七月十四日(火)晴れ。
最近はあまり聞かなくなったが、今日は、巴里祭である。そういう私も、普段は巴里祭など意識したことはないが、歳時記を見て、ああそうか・・・。と思った次第。一七八九年のこの日、政治犯人がいれられていたバスチーユ牢獄をパリの民衆が襲い、かねて国王ルイ十六世の治政に対してうっ積していた不満を爆発させた。そしてこれを契機にフランス革命が起こり、近代国家フランスが誕生したのである。この日は、パリに限らず、フランス全民衆の国祭日となっている。
巴里祭という名称は、映画「Quatorze Juillet(七月十四日祭)ルーカトルズージュイユ。フランス革命記念日」を、わが国で上映するとき「巴里祭」と訳したため、この語が日本で一般的になったものである。映画「巴里祭」は、一九三〇年代のフランス映画を代表する監督ルネ・クレールの一九三二年の作で、彼は「巴里の屋根の下」 「ル・ミリオン」「自由を我等に」 「最後の億万長者」などの名作を作り、ファシズムを風刺し続けたあげく、一九三四年、フランスを去ったのであった。(「楠本健吉歳時記」)
ナルホド。ミーハーと思われても仕方がないが、若い頃から一度は行ってみたい国と都市の第一番がパリだった。次はローマ。なぜ?と聞かれても明確な理由はないが、二十歳を出たばかりに勤めていたレストランの入り口に、ライトアップされたパリのオペラ座の写真が飾ってあった。とても幻想的で、外国への観光を意識した最初のことだった。ローマは「ベンハー」や「ローマの休日」といった映画の影響が強い。
その憧れのパリを初めて(と言っても一度だけだが)訪れたのは平成四年(一九九二)の秋のこと。野村先生のお供をして、九月の四日に日本を出て、ローマ、シチリア、ナポリ、ヴェネチアと巡り、九月の十四日にヴェネチアからエールフランスにてパリに向かった。当初の旅行計画では、パリの予定はなかったのだが、私が先生に無理を言ってお願いした所、「しょうがねェ-な。じゃ行くか」とOKが出た。
九月十四日、パリ着後はホテルへ。ホテルは、先ごろテレビで放映された「天皇の料理番」が修業した有名な「オテル・リツツ」である。このホテルは、映画「真昼の情事」の舞台になったり、ダイアナ元妃が最後を過ごしたことで知られている。翌、十五日は市内観光の後に、夜はナイトクラブの「リド」へ行った。十六日は、ヴェルサイユ宮殿を観光。十七日の午前中は、観光船にてセーヌ下り。その日の二十時十五分にJALの四〇六便で成田へ。パリでのことは拙著『師・野村秋介―回想は逆光の中にあり』のなかに少し書かせて頂いた。まあ現状の景気では、再びパリを訪れることはないだろうが、先生とのかけがえのない想い出としてしっかり脳裏に刻み込まれている。
野村先生が、私のリクエストに答えてポンヌフの橋の上で、心情を語った映像がある。そんなことをいずれ文章にまとめてみたいと思っている。
最近はあまり聞かなくなったが、今日は、巴里祭である。そういう私も、普段は巴里祭など意識したことはないが、歳時記を見て、ああそうか・・・。と思った次第。一七八九年のこの日、政治犯人がいれられていたバスチーユ牢獄をパリの民衆が襲い、かねて国王ルイ十六世の治政に対してうっ積していた不満を爆発させた。そしてこれを契機にフランス革命が起こり、近代国家フランスが誕生したのである。この日は、パリに限らず、フランス全民衆の国祭日となっている。
巴里祭という名称は、映画「Quatorze Juillet(七月十四日祭)ルーカトルズージュイユ。フランス革命記念日」を、わが国で上映するとき「巴里祭」と訳したため、この語が日本で一般的になったものである。映画「巴里祭」は、一九三〇年代のフランス映画を代表する監督ルネ・クレールの一九三二年の作で、彼は「巴里の屋根の下」 「ル・ミリオン」「自由を我等に」 「最後の億万長者」などの名作を作り、ファシズムを風刺し続けたあげく、一九三四年、フランスを去ったのであった。(「楠本健吉歳時記」)
ナルホド。ミーハーと思われても仕方がないが、若い頃から一度は行ってみたい国と都市の第一番がパリだった。次はローマ。なぜ?と聞かれても明確な理由はないが、二十歳を出たばかりに勤めていたレストランの入り口に、ライトアップされたパリのオペラ座の写真が飾ってあった。とても幻想的で、外国への観光を意識した最初のことだった。ローマは「ベンハー」や「ローマの休日」といった映画の影響が強い。
その憧れのパリを初めて(と言っても一度だけだが)訪れたのは平成四年(一九九二)の秋のこと。野村先生のお供をして、九月の四日に日本を出て、ローマ、シチリア、ナポリ、ヴェネチアと巡り、九月の十四日にヴェネチアからエールフランスにてパリに向かった。当初の旅行計画では、パリの予定はなかったのだが、私が先生に無理を言ってお願いした所、「しょうがねェ-な。じゃ行くか」とOKが出た。
九月十四日、パリ着後はホテルへ。ホテルは、先ごろテレビで放映された「天皇の料理番」が修業した有名な「オテル・リツツ」である。このホテルは、映画「真昼の情事」の舞台になったり、ダイアナ元妃が最後を過ごしたことで知られている。翌、十五日は市内観光の後に、夜はナイトクラブの「リド」へ行った。十六日は、ヴェルサイユ宮殿を観光。十七日の午前中は、観光船にてセーヌ下り。その日の二十時十五分にJALの四〇六便で成田へ。パリでのことは拙著『師・野村秋介―回想は逆光の中にあり』のなかに少し書かせて頂いた。まあ現状の景気では、再びパリを訪れることはないだろうが、先生とのかけがえのない想い出としてしっかり脳裏に刻み込まれている。
野村先生が、私のリクエストに答えてポンヌフの橋の上で、心情を語った映像がある。そんなことをいずれ文章にまとめてみたいと思っている。