白雲去来

蜷川正大の日々是口実

群青忌の前夜祭を開催。

2015-10-23 15:04:15 | 日記
十月二十三日(金)曇り。

二十一日は、私が相談役の末席を汚している大行社の会議があり東京行き。早く着いたので、スタバでコーヒー&読書。三時半過ぎに終了。横浜に戻り、「そごう」にて夕食の買い物。カツオが一つあったので購入。夜は、酔狂亭で独酌。

二十二日は、昼食後に事務所にて仕事。刑、拘置所などから来信あるが知り合いは一人のみ。事務所の近くのスーパーに行くと「三岳」が沢山置いてあった。安かったので一升瓶を買おうかとも思ったが、不如意につき四合瓶を一本と美味そうな椎茸があったので、夜はバター焼きで晩酌。

今日は、明日の群青忌のために地方から社友が来訪する。その前に、明日の群青忌で送迎に使用するマイクロバスを五時に栃木の人見仁君と待ち合わせてトヨタ・レンタカーへバスを取に行く。

六時に集合場所となっているホテルで待ち合わせて、社友会の会場へ。お店は、関内駅前の「セルテ」というビルの中にある居酒屋。最初は、十五名程度と思って予約を入れておいたが、最終的には二十三名もの人たちが参集した。東京からは大熊雄次、大野義貴両氏のみで、後は皆、遠方からの参加者である。北海道から六名、宮城、長野、新潟、豊橋、京都、兵庫、神戸から社友が参集した。ほとんどの人が年に一度会う人ばかりだが、キーワードは当然「群青忌」である。久闊を叙して、まずは再会を祝しての乾杯。皆さんの顔を見ていると、一年の空白があっと言う間に埋まる。お店の料理は残念だったが、三時間飲み放題と言うから、あまり贅沢は言えない。ガアッーと飲んで、明日早いのでここで解散。

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山平さんの「男の『生き様』・『死に様』」

2015-10-22 10:15:05 | 日記
十月二十二日(水)曇り。

 お知らせです。

『アサヒ芸能』で、作家の山平重樹さんが連載しているのが、「男の『生き様』『死に様』」というコラムである。義の為に、あるいは道の為に、また男として意地と筋を通した人たちの、「生き様」と「死に様」について書いている。今週は、野村秋介先生である。ご命日の日に前後しての掲載のタイミングには感激しました。まだコンビニ等で売っていますのでよろしくお願い致します。※写真をクリックしますと拡大します。

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「大和」に「武蔵」・・・?

2015-10-21 11:44:28 | 日記
十月二十一日(水)曇り後晴れ。

昨日のことです。先生のご命日に、古くからの友人の古谷喜久男氏と先生を偲んで一献と、二日前に約束をしていた。待ち合わせの場所は、藤棚の「やまと」で五時半。我が家は交通の便が悪く一足早く保土ヶ谷行きのバスに乗って出かけた。そこから「やまと」まで歩いて二十分。先着して一人で飲み始めた。十五分が過ぎても古谷氏が来ないので、携帯に電話を入れると、「待ってるけどどこにいるの」と古谷氏。?が三つほど。私はもう着いているけど、何処にいるの。と聞けば、「むさし」だよ。れれれ。私は、「やまと」と言ったのに、古谷氏は、自分の定宿の「むさし」と勝手に勘違いしていたらしい。お互いに大笑い。

幾ら、先の大戦中の同型の姉妹艦と言っても、「やまと」と「むさし」では大違い。結局私が野毛の「むさし」に行き、無事に合流。またオヤジと三人で大笑い。「むさし」は夜中の三時まで営業しているお店で、常連さんには知り合いも多い。緑茶割を飲んでから、関内の「4・9(ヨンナイン)」へ転戦。ここのマスターのカズオ君を紹介してもらったのも古谷氏だ。もう二十五年も前のこと。昔話に花が咲き、好きな宇崎竜童の「夜霧のブルース」など聞いてから、再び野毛へ。「夜市」というバーに行けば、元サムエンタープライズの盛田社長が合流。最後は、サリーズバーに行き、野村先生を偲んで盛田社長が「群青」を歌った。涙腺が緩んだ。

十時過ぎに帰宅。久しぶりに大破・轟沈。

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あの日の感慨。

2015-10-20 13:14:05 | 日記
十月二十日(火)晴れ。地久節。

皇后さま八十一歳のお誕生日、地久節を心からお祝い申し上げます。

今日は、野村先生の二十二回目のご命日、群青忌である。起床後、皇居を遥拝の後に、野村先生の遺影に手を合わせ、白菊を飾る。四日後の二十四日には、菩提寺である伊勢原の浄発願寺において二十三回忌墓前祭が執り行われる。ご命日に際して『野村秋介獄中日記・千葉編」において私が書いた「あとがき」をアップしてみたい。

『じゃあな、行ってくるからな』―これが先生の私への最後の言葉となった。時に平成五年十月二十日午前十一時四十五分。作務衣の上にグレーの和装用コートをはおり、笑みさえ浮かべて、シンポジュウムの会場から去って行った先生の後ろ姿と、あの声を忘れることができない。それから約一時間後、先生は朝日新聞社東京本社内で壮烈なる自決を遂げられた。
 もとより本書は、先生が朝日新聞社内にて自決されるまでの経緯や、その思想的背景を明らかにするものではない。自決については、いみじくも先生が尊敬した先輩の一人である中村武彦先生が本葬儀の案内状に書き記された、『それは新右翼の理論家とかテロリストとか言われたものとは次元を異にする荘厳なる神業でありました。これに対し軽率なる解釈や評価は断じて許されません』
という一言に尽きる。先生の思想的背景については、遺書となった『さらば群青』を精読していただくことにより、おのずから明らかになるものと確信している。
 私がこの『獄中日記』を先生から頂いたのは平成四年の秋、建て直しをしていた先生の家が完成し、荷物整理に呼ばれた時のことであった。夥しい数の蔵書が積まれた中から、古びた幾冊かのノートと菓子箱を取り出し、「お前にやるから持って行け」と言って渡してくれた。ノートは計十冊。河野一郎邸焼き打ちのいわゆる『炎の警鐘事件』で昭和三十七年から十二年を過ごした千葉刑務所時代の六冊と、出獄後わずか七百六日で財界の営利至上王義を撃つ、として同志三名と共に決起した『経団連事件』での府中刑務所時代の六年間のもの、四冊であった。
 菓子箱の中には三上卓、毛呂清輝、青本哲といった獄中の先生を支えてくれた方々の手紙や古い写真、あるいは本書のグラビアにも使わせていただいた、三上先生の逝去を知らせる青木氏からの電報などが雑然と入っていた。しかし迂闊にも、頂いた日記は千葉刑務所時代の十二年のうち、下獄当初の昭和三十八年から昭和四十一年二月までの約三年間と、昭和四十二年の九月二十五日から昭和四十六年七月までの約四年間のものが欠落しているのに気が付かずにいた。
全文に目を通したのは先生の自決後のことであり、今となっては憶測の域を出ないが、その前後の日記を読んでも、ノートが存在した事は明らかである。
 特に昭和四十五年の十一月には三島由紀夫氏らの自決事件があり、この衝撃的な出来事にたいする感想や三島、森田両烈士への思いを書かずにいたとは到底信じがたい。先生が、その計七年分のノートを故意に破棄したのか、あるいは現在もどこかに存在するのかは残念ながら不明である。先生は三十代を全て獄中に過ごした。受刑生活は、不自由な上に、灼熱と酷寒に耐えることであり、加えて人間関係の難しさから生じる葛藤は経験した者にしか分からない。
そういった劣悪な環境の中で、惰性からくる無気力感に流されず常に身を律し、日々道を求めて獄を天下の大道場として学んで来た、先生のいわば青年時代の人間形成や思想的変遷を知る上での貴重な資料であるとの判断から、この書の刊行を決意した次第である。

野村秋介『獄中日記―千葉編』後書き。より。  蜷川正大

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社友会への差し入れ。

2015-10-20 10:32:49 | 日記
十月十九日(月)晴れ。

闘病中の宮崎の福田秀春さんより、「社友会の皆さんへ」と焼酎を二本ご恵送頂いた。二十三日の社友会の席で皆さんと共に一献するつもり。また豊橋の「フクイのカレー」の福井英史さんの友人である晋山ナオキさんから私の好きな「ソース」が届いた。「トリイソース」というもの。私にソースにもさまざまな種類の物があることを教えてくれたのは福井さんだ。私のソース好きを知ってか、友人から色々なメーカーの物を頂く。どれも皆美味しい。お陰様で我が家の家族は、ソース通になりました。早速、料理好きな下の子供が「オムライスソース」でオムライスを作りました。

先日に続いて、午後から一時間歩いた。弘明寺商店街を抜けた所で何と、元ゴールデンカップスのエディ潘とばったり会った。何でも、近くの銭湯のファンで良く来るとのこと。近々の一献を約して別れた。

夜は、二十三日の社友会で使うお店を下見。予定していたベイサイドのお店が閉店していたために、急遽、関内駅近くのお店にした。名前だけは有名だが、所詮は、チェーンの居酒屋。我慢して予約を入れた。その後、サリーズバーに転戦。九時近くに帰宅。

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