白雲去来

蜷川正大の日々是口実

お墓参りへ。

2018-10-18 11:28:49 | 日記
十月十四日(日)曇り。

午前中、申し訳なさそうに降っていた霧雨が止んだ。朝一で愚妻とお墓参り。九時に伊勢原着。すでに大悲会の志村馨君や弊社の松本佳展君、國の子評論の横山孝平君、そして皇嵐社、皇道戦線社といった人たちがお墓の清掃を済ませていた。毎月欠かさずお墓の清掃に従事してくれる。この人たちに感謝する次第である。先生の墓前に群青忌の成功をお願いした。その後、私の両親のお墓に詣でた。

夜は、山下町のラッキーの店で、お世話になっている方の奥さんの誕生パーティーとライブがあり出席。早めに着いたので、マグロの競りで有名なすしチェーン店で時間を潰した。刺身を注文したら、いわゆる「刺身用」に切るのではなく、「寿司ネタ」にする物が出てきた。この時点でウンザリである。忙しかったこともあるのだろうが、中々飲み物が出て来ず、十五分程度で店を出たが、値段だけは一流並みで、笑ってしまった。

アットホームな誕生会で、かつ旧知の人が多く来て楽しかった。

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群青忌が近い。

2018-10-18 10:22:15 | 日記
十月十三日(土)曇り。

世間の出来事や世界の動きなどに全く関係なく(幾ら心配しても、浪人風情では関係しようもないが)ひたすら二十日の群青忌の準備に忙殺されている。といっても私一人だけではない。一門、それに関係する人たちが、それぞれの役割をこなしている。正直言って忙しいことこの上もない。決して言い訳ではない。

土曜日、家族揃っての遅い朝食は、大好きな「清風楼」の焼売、麻婆豆腐、水餃子という「朝から中華」。昼は抜いた。午後から近所に住む中学、高校の同級生が群青忌の激励に訪れてくれた。友情に感謝。

午後から、横浜駅のセルテというビルの中にある世界堂という画材屋さんに、注文をしておいた群青忌の際に受付通路に展示するポスターの額縁が入荷したと言うことで受け取りに行く。事務所でA1サイズ(横五十四㎝、縦八十四㎝)に拡大したのポスターを入れてみたが、とても良い感じである。

当日は、配布させて頂くA四版二十九頁のプログラム・パンフ、「野村秋介の軌跡」という題のDVD、そして山平重樹さんの文庫版『激しき雪ー最後の国士・野村秋介』、この三点をセットにして参加者にお渡しする。一人でも多くの方のご出席をお願いする次第です。

夜は、久しぶりの家族での外食。子供たちを帰した後は、愚妻と「サリーズバー」へ。一時間ほどでお暇した。※写真は群青忌のプログラム・パンフ

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『語り継ぐ横浜海軍航空隊』

2018-10-17 10:52:25 | 日記
十月十二日(金)曇り。

忙しいことを言い訳にぼやーっとしていると、あっという間にブログの更新が滞ってしまう。忙しいから、といっても食事はしっかりとる。朝は、秋刀魚の明太子はさみ焼き、納豆、豆腐の味噌汁。昼は、伊勢佐木町にある「カレーラーメン」の「太源」にて、「メンマ・ワンタンメン」。このお店に来たのは、もう三十年以上も前のことだ。夜は、冷凍のカツオ。今年は、何でも「海水の温度が高い」とかで、「そごう」などでは「アニサキス」の心配があるそうで、生のカツオが無い。ずっーと冷凍ものばかりである。それでも、最近行きつけのイタ飯屋の「オアジ」で教わった「オリーブオイル」にきざみネギ、ニンニク、そして岩塩で食べているが、中々良い。そろそろカツオの時期も終わりだし来年に期待するか。

新聞の書評で知った『語り継ぐ横浜海軍航空隊』(大島幹雄著・有隣堂新書)を買った。横浜の富岡と言う所にかつて海軍の飛行艇専用の基地があった。もちろん私は、そんなことを知らなかった。子供の頃に、その富岡海岸に海の中に続いている滑走路があり、そこで泳いだ記憶がある。本の内容もとても勉強になり素晴らしいが、本を書いた戦後生まれの人が、なぜ飛行艇専用の「横浜海軍航空隊」に興味を持ったのか。

きっかけとなったのは、その人のジョギングコースである「富岡総合公園」でのこと。そこは桜の名所である。(といっても私は行ったことはないが)花見客でにぎわう公園を散策している時、「いつのことだったかははっきりと覚えていないのだが、桜が満開の日曜日に、花見客でにぎわう一画から少し離れたところで、花見客とは明らかにちがう集団と出くわした。あれは何だったのか気になり、翌週の週末ジョギングの途中にそこに寄って、中に入ってみた。細長い参道のような道を進むと、小さな碑が建っていた。そこには富岡総合公園の桜の由来が刻まれていた。『桜の由来。この桜は昭和十一年十月横浜海軍航空隊がこの地に開隊された時隊員の手で植樹され大切に育てられたものである。年々歳々花変らねど 征きて還らぬ戦友多かりき。横浜海軍航空隊、略称は浜空。海軍といえば横須賀。横浜に海軍あった? しかも航空隊。『桜の由来』の碑の左には『浜空神社の由来』という碑があり、かつてここに神社があったこと、そして飛行艇の一大基地があったことを教えてくれる」。

ふと、今月二十日の「群青忌」のことが浮かんだ。野村先生の思想と行動を風化させないために続けている慰霊祭の「群青忌」。つづけていればこそ、もしかしたら『語り継ぐ横浜海軍航空隊』を書いた人のような方が出るかもしれない。我々門下生の他に、野村先生のことを語り継いでくれる人が・・・。ということにまず惹かれて購入したのである。本は、あまり知られていなかった「飛行艇」と地元にスポットを当てた歴史書でもある。良い本と出会ったと喜んでいる。かつて、盟友と訪れた鹿児島の鹿屋基地に展示されていた旧海軍の二式飛行艇一二型<を見たことを思い出した。/strong>

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潮の香りのする柏へ。

2018-10-13 16:05:13 | 日記
十月十一日(木)曇り。

何の自慢にもならないが、私はハンパじゃない地理音痴である。日本地図を見ても、鳥取がどこだか、福岡がどこだか理解するのに、随分と時間がかかる。よつて東京の葛飾がどの辺なのか見当もつかない。千葉に柏と言う土地がある。これまで行ったのは一度だけ。それも葬儀で行ったので、どんな街なのか見当もつかない。

その柏に、民族派では知る人ぞ知る、舟川孝さんがいる。恐らく、愛国党の舟川と言えば、泣く子も黙る、いや公安警察が最も恐れる男の一人として知られている。私は、この過激派の舟川氏となぜか昔から気が合う。民族派の「イガグリ君」こと三澤浩一さんから、「私の知り合いで名前に『川』のつく者はロクなのがいない』と、良く酒席でからかわれる。因みに、その「川」のつく三澤氏の友人とは、蜷川、丸川、内川、そして舟川が代表格らしい(順不同・仮名です)。皆、酒乱いや酒豪である。私のこのブログに、大いに酔った日は「大破・轟沈」と書くが、いまではこの言葉が独り歩きして、随分と使われている。

何でも舟川さんから聞く所によれば、三澤さんは、その大破・轟沈を通り越して「難破・遭難」の酒らしい。飲んで別れてから一時間ほどして、舟川さんに電話が入った。「おい、俺は今どこにいるんだ。歩いても、歩いても元の所に戻って来てしまう」。確かに難破・遭難の酒だ。大破・轟沈の上があることを知って、しばし空いた口が塞がらなかった。話がそれた。柏の話だ。随分前から、舟川さんから「蜷川さん。潮の香りのする柏で、最高のカツオを食べませんか」と誘われていた。それが、今日実現した。

横浜から、上野東京ラインに乗って上野まで。そこから常磐線の快速取手行きに乗って柏まで。車窓から幾ら外を見ても、海に近づいているとは思えない。まっいいかと、あきらめ半分柏着。駅には、舟川さんと盟友のO氏が待っていてくれた。両氏が、「どうですか、潮の香りはしますか」と笑っている。ここで、ようやく柏と言う町が海の近くでないことを悟った。

しかしながら、連れて行って頂いたお店のカツオやカワハギの刺身は絶品で、「茜霧島」を前に減酒の誓いを破った。何と、このお店、三澤浩一さんも常連とのこと。また笑われそうだ。しばらく飲んでから、舟川さんとは幼馴染のママさんのいるお店に転戦。美人揃いなので、悪い虫が起きてはいけないと、途中参加した榎本さんに送って貰って帰宅。いい夜だった。

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行為者と被害者の溝。

2018-10-12 11:55:26 | 日記
十月十日(水)晴れ。

毎日、六時に起きる癖がついた。早寝早起きは三文の徳、と言うが語源は、「朝早く起きれば、健康にも良いし、それだけ仕事や勉強がはかどったりするので得をするということ。『三文』とは、一文銭三枚のことで「ごくわずかな」という意味。わずか三文だとしても、得るものがあるということで、朝寝を戒める意味を込めて使う。とのこと。減酒をしているせいか、目覚めがいい。

今読んでいるのが、『昭和の怪物 七つの謎』(保坂正康著・講談社現代新書)。その中で、印象に残ったのが五・一五事件で、青年将校に殺害された犬養毅首相の孫の犬養道子さんへの取材を元にして書かれた「犬養毅は襲撃の影を見抜いていたのか」と、二・二六事件の際にやはり殺害された渡辺錠太郎の娘で、襲撃された現場で、その一部始終を目撃した渡辺和子さんのエピソードである。私は、民族派として、五・一五事件や二・二六事件を支持する立場ではあるが、何か特別な過ちを犯したわけでもなく、私利私欲に走ったわけでもなく、その政治的な「立場」ゆえに殺害された人たちも尊敬する気持ちもある。

しかし、今回、遺族である犬養道子、渡辺和子の両氏のエピソードを読むにつれて胸が痛んだ。事件を盲信していた若い頃とは違い、歳をとり、それなりに勉強した結果でもあるかもしれない。渡辺さんは、学校法人ノートルダム清心学園理事長のポストについていたが、二〇一六年十二月三十日に学園内にある修道院にて亡くなられた。その死亡記事を読んだ記憶がある。

渡辺さんは、自身の「赦し」についてこう語っている。「私は自分の小さな世界の中でもいいですから、出来るだけ人を赦して笑顔で過ごしているのです。家族や友人への優しさ、そしてその延長としての優しさがなどが大切と言うことです」。しかし、渡辺さんは「二・二六事件は、私にとって赦しの対象からは外れています」。事件の時、渡辺さんは九歳。八十年が過ぎても、父が殺された二・二六事件は「赦し」の対象から外れているのである。とても重い言葉だ。是非、この本をご一読願いたい。行為者と被害者・・・。埋まることのない溝をどうすべきか。とても考えさせられた本だった。

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