白雲去来

蜷川正大の日々是口実

天麩羅屋、天作のこと。

2020-02-05 15:09:57 | 日記
一月三十一日(金)晴れ。

昨年の大晦日から、一ヶ月。同じ三十一日でも、師走と一月とでは当然ながら感慨に雲泥の差がある。朝食は、スパサラ、赤ウインナー、目玉焼きに豆腐の味噌汁。久しぶりの「昭和飯」である。これにコロッケが一つあれば、かなり幸せな気持ちになる。昼は、お世話になっている方と、伊勢佐木町のすぐ脇の天麩羅屋の「登良屋」にて食事会。このお店は、天麩羅はもちろんだが、「メジマグロ」と「カツオ」は絶品である。ご馳走様でした。夜は、鶏手羽先の塩麹蒸し、トントロ、おでんに「伊佐美」のお湯割り。

天麩羅屋と言えば、今は場所を移したが、以前は、京急、日ノ出町近く、伊勢佐木町方向に行く途中にある大岡川に架かる長者橋の手前すぐ右側に野村先生の馴染みの「天作」という天麩羅屋があった。横浜生まれの作家、長谷川伸の記念碑のある前である。今は、商業ビルが建って、天作があった当時の面影は全くない。

その天作は、野村先生はもとより、亡くなられたご尊父はじめ野村ファミリーが良く利用していた。そのお店の初代のオヤジは、先生のことを「秋ちゃん」と呼んでいたくらいだから、そのお付き合いの長さが分かる。映画「撃てばかげろう」撮影の時に、先生が、川谷拓三さんを招待して一緒に食事をした。その時に、川谷さんが「良い映画があるのだけど、上映館が無い」と言って紹介したのが根本順善監督の特攻隊を追視した「北緯15度のデュオ」である。その映画のビデオを川谷さんが持っていたこともあり、食後に、当時私が住んでいたマンションの部屋でその映画を見た。

映画を見た後に、先生が私の部屋からS武のT社長に電話して、S武系の映画館で上映が決まった。このことがあってから根本監督と私たち、そして「群青忌」とのお付き合いが始まる。日ノ出町を通ると、天作のことを思い出すことがある。

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蕗の薹のこと。

2020-02-05 14:34:15 | 日記
一月三十日(木)晴れ。

いやはや二日酔い気味である。若い頃は・・・。と書いて、一体何歳ぐらいまで「若い頃」なのだろうかと、考えてしまった。四十代の頃は、ほとんど二日酔いなどしなくて、朝まで遊んでいても、途中で寝てしまうことなどまずなかった。気力もまだ充実していた四十代の頃を「若い頃」といっても世間から見れば、普通にオッサンである。まあ人が何を言おうが、自分が「若い」と思っていればいいのかもしれない。

そんな日の朝食は、「おでん」に紅鮭。昼は、珍しくトースト二枚。夜は、「おでん」にサバの竜田揚げ。お供は「伊佐美」をカラカラ(お燗専門の器)で温めて飲んだ。

十代、二十代の頃は、先輩に連れられて「天ぷら」や小料理屋に行き、春の山菜の「蕗の薹」などを食べると、心の中で「良くこんな不味いものを食べるな」と思ったものだ。そういった山菜の「にがみ」や「えぐみ」がいいな。と感じるようになったのは五十を過ぎたころからだと思う。蕗の薹には思い出がある。北海道に留学していた頃、春浅い農道の雪間に、蕗の薹を沢山見た。一般人が立ち入ることのできない場所でもあったせいか、それこそ至る所に蕗の薹が顔を出していた。だれもとらないので、放っておくと茎(薹)が大きくなって、固くて食べられなくなる。「薹が立つ」とは、年頃が過ぎる。あるいは「さかりが過ぎる」ことの例えとして使われるが、本当に見た時にはナルホドと思ったものだ。蕗の薹とは、フキの花のつぼみのこと。

横浜の野毛山公園と言う所に、俳人の中村汀女の「蕗のたう(薹)おもひおもひの夕汽笛」の句碑がある。早春の夕方、それぞれが、汽笛を聞いて、様々な思いを持って蕗の薹を見ている。こんな意味だろうか。

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