白雲去来

蜷川正大の日々是口実

結婚式へ。

2020-02-13 14:07:41 | 日記
二月七日(金)晴れ。

昨夜、少々飲み過ぎたためか朝がきつかった。起きたら家にいるのは私一人。まだ酒が残っている。それでも朝食は取る。目刺し、大好物の能登屋のさつま揚げ、小さい「どん兵衛」。さつま揚げが好きだ。以前は、千葉の「嘉平屋」のものや、お中元やお歳暮で頂いた本場鹿児島の「つけ揚げ」などを取り寄せていたが、最近は菊名の「能登屋」の物が多い。おでんにしても良いのだが、物が良すぎて、ほとんどさっと焼いて生姜醤油で食べている。特に「玉ネギ揚げ」が絶品である。

今日は、先輩の犬塚博英ご夫妻が仲人となって牧田龍、碧さんの結婚式が赤坂の乃木神社にて行われ出席。新郎のご尊父とは古い付き合いで、かつてはブンド(調べてみてね)の活動家で、ピース缶爆弾の製造者としても知られている。野村先生ともお付き合いがありの、「風の会」の選挙でも随分とお手伝いを頂き、鼎談の本も出している。

出席者のほとんどは民族派関係の人ばかりだったが、伊勢志摩の徳山さんがご列席されていたのが嬉しかった。先日、牡蠣を送って頂き、そのお礼もしていないうちにお会いし、礼を失した形になってしまったのが、恥ずかしかった。新郎新婦を差し置いて銘々が楽しんでいるのがおかしかった。まずおめでとうございます。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野村先生の生誕祭。

2020-02-13 12:49:09 | 日記
二月六日(木)晴れ。

朝食は、紅鮭、納豆、トロロコブスープ。昼は、川崎駅中のイタメシ屋でピザ一枚。夜は、川崎の居酒屋で直会。

今日は、群青の会の大熊雄次氏が中心となり、志村馨、松本佳展の両君などが世話人となり野村先生の生誕祭を行った。本来は、先生の誕生日は二月の十四日である。毎年この日に行っていたが、会場の都合で前倒しとなった。

先生は、昭和十年の生まれであるから、御健在なら今年で八十五歳である。しかし私たちにとっては、亡くなられた五十八歳のままである。以前、奥様が、「お父さんが死んでから、二十年以上が過ぎて、私が向こうに行ったなら、お父さんは私のことが分かるかしら」と話された時には、さすがにホロッときた。

生誕祭は、当初は群馬県の雷電神社にて開催していた。その神社に亡くなられた正田秀幸氏が先生の「わが生の須臾なる命いかにせむ」の句碑を建てたことに由来する。その後、正田氏の地元の大宮、川崎と場所を移して行っている。野村先生の句碑は全国六カ所にある。菩提寺の浄発願寺には代表句の「俺に是非を」が、ご尊父の眠る、横浜は西区の通称「赤門の寺」東福寺には、「昂然として行くべし冬の銀河の世」、群馬県前橋市大前田町には辞世となった「惜別の銅鑼は濃霧の奥で鳴る」。福岡県には、やはり代表句。そして、今年の初夏には札幌に、代表句の句碑の完成披露をおこなう。

先生が壮烈なる自決を遂げてから二十七年、微力ながら先生の思想と行動が風化せぬように努力する所存です。今後ともご指導とご鞭撻のほどを伏してお願い致します。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日も牡蠣三昧。

2020-02-11 16:08:52 | 日記
二月五日(水)晴れ。

朝起きて天気が良い時に、ふと口ずさんでいる歌がある。若い人は知らないだろうが、その昔、川田晴久とミルクブラザースという歌謡漫談のグループがあって、その人たちの代名詞のような歌。「地球の上に朝が来る、その裏側は夜だろう。西の国ならヨーロッパ、東の国は東洋の富士と筑波の間に流れる隅田川」。何となく元気が出る歌で、これを歌いながら雨戸を開ける。今日もそんな気分の朝だった。

朝は親子丼、カレーうどん。うーん脈絡のない朝食だ。昼は、マーボー豆腐。夜は、昨夜に続き「牡蠣三昧」。大き目の蒸籠(せいろ)で蒸牡蠣、牡蠣のアヒージョ、牡蠣と新玉ねぎのオイスターソース炒め。お供は、「伊佐美」を炭酸で割って飲んだ。焼酎ハイボールは牡蠣と良く合う。※写真は蒸し牡蠣と牡蠣と新玉ねぎのオイスターソース炒め。

六日の「産経抄」に面白いエピソードが掲載されていた。横浜生まれで、日本の思想家、文人、近代日本における美術史学研究の開拓者であった岡倉天心が、 アメリカ滞在中のこと。当時は東洋人がめずらしかたっと見えて、好奇の目で見られることが多く、また蔑視も今以上に強かった。ある米国人が天心をからかって、こう言った。「お前さんはどっちのニーズだ、チャイニーズか、ジャパニーズか?」。天心はとっさにこう切り返した。「お前さんはどっちのキーだ、モンキーか、ドンキー(ロバ)か、それともヤンキーか?」と。

吉村昭の『ポーツマスの旗』の中に、明治の外交官、小村寿太郎の面白いエピソードが書いてある。それは、彼が駐清特命全権公使で北京にいる頃に、万寿節の祝賀会に招かれた。その席上で恰幅の良い清国の宰相、李鴻章が、各国の公使夫妻らの前で、小村が最も背が低く「清国の十五、六歳の子供くらいだ」と笑いながら言った。すると小村は、「日本では大男総身に知恵がまわりかね、うどの大木、半鐘泥棒と言って大男は国家の大事を託しかねると言われている」と言い返した。

こういった人物のエピソードが好きだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牡蠣むきの殼投げおとす音ばかり 。

2020-02-11 11:48:50 | 日記
二月四日(火)晴れ。

飲み過ぎると朝中々起きられないし、ほどほどに飲むと、目覚めがいい。飲まないで寝ると、夜中に何度も目が覚めて、熟睡できない。体調を崩したと言うと、「飲み過ぎなんだよ」。こういうことを言う奴は友達ではない。まっ世間にはそんな連中が多い。本当の友達というのは「酔中に真あり」と笑って寛容な人だ。酒をたしなまない人にも、いい人がいる。一緒にいても酒の邪魔にならない友人が幾人かいる。無趣味な私は、酒だけは避けられない。

朝は、目刺し、納豆、白菜のおしんこ、ワンタンスープ。目刺しは焼き方にコツがある。あんまり強火で長く焼くと、お腹の所がパンクして、ちょっと残念な姿になる。最も新鮮ではない物もお腹がパンクするので、気をつけて買うようにしている。上手に焼けたものは、頭からバリバリ食べるようにしている。目刺しと味噌汁にご飯だけだと侘しさが漂うので、もう一品必要だ。昼は抜いた。夜は、伊勢志摩の同志から牡蠣をどっさり送って頂いたので、我が家で、牡蠣パーティーを行った。

牡蠣は小ぶりのものが好きだ。夏の大きな岩牡蠣がどうしても食べられない。一口でスルッと口に入る程度の物が一番おいしい。レモンをギュッと絞って食べる。こんな時は、白ワインの良いものを奮発する。何たって有難いことに量が多い。一日では食べきれないので半分は冷蔵庫にしまって、残り半分を食べた。生牡蠣、焼き牡蠣。ふふふの三連続。レモンも沢山買ってハーフ切り。この方が贅沢さが増す。白ワインは冷蔵庫で冷やした物。伊勢志摩の同志に感謝しつつ、あっという間に頂いた牡蠣の半分を消化した。大量の牡蠣殻を見た下の子供が、「一つぐらい真珠が入ってなかった」。馬鹿コケ。。※写真は焼き牡蠣。一人分。

横浜にゆかりの俳人、中村汀女の句、牡蠣むきの殼投げおとす音ばかり 。我が家もこんな感じでした。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乃木坂辺りでは、いい女なんだってね。

2020-02-10 13:28:56 | 日記
二月三日(月)晴れ。

日にちは、多少ずれているが歌手の梓みちよさんが亡くなられた。資料によれば、彼女は昭和18年生まれだから私よりも8歳年上である。彼女の最初のヒット曲「こんにちは赤ちゃん」がリリースされたのは昭和38年。私は中学の一年生だった。その頃の私は、ベンチャーズ、ビートルズといった洋楽に凝っていて、日本の歌謡曲にはあまり興味がなかった。彼女が「二人でお酒を」で再び脚光を浴びたのは昭和49年。この頃は、民族派運動の第一線で汗をかいていて音楽などの趣味とも訣別して街宣活動やビラ貼り、勉強会などを中心に日々活動していた。

梓みちよさんの曲で好きな歌と言えば「メランコリー」である。この歌は、昭和51年のヒット曲。私は25歳だったが、文字通りの貧乏活動家で、生きること、生活すること、運動することで精一杯であった。その歌の中に「乃木坂辺りでは私はいい女なんだってね」というものがあって、当時は乃木坂と言う所が、歌の歌詞になるぐらいだから、どんなに華やいだ場所かと、ちょっと憧れもした。

後年、野村先生が赤坂のみすじ通りに事務所を構えた。私が横浜から通う折に、表参道で乗り換えて乃木坂で降りた時、ふと梓みちよの「メランコリー」の歌詞が浮かんだ。しかし乃木坂のどこを見渡しても、乃木神社の周りは森閑としていて、厳粛さを感じても、勝手に華やかと思っていた歌のイメージが湧いてこなかった。少し歩いてもマンションや会社の入ったビルがあるだけで、一ツ木通りやみすじ通りのような賑わいが無く、裏切られたような気持ちになったのを覚えている。現在でも乃木坂周辺を度々訪れる機会があるが、「メランコリー」の歌詞が浮かんでくることはない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする