白雲去来

蜷川正大の日々是口実

悲願の人の、悲願を継ぐ。

2015-07-25 12:56:36 | 日記
七月十五日(水)晴れ。

朝食は、赤ウインナー、目玉焼き、キャベツの千切りにシジミのちから。昼食は無し。夕食は、レタスのナムル、サバの文化干し、明太子に黒霧島。

午後から、私が役員の末席を汚している大行社の幹部会議があり出席。五時近くに終了。横浜駅に車を置いたままになっていたので、「そごう」の地下で買い物をしてから帰宅。

私が小学生の低学年の頃の愛読書と言うのは『少年クラブ』『日の丸』『冒険王』といった漫画の月刊誌だった。付録が沢山ついていて、発売日がとても楽しみだった。たとえ漫画雑誌と言えど、あれほど発売日が待ち遠しいと言う思いは、この時以来ない。好きだったものは柔道漫画の『イガグリくん』(なぜか三澤浩一さんのイメージと重なる)と『赤胴鈴之助』。前者は、有川旭一が書いて、『赤胴鈴之助』は武内つなよしが書いていたが、実は、両作品とも福井栄一と言う人が原作で当初は彼が書いていたらしい。彼が過労のために急死し、有川と竹内が引き継いで書いた。ということを出久根達郎氏の『本の気つけ薬』(河出書房新社)で知った。

漫画は、原作者が亡くなられても、後を引き継いで書けるが、小説となるとそうは行かない。唯一、私が知っているのは、父の新田次郎氏の死後にご子息の藤原正彦氏が書き上げた『孤愁 = SAUDADE サウダーデ』 (文藝春秋)ぐらいか。

今は亡き 悲願の人の 悲願を継ぐ とは野村先生の句である。

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『燃えよ祖国』の第214号。

2015-07-25 10:07:43 | 日記
strong>弊社の機関誌『燃えよ祖国』の第214号が完成致しました。ご興味のある方はメール等でご連絡下さい。

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巴里祭

2015-07-23 14:01:35 | 日記
七月十四日(火)晴れ。

最近はあまり聞かなくなったが、今日は、巴里祭である。そういう私も、普段は巴里祭など意識したことはないが、歳時記を見て、ああそうか・・・。と思った次第。一七八九年のこの日、政治犯人がいれられていたバスチーユ牢獄をパリの民衆が襲い、かねて国王ルイ十六世の治政に対してうっ積していた不満を爆発させた。そしてこれを契機にフランス革命が起こり、近代国家フランスが誕生したのである。この日は、パリに限らず、フランス全民衆の国祭日となっている。

巴里祭という名称は、映画「Quatorze Juillet(七月十四日祭)ルーカトルズージュイユ。フランス革命記念日」を、わが国で上映するとき「巴里祭」と訳したため、この語が日本で一般的になったものである。映画「巴里祭」は、一九三〇年代のフランス映画を代表する監督ルネ・クレールの一九三二年の作で、彼は「巴里の屋根の下」 「ル・ミリオン」「自由を我等に」 「最後の億万長者」などの名作を作り、ファシズムを風刺し続けたあげく、一九三四年、フランスを去ったのであった。(「楠本健吉歳時記」)

ナルホド。ミーハーと思われても仕方がないが、若い頃から一度は行ってみたい国と都市の第一番がパリだった。次はローマ。なぜ?と聞かれても明確な理由はないが、二十歳を出たばかりに勤めていたレストランの入り口に、ライトアップされたパリのオペラ座の写真が飾ってあった。とても幻想的で、外国への観光を意識した最初のことだった。ローマは「ベンハー」や「ローマの休日」といった映画の影響が強い。

その憧れのパリを初めて(と言っても一度だけだが)訪れたのは平成四年(一九九二)の秋のこと。野村先生のお供をして、九月の四日に日本を出て、ローマ、シチリア、ナポリ、ヴェネチアと巡り、九月の十四日にヴェネチアからエールフランスにてパリに向かった。当初の旅行計画では、パリの予定はなかったのだが、私が先生に無理を言ってお願いした所、「しょうがねェ-な。じゃ行くか」とOKが出た。

九月十四日、パリ着後はホテルへ。ホテルは、先ごろテレビで放映された「天皇の料理番」が修業した有名な「オテル・リツツ」である。このホテルは、映画「真昼の情事」の舞台になったり、ダイアナ元妃が最後を過ごしたことで知られている。翌、十五日は市内観光の後に、夜はナイトクラブの「リド」へ行った。十六日は、ヴェルサイユ宮殿を観光。十七日の午前中は、観光船にてセーヌ下り。その日の二十時十五分にJALの四〇六便で成田へ。パリでのことは拙著『師・野村秋介―回想は逆光の中にあり』のなかに少し書かせて頂いた。まあ現状の景気では、再びパリを訪れることはないだろうが、先生とのかけがえのない想い出としてしっかり脳裏に刻み込まれている。

野村先生が、私のリクエストに答えてポンヌフの橋の上で、心情を語った映像がある。そんなことをいずれ文章にまとめてみたいと思っている。

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たかが焼売、されど焼売。

2015-07-23 13:34:27 | 日記
七月十三日(月)晴れ。

横浜と言うと名物は、「焼売」が定番と誰でも思う。横浜の歴史は明治以降であるから、ほとんど土着の文化と言うものがない。食べ物も、横浜を代表するものと聞かれると、うーんと考えてしまう。まあ「太田なわのれん」の「牛鍋」か、「荒井屋」の「すかきやき」に崎陽軒の「焼売」ぐらいか。

焼売も崎陽軒の物がなぜ人気があると言えば、まず日持ちのしない焼売を「真空パック」にして地方へ送ることが出来るのと、冷めても美味しく食べられることに尽きると思う。崎陽軒以外には、伊勢佐木町にあった「博雅」、関帝廟通りの「清風楼」、香港路の「安記」などが私のお気に入りの焼売が食べられるが、残念ながら、地方への発送はしない。まあ考えてみれば、基本的に中華街で焼売が不味いと言う店はないだろう。個人的な趣味の問題で、随分前に友人を「モツソバ」で有名な「中華飯店」というお店に連れて行った時、「今まで食べた焼売の中で一番おいしい」と言っていたので、人の味覚は様々である。個人的には、清風楼の焼売のファンです。

①焼売(しゅうまい、広東語: シウマーイ)は、豚の挽肉を小麦粉の皮で包み蒸し調理した中華料理の点心。中華人民共和国の広州や香港では広東語で「シウマーイ」と発音されている。日本語は広東語の発音を外来語として取り入れている。北京語では「シャオマイ」と発音し、同音の「燒麥」の字を当てる場合がある。

②焼売は横浜の名物として有名で、総務省統計局の「家計調査年報」でも家計における焼売への支出割合は横浜が首位である。これについては中華街の存在より、戦前から横浜駅の構内で焼売を売りに出していた崎陽軒の企業努力によるところが大きい。駅弁として冷めても美味しい焼売とするために、横浜中華街・順海閣の料理人(呉遇孫)が招かれ、ホタテの貝柱を入れることで成功、以後各地にこの方法は広まっていった。崎陽軒では「シウマイ」と表記している。(wikipedia)

餃子は、宇都宮や浜松、全国の個人の商店で評判を競い合っているが、焼売は横浜がその人気を独占していると言って良いだろう。横浜以外で評判の焼売があったら教えて下さい。

夜は、恒例の名前だけは有名な「蜷川政経懇」を関内の「HIRO」にて開催。政治や経済とは全く関係のない話で盛り上がり、その後「サリーズバー」へ転戦。友人に送って頂き、日にちが変わらないうちに帰宅。

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夏休みが待ち遠しかった頃。

2015-07-22 17:56:10 | 日記
七月十二日(日)曇り。

日曜日や正月、夏休みが待ち遠しかったのは、幾つぐらいまでだったろうか。後数日で夏休みが終わってしまい、学校が始まってしまうことのアセリ。宿題なんかほとんどやったことがなかった。休みが続くと言っても別段どこかへ出かける訳でもなく、考えてみれば母と二人で旅行に行ったことなど一度も無い。私が歳を取ってから両親を連れて、母の生まれ故郷の富山県は滑川に行ったのが最初で最後だった。

滑川には、母の妹がいて、当時はまだ元気だった。その叔母を連れて皆で宇奈月温泉へ行った。母は妹と会うのは、何しろ五十年ぶりのことで、良くこんなに話があるかと思うくらい、一日中叔母と話しをしていた。翌日、滑川に帰ってご先祖のお墓のある「浜の御坊」こと称永寺へ行きお墓参り。ちなみにこのお寺のご住職さんの名前は蜷川さん。お寺の入り口に「蜷川氏由来」の碑が建っていた。

私の子供の頃に比べたら、我が家の子供たちは恵まれている。小さい頃から、毎年、国内外に旅行に連れて行った。さすがに大きくなった今は、一緒に出掛けようと言っても、あまりいい顔をしなくなったが、それでも昔に一緒に行った旅行の写真やDVDを見ながら晩酌するのも、つまらない肴よりも余程酒の相手になる。


玄洋社とは関係がないが、軍人関係の書も好きだ。旧陸軍大将であった荒木貞夫の書は色紙と掛け軸がある。

「荒木貞夫ー1877年(明治10年)5月26日 - 1966年(昭和41年)11月2日)は、日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。皇道派の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。1931年(昭和6年)より犬養内閣・齋藤内閣陸相。1934年(昭和9年)、軍事参議官。1935年(昭和10年)、軍功により男爵。1936年(昭和11年)、二・二六事件の粛軍の結果、予備役に編入される。1938年(昭和13年)-1939年(昭和14年)、第1次近衛内閣・平沼内閣の文相として国民の軍国化教育に邁進した。(ウイキ)

漢詩と漢文なので無教養な私には、何と書いてあるか分からないが、その意味が判明した時の喜びもひとしおである。書を肴に酒を飲める私は、かなり変わっているかもしれない。

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