白雲去来

蜷川正大の日々是口実

ブログをサボッテすみません。

2023-12-21 14:39:01 | 日記

12月20日(水)晴れ。

いやー、少し気を抜くとブログの更新が滞ってしまう。それほど忙しいという訳でもないが、さすがに師走、普通の月よりも慌ただしいことは確かである。この一週間、人と会ったり、機関誌の編集に頭を使ったり、考えてみればバタバタしていた。

昨日は、私が役員の末席を汚している大行社の幹部会と納会があった。大行社の皆さんの前で年末の挨拶をしてから、会議室の近くの居酒屋で納会。その後、六本木の「パーム」で二次会。したたか飲んで、送って頂き帰宅。さして飲んだつもりはなかったが、今朝は起きるのがつらかった。昼過ぎまで、何もせずに酒が抜けて行くのを待ち、4時過ぎに風呂に入ってようやく「普通」に戻った。

夜は、昔なじみの人たちと、自宅近くの「浜一」にてプチ忘年会。20代の頃からお付き合いをしているM原氏、Y崎氏、ハマちゃんと私の四人。何しろ話は50年も前の若い頃のことばかり。一番若いハマちゃんがキョトンとしていた。共通の先輩が亡くなってから来年は33回忌。そんな思いで話に花が咲いた。


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街は落ち葉の絨毯が。

2023-12-14 17:18:11 | 日記

12月13日(水)晴れ。

朝食は、野菜たっぷりのスープでウェイパーを使った。後は、たらこに山芋ときゅうりの糠漬け。昼は、ハムトースト二枚。夜は、おでん、きんぴらを生海苔と一緒に炒めた物、ロース肉の薄切り焼き。お供は「黒霧島」。真面目に酔狂亭にて独酌。

良い天気なので、一時間ほど歩いた。道路にはイチョウの落ち葉が絨毯のように敷き詰められていた。「落ち葉」「枯れ葉」と聞いてすぐに思いつく歌は、スタンダードの「枯れ葉」、若い頃聞いたベンチャーズの「木の葉の子守歌」、奥村チヨの「落ち葉の舞い散る停車場は」で始まる「終着駅」。どれも古いものばかりか。

上の子供が、私のために契約してくれているのがディアゴスティーニの「ブルーノート」シリーズ。毎月二枚セットで送られてくるのだが、それももうNO25迄になった。その最初の一枚が、マイルスデイビスで、一曲目が「枯れ葉(Autumn Leaves)」これが泣きそうになるほどに良い。ただ日本の下町の風景には重ならないのが残念である。

野村先生のお供をしてローマ、シチリアからパリに行ったのは平成4(1992)年の9月のこと。ローマ、シチリア、ナポリ、ヴェネチアと回ってパリに着いたのは9月15日のこと。日中は、半そででも大丈夫だったが、朝晩は上着がないと寒かった。シャンゼリゼはマロニエの並木が続いており、ガイドさんがマロニエの実を拾って来て、「上手く育てると芽が出て楽しめますよ」と言われて持ち帰ったが、残念だった。パリの街路樹の多くはプラタナス。私の行った9月の中ごろはまだ落ち葉の季節ではなかったが、それでも街を歩けば、いくらかの落ち葉が風に舞っていた。マイルスの「枯れ葉」でも聴きながら歩いてみたい街でもある。※平成4年9月。初秋のパリにて在りし日の野村先生。


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東條英機の色紙。

2023-12-14 08:50:19 | 日記

12月12日(火)雨のち曇り。

朝食は、鮭の粕漬け、ハムエッグ、コンソメを使ったほうれん草のスープ。昼は抜いた。夜は、久しぶりに松原商店街の「魚孝」へ行き、マグロを買う。他はも鶏の手羽先の蒸し物、山芋と人参の糠漬け。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

私の通った小学校は、昭和23年12月23日に東條英機さんなどの戦争指導者が、いわゆる東京裁判で死刑の判決を受け処刑され、そのご遺体を荼毘に伏した久保山火葬場のすぐ近くにある横浜市立太田小学校。もちろん、小学生の私は、その火葬場が東條さんを荼毘に伏した場所であるなどと言うことは、知らなかった。

随分前のことだが、その東條さんの句の書かれた色紙を古書店で買ったことがある。「寒月や幾世照らして今ここに」と言うもので、処刑される年の正月、色紙には「昭和二十三年一月」とある。私の前に、その色紙を所蔵していた方の解説文が色紙と一緒に入っていた。それによると、「昭和二十三年一月、巣鴨刑務所に於いて、空の月を眺め、寒空の月が長い、長い年月を照らして今ここに輝いている。と無常の感をこめて歌われています。」さらに、「東條英機が刑死を目前に、人間個人として自分の息子、英隆の今後を右翼の義人、三浦義一に託した決別の句と思います。」この色紙と一緒にあった名刺には(私が買った時には名刺はなかった)「多年の御厚誼奉謝候、英隆に関し何卒宜敷く御願い申し上げ候 三浦義一殿」と書いてあったと、コピーにある。色紙よりもその名刺の方が欲しかった。

連合国は、当時の皇太子殿下(現・上皇様)の生誕の日、すなわち十二月二十三日に合わせて処刑を行なったという説がある。ちなみに東條さんの辞世の歌は、「我ゆくも またこの土地に かへり来ん 國に酬ゆる ことの足らねば」。国に対する恩返しが足りていない。か。合掌。


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今は、金と女のスキャンダルは命取り。

2023-12-13 00:00:00 | 日記

12月11日(月)曇り。

昨日とうって変わって寒い朝。考えてみればもう12月も10日を過ぎた。寒くても当たり前か。朝食は、鮭の頭の焼き物、自家製の山芋の糠漬け、茶碗ラーメン。昼は、大好きな「フクイのカレー」に目玉焼き載せ。夜は、仲良しさんたちとプチ新年会。久しぶりに「たん右衛門」へ。その後、山下町の「ラッキー」の店に行く。あまり親しい付き合いはなかったが、一級上の先輩の訃報を聞く。その人の古希の祝いに行ったのは4年前か。「サリーズバー」の20周年を記念した写真集『Days』に亡くなられた方も写っている。私も、僭越ながら頁を汚している。カメラは有名な森日出夫先生である。

最近の政治家は、金と女のスキャンダルは完全に命取りになる。贈収賄や昨今問題になっている「裏金」はその昔から言い訳が出来ないが、「ヘソ下」、すなわちオンナの問題に関しては、昔はかなり大らかだった。有名なのは、自民党を作った男と言われている三木武吉の選挙演説だろう。1946年4月、戦後初の衆議院議員総選挙の際、三木氏は選挙区であった旧香川一区かで立会演説会に臨みます。すると、三木氏よりも先に演説を行った福家俊一氏が、じっと三木氏を見つめてこのように攻撃しました。「ある有力候補者のごときは、なんと妾を4人も連れている」。

演説を終え、したり顔で演題を下りた福家氏の後に続いて、演題に上った三木氏はこう反論します。「私の前に立った吹けば飛ぶような候補者が『ある有力候補』と申したのは、不肖この三木武吉であります」。

「なお、正確を期さねばならんので、先の無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」。(「政治ドットコム」より)。三木に愛人が5人いたというのは本当の話である。※サリーズバーの写真集。


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30周年のお祝いと早雪忌。

2023-12-12 13:36:42 | 日記

12月10日(日)晴れ。早雪忌。

暖かい一日だった。朝食は取らず、昼食は、ラーメンとチャーハンセット。夜は、お世話になっている新日本誠心会の結成30周年のお祝いがあり、大悲会の志村馨君と保土谷駅で待ち合わせて東京行き。田中辰裕会長とは長いお付き合いをさせて頂いている。その田中会長の人柄か、会場となった中華料理屋は同憂・同志や田中会長の友人知人で溢れていた。乞われて乾杯の音頭をとる。終了後は、錦糸町へ移動し「おがさわら」にて二次会。群青の会の大熊雄次氏のお世話で帰宅。

平成17年初冬、風雪にさらされる新潟港の岸壁でひとりの男が割腹自殺を遂げた。自らを責めぬくようにして絶命した男は、三浦重周 (みうら・じゅうしゅう)そのひとだった。卓越した理論と高潔な人柄で後進を育て、幾多の国士と刎頸の交わりを重ねていた三浦の自決は「信念」を貫くためだったのか・・・。昭和45年、早大生の三浦は「三島事件」に慟哭し、その死の直前まで35年にわたって「憂国忌」の活動に深くかかわっていた。山平重樹著『決死勤皇 生涯志士 三浦重周伝』(並木書房)より抜粋。

早雪忌と命名された三浦さんの追悼祭は最近行われていない。少人数でもいいと思う。是非来年は開催してほしいと思っている。

 

                               


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