八月十九日(水)晴れ後曇り。
それにしても暑い。夜中に目が覚めてしまいクーラーを一時間だけタイマーにして、眠るが寒いなぁーと思う頃にタイマーが切れて丁度良い。七時前に起床。
朝食は、ロースハムと目玉焼きにキャベツの千切り添え。スープは、中華スープの素を使って、卵スープにした。食後は、のんびりと一週間分の新聞を読む。車のラジオで大きな事件のことは、それなりに知っていたが、こうして新聞を読むと当然だが日本も世界も激動の日々であったことが分かる。
中国の天津港の爆発事件。あらためてあの国が民も官もずさんな砂上の楼閣の上に築かれている、ということが良く分かる。確か六月だったか、中国の長江で遊覧船が沈没した事故は、乗客と乗務員が四百人以上も亡くなったにもかかわらず、その原因や責任はうやむやのままである。今回の天津港の爆発事件も、きっと政治がらみで真相が究明されずぬままに終わってしまうに違いあるまい。被害を受けた日本企業の補償などどうなってしまうのか、日本のマスコミももっと関心を持って今後も報道して貰いたいものだ。
三十年前の日航ジャンボ機墜落のことは良く覚えている。昭和六十年の八月十二日、自宅でテレビを見ていたらニュースで、日航ジャンボ機がレーダーから消えた。というテロップが流れた。翌日からショッキングな映像が次々と放映された。その事故から三日後に、亡くなられた阿部勉、板垣哲雄の両氏と共に岐阜に花房東洋先輩を訪ね、その後、京都、伊豆への旅に出たからである。三十年の歳月の流れの中で、阿部、板垣の両氏や伊豆で民宿「うじま」を経営していた高橋順之助氏も皆、鬼籍に入ってしまった。飛行機事故で亡くなられた方たちには申し訳ないが、日航ジャンボ機の事故のニュースに接する度に、あの夏の旅行のことが思い出されてならない。
安部総理の「七十年談話」。村山談話を是とする人たちは、当然ながら批判的で、村山談話を非とする人たちは、おおむね賛同しているのではないだろうか。しかしいつまで中・韓の顔色を窺わねばならないのか。あんな談話を出すことよりも靖国神社に参拝をしてほしかった。今日(二十日)の産経新聞に、尊敬する長谷川三千子先生が「安部談話で憎悪の連鎖断ち切れ」という文章を書いている。是非ご一読を賜りたい。
事務所に行けば、様々な郵便物が沢山たまっていた。一週間休んだ分のツケは一日では片付かず、何となく気忙しい一日だった。青森の実家から頂いてきたジャガイモで煮物を作った。※写真は昭和六十年八月十七日、伊豆は下田に行く途中の熱海駅にて。左から板垣、蜷川、花房、阿部の諸氏と。
それにしても暑い。夜中に目が覚めてしまいクーラーを一時間だけタイマーにして、眠るが寒いなぁーと思う頃にタイマーが切れて丁度良い。七時前に起床。
朝食は、ロースハムと目玉焼きにキャベツの千切り添え。スープは、中華スープの素を使って、卵スープにした。食後は、のんびりと一週間分の新聞を読む。車のラジオで大きな事件のことは、それなりに知っていたが、こうして新聞を読むと当然だが日本も世界も激動の日々であったことが分かる。
中国の天津港の爆発事件。あらためてあの国が民も官もずさんな砂上の楼閣の上に築かれている、ということが良く分かる。確か六月だったか、中国の長江で遊覧船が沈没した事故は、乗客と乗務員が四百人以上も亡くなったにもかかわらず、その原因や責任はうやむやのままである。今回の天津港の爆発事件も、きっと政治がらみで真相が究明されずぬままに終わってしまうに違いあるまい。被害を受けた日本企業の補償などどうなってしまうのか、日本のマスコミももっと関心を持って今後も報道して貰いたいものだ。
三十年前の日航ジャンボ機墜落のことは良く覚えている。昭和六十年の八月十二日、自宅でテレビを見ていたらニュースで、日航ジャンボ機がレーダーから消えた。というテロップが流れた。翌日からショッキングな映像が次々と放映された。その事故から三日後に、亡くなられた阿部勉、板垣哲雄の両氏と共に岐阜に花房東洋先輩を訪ね、その後、京都、伊豆への旅に出たからである。三十年の歳月の流れの中で、阿部、板垣の両氏や伊豆で民宿「うじま」を経営していた高橋順之助氏も皆、鬼籍に入ってしまった。飛行機事故で亡くなられた方たちには申し訳ないが、日航ジャンボ機の事故のニュースに接する度に、あの夏の旅行のことが思い出されてならない。
安部総理の「七十年談話」。村山談話を是とする人たちは、当然ながら批判的で、村山談話を非とする人たちは、おおむね賛同しているのではないだろうか。しかしいつまで中・韓の顔色を窺わねばならないのか。あんな談話を出すことよりも靖国神社に参拝をしてほしかった。今日(二十日)の産経新聞に、尊敬する長谷川三千子先生が「安部談話で憎悪の連鎖断ち切れ」という文章を書いている。是非ご一読を賜りたい。
事務所に行けば、様々な郵便物が沢山たまっていた。一週間休んだ分のツケは一日では片付かず、何となく気忙しい一日だった。青森の実家から頂いてきたジャガイモで煮物を作った。※写真は昭和六十年八月十七日、伊豆は下田に行く途中の熱海駅にて。左から板垣、蜷川、花房、阿部の諸氏と。