白雲去来

蜷川正大の日々是口実

み戦(いくさ)の詔書の前に涙落つ代は酷寒に入る師走にて。

2023-12-10 13:01:54 | 日記

12月9日(土)晴れ。

朝食は、冷ご飯が冷蔵庫に沢山あったので、昆布と鶏ガラ、かつお節でたっぷりと出汁を取って「お粥」にした。「安記」風にネギをみじん切りにしてごま油と醤油で味を付けた薬味で食す。辛い鮭を一品。昼は抜いた。夜は、エビのガーリック炒め、ジャーマンポテト、津軽漬け。ほうれん草のおしたし。お供は「黒霧島」。

小春日和の良い天気。半藤一利氏が編集した本に「12月8日と8月15日」(文春文庫)という本がある。その日付のタイトルを見れば、よほどのアホでない限り昭和16年の開戦の日と、昭和20年の終戦の日のことをまとめた本であることが分かる。戦後の日本人は、大東亜戦争(太平洋戦争ではない)を「連合軍総司令部(GHQ)が戦後、教育やメディアを通じて植え付けた『日本だけが悪かった』という『GHQ史観』から抜けきっていない。これでは、祖国のためにと戦い戦場に散った幾百万の同胞に申し訳が立たない。」と昨日の産経新聞でコラムニストの乾正人さんが書いていた。

あらためて半藤一利氏の本を読んでみた。開戦の臨時ニュースを聞いたとき、歌人の斉茂吉は日記に「昨日、日曜ヨリ帝国ハ米英二国ニタイシテ戦闘ヨ開始シタ。老生ノ紅血躍動!」と書き「たぎりたる炎をつつみ堪えるしのびこらえ忍びしこの国民(くにたみ)ぞ」と詠んだ。この時茂吉59歳。また北原白秋は、「やまとの天皇(すめらみこと)の高しらす大き構想はたぐうすべなし」。吉井勇は「勝たん勝たんかならず勝たんかくおもい微臣のわれも拳握るも」。私の出た中学の校歌の作詞者でもある土岐善麿は「撃てと宣(の)らす大詔(おおみことのり)遂に下れり撃ちてしやまん海に陸に空に」。最後に与謝野晶子の歌は「み戦の詔書の前に涙落つ代は酷寒に入る師走にて」。

戦争だから、アジア解放、自存自衛という側面もあれば、確かに侵略的な要素もあったかもしれない。しかし、野村先生は、自決の際に同志らに宛てた「檄文」「天の怒りか、地の声か」の末尾をこう結んでいる。「ちなみに、神風特攻機は二千八百四十三機飛び立ち、二百四十四機が敵艦に突入したと記録にある。英霊よ、安らかに眠れ。いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったのかは、後世の史家が明らかにしてくれるであろう」。

今日の日本の平和と繁栄は、先の大戦で亡くなられた英霊のご加護であると、私は思っている。


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東亜侵略百年の野望をここに覆す。

2023-12-09 16:13:46 | 日記

12月8日(金)晴れ。開戦記念の日。

今朝も、「暖かい静かな」日である。已むに已まれず決然と起った、昭和十六年のこの日を日本人は忘れてはならないと思う。戦後の日本人は、アメリカ占領軍の政策として先の大戦を「侵略戦争」と位置付けられ、現在でも多くの国民が、そう思っている人が多いのは残念で仕方がない。

通称、東京裁判において、インドのパール判事は、米国側が我が国に対しての最後通告、通称「ハル・ノート」に対して、こう述べている。

「『現代の歴史家でさえも、次のように考える事ができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本政府に送ったものと同じ通牒(注・ハル・ノート)を受け取った場合、モナコ公国、ルクセンブルク大公国のような小国でさえも、アメリカに対して武器を持って立ち上がったであろう』と述べ、日本の指導者たちが愛国主義である限り、アメリカの苛酷なる最後通牒を退けて、立ち上がらざるを得なかったのは当然であり、日本にとって、生存の為自衛の為、やむを得ない措置であった」としている。

中村武彦先生は、晩年の年賀状に、文字通り辞世となった句を詠んでいることを群青忌での犬塚博英先輩の追悼講演で知った。「十六年十二月八日の暁を再び迎えて老いの血たぎつも」。東亜侵略百年の野望を覆した日として、今日の日を誇りに思って良いと思うのだが。

十二月二日十七時時三十分、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電文。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰、「一二〇八」とは十二月八のこと。「トラトラトラ」は真珠湾の攻撃機から、空母赤木へ「ワレキシュウニセイコウセリ」の暗号電文。その電文のコピーを以前、知り合いの方から頂いた。非常に珍しい物である。写真にある「GF」とは連合艦隊の略である。

 


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『私的ヤクザ伝ー昭和を駆け抜けた親分41人の肖像』

2023-12-08 13:01:36 | 日記

12月7日(木)晴れ。

朝食はも、鮭のみそ漬け、たらこ、なめこの味噌汁。昼は、ココ壱番屋で、コロッケカレー。夜は、鮭の頭、鶏の手羽先の塩焼き、ロースハムとウインナー。お供は、「薩摩宝山」。酔狂亭にて独酌。天気が良いので久しぶりに一時間ほど歩いた。ちょっと風が強く、道路にはイチョウなどの落ち葉が風に舞っていた。

山平重樹さんから、過日、頂いた『東映任侠映画とその時代』(清談社刊)に続いて新刊『極・私的ヤクザ伝ー昭和を駆け抜けた親分41人の肖像』(徳間書店刊)をご恵送頂いた。同封されていた手紙には、「野村先生の名前が出てくるものが何本かあります。御笑覧いただければ幸甚です」とあり、その先生の名前が出てくる「親分」から読ませて頂いた。

一番心を打たれたのは、堀政夫先生の項だった。お亡くなりになられた直後に、野村先生とご自宅に弔問にお伺いしたことなどを思い出した。私が戦線に復帰した年の秋のことなのでよく覚えている。また、先生の名前が出てこなくても、先生とお付き合いのあった方、当然私も一緒にお会いした方が幾人も出てきて、あっという間に読了した。

まだ野村事務所が浜松町にあった頃にお会いしたのが井上喜人氏。ある用事で野村先生を訪ねてきたのだが、「ああこの方が、横浜愚連隊として有名だった方か」と驚いたものだった。野村先生と、昔話に興じている時に、井上氏が名刺の裏に書いたのが、モロッコの辰こと出口辰夫氏の戒名だった。先生が自決なされる二ヵ月前に訪れたモロッコでの最後の夜。カサブランカのレストランで、先生はその戒名の書かれた名刺を燃やされた。

そんなことを思い出しながら、山平重樹さんの本を読ませて頂いた。もう少しで年が改まる。有名な一休さんの句、門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし。を実感する今日この頃である。


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三島由紀夫と蓮田善明。

2023-12-06 16:30:40 | 日記

12月6日(水)晴れ。

さすがに師走。浪人風情の私でも何かと忙しく(ほとんどが酒席なのだが)ゆっくりと本を読む時間がない。若い頃は、多少酒が残っていても、風呂に入ったりするとシャキっとしたものだが、最近はちょっと飲みすぎると翌日は仕事にならない。そんな折に、元楯の会の村田春樹先生から新刊本をご恵送頂いた。村田先生とは、今年の6月18日に名古屋の護国神社にて開催された、第38回全国有志大連合の大会で記念講演をお聞きし、その後の直会では親しく話をさせて頂いた。

『三島由紀夫は蓮田善明の後を追ったー開かれた皇室への危惧』(展転社刊・1800+税)。本の帯には「元楯の会会員が、三島由紀夫に大きな影響を与えた蓮田善明を通じて、三島由紀夫の自決の本質に迫る。そして開かれた皇室を中心に戦後の空虚な日本の諸問題を論じる」。是非ご一読をお願い致します。

三島由紀夫に影響を与えた蓮田善明。野村先生から頂いた本の中に『蓮田善明とその死』(小高根二郎著)がある。野村先生の獄中句に「鰯雲 文庫本にも獄書の印」と言うものがあるが、「文庫本」ではないが頂いた『蓮田善明とその死』の最終頁にも「獄書の印」が貼ってあった。6月の村田先生のご講演を思い出しながら心して読みたいと思っている。

今日の昼は、日頃からお世話になっている方と昼食を共にした。車で行ったので珍しく酒を飲まずに食事だけ。その方を自宅まで送ってから事務所へ。山平重樹さんからも新刊本が届いていた。後日、紹介させて頂く。夜は、酔狂亭にて独酌。お供は、福岡の奥田親宗さんから頂いた「薩摩宝山」。奥田さんは10月の群青忌に遠路参加し頂いたが、忙しくてほとんど話が出来ずに申し訳なかった。


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鰻からホルモンに、ハシゴ。

2023-12-05 16:42:34 | 日記

12月5日(火)曇り。

ぽやーっとしていると早や師走。寒い一日だった。昨日は、志村馨、松本佳展の両君と一緒に、お世話になっている方々に暮れのあいさつ回り。ひと段落したところで、別行動の友人と合流して吉田町の鰻の名店「八十八」にて昼食。人によって鰻屋はそれぞれ好きなお店があるだろう。私は、横浜では、この「八十八」と東神奈川の「菊屋」が好きである。菊屋は、リーズナブルだが、八十八は、そう度々行けるお店ではない。珍しく午後に何の予定も入っていなかったのでクリ焼酎の「ダバダ火振り」をボトルで頼んだ。この高知の栗焼酎が好きだが、横浜では置いてあるお店が少ない。

随分前に、その「ダバダ火振り」のとても大きい5400ml のサーバーを頂いたことがあった(写真参照)。一人ではとても飲み切れないので、私の忘年会の会場に持って行き、皆にふるまった。八十八でしばらく飲んでから、車の運転のある松本君に野毛まで送って貰い、ビオシティーというビルの地下の「すずらん」に向かったが、時間が早かったのかまだ開店前で、仕方なく野毛の本通りへ向かった。知り合いのいる「5番街」もまだ開店前。とりあえず開いている店をと探して入ったのが「野毛ホルモンセンター」。鰻の後にホルモンかよと思ったが、そこはご愛敬。志村君と愚妻の三人で、したたか飲んで帰宅。忙中に閑有りと酔った。


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