白雲去来

蜷川正大の日々是口実

ギリシャも我が家も似たようなものだ。

2015-07-11 10:28:08 | 日記
七月五日(日)雨。

日曜の 芙蓉の虹に銀の雨。とは野村先生の句である。今日は、四年前に五十歳という若さで亡くなられた、菊水国防連合の三田忠充会長の四年祭が藤沢にある三田会長の墓所にて行われ出席。約百名近い同志が集まっての墓参。考えてみると神奈川で現役で運動を続けている中では、いつの間にか古い部類に入ってしまった。お世話になった先輩が亡くなり、会合などに行くと私が最年長と言う時もある。事務所に行った時などたまに古いアルバムを見ることがあるが、そこに写っている方のほとんどが鬼籍に入ってしまった。正に、年年歳歳花あい似たり、歳歳年年人同じからず。を実感する。

二時過ぎに帰宅。色々としなければならないこともあるのだが、雨を理由に事務所行きは中止。のんびりとしていた。日曜日だから・・・と一人ごちるが、考えてみれば、毎日が日曜日みたいなものだ。テレビではギリシャの財政危機が連日報道されているが、我が家も似たような物で、ギリシャのように債権者に債権の放棄をお願いしてみようかな。それにしてもギリシャの厚顔ぶりには笑ってしまう。四百年近くもローマやトルコに植民地となっていたせいだろうか、明日は明日の風が吹く、と言うような国民生らしい。あっ私にもギリシャ人の血が入っているのかもしれない。

大体、ギリシャ人やイタリア人と言うのはあまり信用できない。特にイタリアは、先の大戦において枢軸国として共に戦ったにも拘らず、ムッソリーニの政権が倒れるとすぐに連合国寄りの政権が出来て、日本と戦っていないにもかかわらず「戦時賠償」を求めてくるような国である。終戦後の困難な時に足許を見て、百二十万ドルもふんだくったのである。以下は、ウイキより。

 イタリア王国は旧枢軸国であり、1945年7月15日に対日宣戦を行ったものの、実際の交戦は発生していない。しかし承継国のイタリア共和国政府は1937年の日中戦争開始以来の民間人資産損害の補償を求めていた。またイタリア為替局が横浜正金銀行との間で交わしていた決済協定があり、終戦時には日本側の債務が864万4千円(当時)残っていた。戦後、横浜正金銀行はGHQによって閉鎖機関に指定され清算されたため、イタリア政府はこの債務返還を日本政府に求めた。しかし日本側は私企業である横浜正金銀行の問題であるとして十数年間交渉を行っていた。1959年8月4日には「イタリア為替局との特別円取極」が締結され、4億6345万円の返還を行うことで合意が行われた。
 一方で民間人資産問題は1952年から交渉が行われ、1972年7月18日に「イタリア国民に対する第二次世界大戦中の待遇に関連するある種の問題の解決に関する日本国政府とイタリア共和国政府との間の交換公文」が締結され、120万ドルがイタリア政府に支払われることで両国間の請求権問題は解決した。ただし日本側はイタリアの請求権を認めず、あくまでもこの支払いは賠償や補償ではなく一括見舞金であるとの立場を崩していない。

生き馬の目を抜く。とはこのことだ。

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こう毎日雨ばかりでは・・・

2015-07-11 09:31:44 | 日記
七月四日(土)雨。

いくら梅雨の最中とはいえ、こう毎日雨ばかりだと、いささかうんざりする。ニュースでは、曇りか雨の日が続き、当然ながら日照時間が少ないので野菜の生育が悪く、葉物野菜の値段が上がっている。と言っていた。天気の日が続けば、雨が少ないと嘆き、雨ばかりだと、日照時間が少ないと、お百姓さんは(今は農家の人たちと言うのか)大変である。

以前、青森から義母が出てきて、家のすぐ裏で週に三日ほど行われている青空野菜市に行った時、一本八十円や百円で売られている大根やキャベツを見て、「こんな安い値段で売られたんじゃ、農家の人は大変だねェー」と言っていた。私たちは、安いことは嬉しいが、作る側にしてみれば、一本九十円の大根を売ってどれだけの利益があるのだろうか。何か月も丹精を込めて育てた大根やキャベツが百円以下で売られていることを、果たして喜ぶべきなのかと、義母の言葉で考えたことがあった。

もう二十年も前だが、二年ほど農作業をやらされたことがあった。今では機械化が進んでいるのだろうが、何と言っても懲らしめのための労役であったから、ほとんどの作業が手で行われていた。様々な作業の中で一番しんどかったのは、畑の雑草取りだった。鎌を持って中腰で畑に入って雑草を刈って行くのだが、中腰での作業はキツく、畝を往復する頃には、四つん這いになって雑草を刈った。しかし、畑は肥料が効いているので、一週間もすると、また生えている。秋の収穫時期まで、ほとんど雑草との戦いの日々だった。

雨続き、日照りで思い出すのが、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」。賢治がそれを書いたのは昭和六年の十一月とのこと。その詩の中にある「寒サノ夏ハオロオロ歩キ」とあるように、その年の夏は、冷夏で、凶作にあえぐ東北の農民は、貧困の極みの中にあった。翌年の五月、海軍の青年将校らを中心とした五・一五事件が起き、その四年後には、陸軍の青年将校らが昭和維新を断行せんと、決起した、いわゆる二・二六事件が起きる。どちらも政治の改革、農村の貧苦を顧みない財閥への怒りがあった。権門上に傲れども 国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども 社稷を思う心なし。か。当時も今も変わらない。

子供にそんな話をしながら夕食の買い物に出た。伊勢佐木町から松原商店街へ。肴放浪記である。久しぶりにマグロの刺身を肴に、酔狂亭で独酌。

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