白雲去来

蜷川正大の日々是口実

夏休みが待ち遠しかった頃。

2015-07-22 17:56:10 | 日記
七月十二日(日)曇り。

日曜日や正月、夏休みが待ち遠しかったのは、幾つぐらいまでだったろうか。後数日で夏休みが終わってしまい、学校が始まってしまうことのアセリ。宿題なんかほとんどやったことがなかった。休みが続くと言っても別段どこかへ出かける訳でもなく、考えてみれば母と二人で旅行に行ったことなど一度も無い。私が歳を取ってから両親を連れて、母の生まれ故郷の富山県は滑川に行ったのが最初で最後だった。

滑川には、母の妹がいて、当時はまだ元気だった。その叔母を連れて皆で宇奈月温泉へ行った。母は妹と会うのは、何しろ五十年ぶりのことで、良くこんなに話があるかと思うくらい、一日中叔母と話しをしていた。翌日、滑川に帰ってご先祖のお墓のある「浜の御坊」こと称永寺へ行きお墓参り。ちなみにこのお寺のご住職さんの名前は蜷川さん。お寺の入り口に「蜷川氏由来」の碑が建っていた。

私の子供の頃に比べたら、我が家の子供たちは恵まれている。小さい頃から、毎年、国内外に旅行に連れて行った。さすがに大きくなった今は、一緒に出掛けようと言っても、あまりいい顔をしなくなったが、それでも昔に一緒に行った旅行の写真やDVDを見ながら晩酌するのも、つまらない肴よりも余程酒の相手になる。


玄洋社とは関係がないが、軍人関係の書も好きだ。旧陸軍大将であった荒木貞夫の書は色紙と掛け軸がある。

「荒木貞夫ー1877年(明治10年)5月26日 - 1966年(昭和41年)11月2日)は、日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。皇道派の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。1931年(昭和6年)より犬養内閣・齋藤内閣陸相。1934年(昭和9年)、軍事参議官。1935年(昭和10年)、軍功により男爵。1936年(昭和11年)、二・二六事件の粛軍の結果、予備役に編入される。1938年(昭和13年)-1939年(昭和14年)、第1次近衛内閣・平沼内閣の文相として国民の軍国化教育に邁進した。(ウイキ)

漢詩と漢文なので無教養な私には、何と書いてあるか分からないが、その意味が判明した時の喜びもひとしおである。書を肴に酒を飲める私は、かなり変わっているかもしれない。

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