎さんは、私の二つ上で、幼馴染でもある。私は、その人の勧めで中学生の時に陸上競技を始めた。運動音痴であった私が、まがりなりにも学校では誰にも負けぬほどになり、努力すれば報われる、ということを実感したのは、山崎さんのお蔭であった。

1 ※左が蜷川。中学の一年生。隣は、山崎さん。中学三年生。お兄さんの背広を借りての記念写真。私の胸のワッペンは翌年の東京オリンピックの協賛の物。関東学院の階段にて。

 

先輩は、その後、伊勢佐木町のオデオンの前にあった「スタンド・ロック」というカウンターバーで店長をしており、従業員には、水原弘雅氏や後年、ロイヤルパークの総支配人となる山崎雅夫氏などが働いており、自然とそのお店が、私の友人たちのたまり場のようになった。

 

そのお店に良く来ていたのが地下鉄吉野町の上で「一銭」を経営している尼野保氏や、統一戦線義勇軍の針谷大輔議長、清和崇氏、そして亡くなった板垣哲雄氏などだ。聞く所によれば「やまと」のご夫婦も、結婚前にスタンドロツクの常連だったとか。その縁で、「やまと」には尼野氏や山崎氏などが通っている。考えてみればもう三十五年も前のことだ。

 

そういった人たちが、集まる店だから、当然皆、民族派運動に関わり合い、私や山崎氏を中心として、神奈川の街宣活動に参加したこともあった。

 

毎年、山崎さんの命日に、所縁の友人たちが集まって墓参を行っている。私が参加したのは四年ほど前のことだが、山崎雅夫、尼野保の諸氏の友情に感謝する次第である。

 

体調が悪く、一日布団で横になっていた。体は正直で、お湯割りを一杯飲んだが不味かった。


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