白雲去来

蜷川正大の日々是口実

愛宕山、尊攘義軍七十年祭。

2015-08-24 13:41:58 | 日記
八月二十二日(土)晴れ。

平成二十七年 中村武彦先生歿後十年「尊皇絶対・神州恢復」祈念 尊攘義軍十二烈士女 七十年祭。に群青の会の大熊雄次氏と共に出席。

「尊攘義軍」とは、昭和二十年八月十五日早暁、日本を敗戦降伏という未曾有の事態に陥れようとする元凶として、木戸内大臣を斃すべく立ち上がった尊攘義軍十烈士は、しかし事成らず次の手立てのために芝・愛宕山に立て籠もった。

取り巻く官憲との攻防が熾烈を極めるなか、義軍の志士たちは天下の情勢を冷静に見極め「承詔必謹」の大義に殉じることを決めることとなる。義軍のその決意は「陛下の詔に反した罪の責任をとる」玉砕であった。しかし官憲は、解散を強く要求するなか、二十二日夕刻、義軍に対し発砲を開始する。そのとき、義軍陣地から数発の爆音が轟いた。烈士らは、相抱きあいながら、手榴弾を炸裂させ最期の時を迎えたのである。

自決された、飯島與志雄大人命の辞世
「一脈の正気留めて日の本の誇りとともに吾は砕けつ」
「神州の不屈をしめす此の正気継ぐ人あらば思ひ残さじ」

また、二十七日早暁には、義軍の二夫人が自刃場所を清めたあと拳銃自決をし夫君の義挙に殉じた。この義挙から今年で七十年。中村武彦先生の衣鉢を継いで、民族革新会議の犬塚博英議長が同志と共に毎年斎行されている。

弔魂碑にはこうある。「殉皇十二烈士女之碑碑文 昭和二十年八月廟議降伏に決するや決起して内府木戸邸を襲ふ 転じて愛宕山に篭り所在の同志と呼応 天日を既墜に回さむとする者 即ち尊攘義軍十烈士 しかれども遂に二十二日午後六時 相擁して聖寿万歳とともに手榴弾を擲ち一瞬にして玉砕す 時俄に黒風暴雨満山を蔽ふ 二十七日払暁 同じき処に座して二夫人亦従容後を遂ふ 忠霊芳魂 永遠に此処に眠る 遺烈万古尽くる時なからず 天なるや秋のこだまかとこしえに愛宕のやまの雄たけびのこゑ」

夕方の蝉しぐれの中、祭文が奏上され玉串を捧げる。六時に黙祷、そして『海ゆかば』を斉唱し慰霊祭は終了した。私にとってこの慰霊祭に参加することは、「腸の腐り止め」なのだ。慰霊祭を続けられている犬塚先輩はじめ顕彰会の皆さんに心から敬意を表します。

直会を新橋の居酒屋にて。九時に解散。自宅に戻った。※慰霊祭の様子。荒岩さんのFBから拝借いたしました。



  

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蕎麦屋で飲んで、蕎麦を食わず。

2015-08-24 12:55:30 | 日記
八月二十一日(金)曇り。

朝食は、昨日のマグロの残りを「ヅケ」にして食べた。朝から贅沢なものよ。とチョッピリ反省しつつ食した。今日は、夜に友人たちと仕事の打ち合わせを兼ねた飲み会があり、東京行き。旅の友は文庫になった『満州国演義』。

場所は、私が好きな田原町の「甲州屋」という蕎麦屋。このお店は、蕎麦も美味しいのだが、何と言ってもヘタな居酒屋よりもツマミが美味しいのである。酒も、ここの「緑茶割り」はクセになる。友人等三人で、「玉子焼き」「カツ煮」「揚げ蕎麦カレー」その他色々頼んで、飲んで、さあー帰ろう、ということになったが、蕎麦屋に来て誰も蕎麦を食べていない。あららら、と言う感じだがマッいいか。

その後錦糸町の秘密基地「223」へ転戦。偶然にも仲良しさんが居て、一杯、一杯、復一杯。ということになった。一時間ほど飲んで、そろそろとと言う所で、友人曰く「ここまで来て○○へ行かなければ、マズいだろう」ということになってさらにもう一軒。酔っていたせいか、何やら表か裏か分からないほどの真黒なママさんとお友達がいて、とにかく、黒い話題で盛り上がりヘロヘロになって帰宅。久しぶりの大破・轟沈の夜でした。友人の皆さんに感謝。

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彼岸花。

2015-08-24 12:24:40 | 日記
八月二十日(木)雨。

朝食は、タラコ、筋子に蜆の味噌汁。朝食が一番おいしい。いい歳をしてお恥ずかしいが、朝、お腹が空いて目が覚めることが度々ある。お米を食べるのは朝一回なので、余計にそう思うのかもしれない。昼食は、軽めの物。夕食は、刺身か豆腐かサラダかおしんこ。肉を食べるとしたら、鶏肉。夜の主食は、当然酒。

十月は野村先生のご命日で、今年は二十三回忌となる。来月の半ばにもなると、野村先生のお墓のある伊勢原の浄発願寺付近には彼岸花が咲く。その辺りは彼岸花の群生地としても知られ、土曜、日曜日などはカメラを手にしたハイカーの人たちで混雑する。彼岸花は、別名、曼珠沙華。梵語の「マンジュサカ」の略で、天上の華、赤い花の意味もあるそうだ。そう言えば山口百恵の歌に『曼珠沙華』があることを思い出した。思い出したと言えば、十一年前の九月三日。群青忌の打ち合わせで浄発願寺を訪れる途中の道で、父の訃報を知った。早咲きの彼岸花の赤い色が目に染みた。

夕方まで事務所にて仕事。五時過ぎに久しぶりに松原商店街へ行き、夕食の肴を求めた。もちろんマグロ。いそいそと自宅に戻り、いざ乾杯。恙なく非生産的な一日が終わる。

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見沢知廉没後十年・高橋京子三回忌追悼講演

2015-08-21 13:00:49 | 日記
八月二十一日(金)曇り。

見沢知廉没後十年・高橋京子三回忌追悼講演のお知らせ。

『燃えよ祖国』に『高木尋士の読書日記』を連載して頂いています「劇団再生」の『見沢知廉没後十年・高橋京子三回忌追悼講演』が、本日、8月21日(金)から三日間、東京都世田谷区桜丘のAPOCシアターにて開催されます。ご興味のある方は是非ともご観劇下さい。

8月21日(金)19時30分
8月22日(土)13時・19時
8月23日(日)14時

場所・東京都世田谷区桜丘5-47-4 APOCシアター 電話03-6321-7690
チケット¥3000
お問い合わせ・オフィス再生 090-1843-8606
メール: takagigokko@gmail.com
HP: http://www.takagigokko.com/

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世の中はめまぐるしい。

2015-08-20 11:23:37 | 日記
八月十九日(水)晴れ後曇り。

それにしても暑い。夜中に目が覚めてしまいクーラーを一時間だけタイマーにして、眠るが寒いなぁーと思う頃にタイマーが切れて丁度良い。七時前に起床。

朝食は、ロースハムと目玉焼きにキャベツの千切り添え。スープは、中華スープの素を使って、卵スープにした。食後は、のんびりと一週間分の新聞を読む。車のラジオで大きな事件のことは、それなりに知っていたが、こうして新聞を読むと当然だが日本も世界も激動の日々であったことが分かる。

中国の天津港の爆発事件。あらためてあの国が民も官もずさんな砂上の楼閣の上に築かれている、ということが良く分かる。確か六月だったか、中国の長江で遊覧船が沈没した事故は、乗客と乗務員が四百人以上も亡くなったにもかかわらず、その原因や責任はうやむやのままである。今回の天津港の爆発事件も、きっと政治がらみで真相が究明されずぬままに終わってしまうに違いあるまい。被害を受けた日本企業の補償などどうなってしまうのか、日本のマスコミももっと関心を持って今後も報道して貰いたいものだ。

三十年前の日航ジャンボ機墜落のことは良く覚えている。昭和六十年の八月十二日、自宅でテレビを見ていたらニュースで、日航ジャンボ機がレーダーから消えた。というテロップが流れた。翌日からショッキングな映像が次々と放映された。その事故から三日後に、亡くなられた阿部勉、板垣哲雄の両氏と共に岐阜に花房東洋先輩を訪ね、その後、京都、伊豆への旅に出たからである。三十年の歳月の流れの中で、阿部、板垣の両氏や伊豆で民宿「うじま」を経営していた高橋順之助氏も皆、鬼籍に入ってしまった。飛行機事故で亡くなられた方たちには申し訳ないが、日航ジャンボ機の事故のニュースに接する度に、あの夏の旅行のことが思い出されてならない。

安部総理の「七十年談話」。村山談話を是とする人たちは、当然ながら批判的で、村山談話を非とする人たちは、おおむね賛同しているのではないだろうか。しかしいつまで中・韓の顔色を窺わねばならないのか。あんな談話を出すことよりも靖国神社に参拝をしてほしかった。今日(二十日)の産経新聞に、尊敬する長谷川三千子先生が「安部談話で憎悪の連鎖断ち切れ」という文章を書いている。是非ご一読を賜りたい。

事務所に行けば、様々な郵便物が沢山たまっていた。一週間休んだ分のツケは一日では片付かず、何となく気忙しい一日だった。青森の実家から頂いてきたジャガイモで煮物を作った。※写真は昭和六十年八月十七日、伊豆は下田に行く途中の熱海駅にて。左から板垣、蜷川、花房、阿部の諸氏と。

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