白雲去来

蜷川正大の日々是口実

梅雨が明けた。

2015-07-29 07:07:05 | 日記
七月二十日(月)晴れ。海の記念日。

一八七六年(明治九年)七月二十日、明治天皇は東北地方に行幸され、青森から函館を経て横浜まで、明治丸という船でお帰りになった。陛下が軍艦ではなく、商船をお召し船とされたことを記念して、昭和十六年に、内閣書記官長通牒で七月二十日を海の記念日としたものである。その後、「海の日」として祝日化する国民運動が盛んになり、一九九六年に「海の日」として祝日化された。

意義は良く分かるが、もう夏の晴れの日に海に行こうと言う体力も気力もないのが正直な話である。朝まで飲んで、そのまま湘南の海へ行き、昼過ぎまで浜辺で寝て帰ってくる。と言ったことを繰り返していたのは、二十代まで。今こんなことをしたら確実に天国へ召される。猛暑の日は、クーラーの効いた自宅か事務所で、のんびりと仕事をしているのに限る。

お陰様で『燃えよ祖国』の校正が終了。後は印刷、丁合、発送の作業を残すのみ。ここまで来たらもう貰ったようなものだ。今日、梅雨明け宣言が出た。これから日々暑さとの戦いか。
 

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ニューグランドの屋上から見た連合艦隊。

2015-07-28 18:02:03 | 日記
七月十九日(日)晴れ。

伊勢原の野村先生のお墓の掃除に行った志村馨、横田保志の両君が来訪。午後から、お世話になった方の一周忌に一緒に出かける。お寺にて、I氏と合流。法事が始まって、ご焼香をさせて頂くが、遺影に手を合わせると、その方との様々な思い出が走馬灯のように脳裏にを巡った。お斎にて定年退職した某私鉄会社の役員氏と同席。亡くなられた方の思い出話をするが、お互いに口をついで出る言葉は、「早すぎる」。

I氏に自宅まで送って頂き恐縮する。午後からPCにて原稿書き。機関誌『燃えよ祖国』の段取りで何となく気忙しい。

深田祐介氏の『地球地味な旅』という本の中に、氏が「生涯で一番豪華な食事をした」日のことが書いてあった。それは昭和十六年七月五日の夜で、場所はヨコハマのニューグランドホテルの屋上で取った夕食であったと述懐している。

当時、深田氏は小学生で、友人の父親の案内で家族と共に横須賀港に停泊している重巡洋艦「利根」に乗艦、見学をした。小学校の四年生であった深田氏は、当時の子供が皆そうであったように「軍国少年」であり、「眠れない思いでこの日を待った」そうだ。当時「利根」は一般に公開されていない、最新鋭の航空巡洋艦で、前甲板に二十サンチ砲塔四門を集中し、後甲板に水上偵察機七機を搭載する、というユニークな艦だった。艦内を見学する深田少年の興奮は頂点に達した。その横須賀の帰路に、横浜に寄り、ニューグランドで食事をした。

「これが生涯忘れ得ぬ食事」となった。「何しろ夕食の背景がこの上なく豪勢であった。ニューグランドの屋上に出てみると、横須賀に入りきれぬ連合艦隊の戦艦群が十隻、横浜沖に巨大なシルエットをうかべて投錨していた。巨大な戦艦群は夕陽を浴びながら、盛んに発行信号を交わしていたが、私には「陸奥」「長門」「金剛」「比叡」に至るまで、すべての艦船を識別できた。ニューグランドの屋上レストランには、外人客も多く、私は日本海軍の威容を背景にして甚だ得意な気分であった。ただしこの夜、何を食べたのかは、まるで記憶に残っていない」。

深田氏の本は、「革命商人」「炎熱商人」「新東洋事情」「スチューワーデス物語」など好きな作品が多い。また上記の一文に接してさらにファンになった。亡くなられてしまったのが残念で仕方がない。合掌。あーあ私もニューグランドの屋上から帝国海軍の艨艟(もうどう)を見たかったなぁー。



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最近のウナギは偉そうだ。

2015-07-28 16:40:41 | 日記
七月十八日(土)曇り。

この時期、魚屋や商店街はうなぎの匂いが充満する。西洋人も日本人のようにうなぎを食するのか知らないが、日本人のうなぎ好きは他の国の人々を圧するに違いあるまい。かくいう私も相当なうなぎ好きなのだが、最近はとんとご無沙汰をしている。理由は一つ、高すぎるからである。ショボそうな下町のスーパーでさえ、少々見てくれの良いものは二千円もする。デパ地下やうなぎのお店で食べるとなると四千円はくだらない。たまに一人で食べてみようかとも思うのだが、家族に申し訳なくて素通りする。飲み屋や寿司屋で飲む時などは、家族に悪いなどとは思わないのに、うなぎだけはどうも一人だと罪悪感が伴うのはなぜだろう。

うなぎ屋で、まず「肝焼き」を二三本食べながら、生ビールをぐいっと飲む。昔は馴染みのお店で、「肝吸い」の中に肝を沢山入れて貰い、それをワサビしょう油で食べて酒の肴にしたものだ。今は家族でこんな食べ方をしたら軽く二万円はする。わずか一食で二万かと思うと、食欲がなくなる。こんなことを気にしている内はうなぎを食べても美味しくないにきまっている。

うなぎの名店と言うのは何処の町にもあるに違いない。また人それぞれ馴染みの店があって、講釈をたれる。昔、うなぎの二段重ねを食べたことがあるが、あれは頂けない。酒飲みの食事ではない。どうせ二枚もあるのならば、一枚は別に皿に入れて貰いたいと、呑兵衛の私は思うのである。そう言えば、今までで一番高いうなぎを食べたのは、東北大震災の年のこと。お世話になっている方に連れて行って貰った南千住の「尾花」と「野田岩」。この二軒は絶品でした。特に「尾花」のうなぎ六匹を豪快に焼いた「筏」にはたまげましたね。横浜は関内の「わかな」かな。もっと他にも美味しい店があるのだろうが、知りたくもあり、知りたくもなしか。

土用というのは夏だけにあるのではない。四季の終わり十八日余りの期間のことをいうのだが、暑さのもっともきびしい夏の土用がその代表格となったわけである。夏は小暑後十三日から立夏までの期間がそれに当たる。陰陽五行説(木・火・土・金・水)説によると、春は木、夏は火、秋は金、冬は水の支配するところとして、、各季の終わりに十八日間ずつ土の支配する日を置き、そのことを土用といったものである。
土用の丑(うし)というのは夏の土用のあいだにある丑の日のこと。この日、ウナギを食べるのは、江戸中期の科学者平賀源内が、知り合いのさえないウナギ屋に同情して一計を案じ丑のウとウナギのウをひっかけたキャッチフレーズを出させたところ、大いに図に当たり、そのウナギ屋は大繁盛したという。それ以来ウナギと丑の日の深い因縁ができたといわれているのだが……。(「歳時記」より)

「ひさびさに家族がそろい鰻屋にいっしょにひらく鰻重の蓋」とは佐佐木幸綱の歌。

松原商店街へすっ飛びで行き、カツオとマグロを買うが、親子四人分でうなぎより安い。曇りで月も見えずに、夜来の雨の音を聞きながら酔狂亭で独酌。

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博友会に出席。

2015-07-27 10:08:18 | 日記
七月十七日(金)雨後曇り。

久しぶりに東京行き。先輩の犬塚博英さんが主宰している勉強会、「博友会」に不肖・宮嶋こと宮嶋茂樹さんが講演する。古い友人でもあり、野村先生と一緒にマドリード、モロッコを旅したこともある仲だ。出席しなくては礼を欠く。

会場は、中野にある会館。駅を降りて線路沿い新宿方面に歩くこと八分。と案内状にあった。改札を出て、あれ、新宿方面はどっちだったか?。新宿駅を通り越したので戻る方向で良い。野村先生も、「どっちに行くか迷った時は、右翼は右に行けば良い」と仰っていたのを思い出し、右方向に曲がって線路沿いを歩いた。雨は上がったせいもあり蒸し暑い。時計を見ると、もうかれこれ十五分ぐらいも歩いているが、それらしい建物が無い。仕方が無く、通行人に聞けば、「反対方向ですよ」。ひぇー十五分歩いたということは、当然ながら又、十五分かけて道を戻らなければならない。線路沿いなので車の往来がほとんどない。正直言って萎えた。汗だく、へとへとになってやっと駅まで戻り、今度はタクシーに乗って会場まで行った。

着いた時は、すでに講演は始まっており、こそこそと席に着いた。写真を使用した講演はとても楽しかった。終了後に「あずさ」にて直会。二次会に行った時はもうヘロヘロで、ほとんど飲めずに帰宅。

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「アド街ック」の影響。

2015-07-27 08:57:51 | 日記
七月十六日(木)曇り後雨。

「アド街ック天国」と言う番組の「関内特集」にほんの何秒か出ただけで、随分と多くの人たちからフェイスブックの「イイネ」ではないが、「見たよ」を頂いた。ホームグラウンドの関内の人達はもとより、定年で退職した某私鉄の副社長や北海道の仲間、さらには何十年も会っていなかった人や、小、中、高校の同級生などから連絡があったのには正直言って驚いた。どうして連絡を取ったかと言えば、パソコンのお蔭だということ。良いのか悪いのか分からないが、PCで私の名前を検索すると、あららら、と思うほどヒットする。それでメールをくれたりFBで繋がったりと、入口は人それぞれだが、随分と懐かしい人たちと再会?をした。

そんな訳でもないが、もうすぐ発売になる「実話ドキュメント」に、久しぶりに横浜のことについて書いてみた。と言っても私が二十代の前半の頃の横浜での思い出をほんの少し脚色して書いた。歳のせいにはしたくはないが、昨日のことは忘れても、十年、二十年も前のことは良く覚えている。

以前、私が十代の後半から二十代だった頃の横浜のことについて書いてみようと思ったが、四編ほどで止まってしまった。その理由は、単にネタが尽きたことと、才能が無いということ。私に限らず、人には、その人が生きて来た分だけ多少のドラマがあるのだろうが、それを文章に出来ない自分が歯がゆい。

依頼されている原稿の後半部分と一日格闘。幾度か読み返してから、入稿した。夜は、自分への「お疲れさん」で、久しぶりに松原商店街の「魚孝」へ行き、マグロを買う。親父さんと目が合って、幾ら取られるのかとドキッとしたが、千八百円。ホツトした。ロツポウ、シチケンぐらいの中トロで、納得。酔狂亭で独酌。

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