スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
第26回兵庫ジュニアグランプリ。
コパノヴィンセントが無理なく前に出てそのまま逃げることに。外の分だけ前に出られなかったべラジオドリームが2番手。ヤマニンシュラとコスモストームが並び,サンジュウロウとヴィグラスデイズとシャインミラカナの3頭が併走。ラピドフィオーレ,ハッピーマン,キミノハートの順で続き2馬身差でマナヴァルキューレ。4馬身差の最後尾にジーニアスレノン。ミドルペースでした。
3コーナーを回ってサンジュウロウとシャインミラカナは後退。最内を回って追い上げてきたのがハッピーマン。べラジオドリームは直線の手前で一杯。2番手に上がったヤマニンシュラと逃げたコパノヴィンセントの間を突いたハッピーマンが粘るコパノヴィンセントを差し切って優勝。コパノヴィンセントが1馬身半差で2着。ヤマニンシュラが1馬身半差の3着。ヴィグラスデイズがクビ差の4着でコスモストームが半馬身差の5着と,総じて前につけていた馬がそのまま流れ込む決着。
優勝したハッピーマンは重賞初制覇。このレースはJRAの1勝クラスで好走歴がある馬が3頭いて,そのうちの2頭によるワンツー。ハッピーマンは道中の位置取りが後ろになってしまい,展開面からは不利でしたが,内を回ることで相殺しました。それでも前にいた馬たちが有利なレースであったことは間違いありませんから,このメンバーの中では能力が上位であったとみていいと思います。小回りで器用なレースで勝ち切った点も評価できます。父はダノンレジェンド。母の父がキングカメハメハで祖母が2007年のフラワーカップを勝ったショウナンタレント。その父がアグネスタキオン。
騎乗した坂井瑠星騎手と管理している寺島良調教師は兵庫ジュニアグランプリ初制覇。
『国家論Tractatus Politicus』の第六章の第一節では,人間は本性naturaの上で共同社会状態status civilisを欲求するので,人間が共同社会状態を解消してしまうことは起こり得ないという意味のことがいわれています。これは一読すると,スピノザがホッブズThomas Hobbesと同じことをいっているように見えます。ホッブズは,それがどんなにひどい共同社会状態であったとしても,自然状態status naturalisに戻るよりいいから,人間が共同社会状態を解消して自然状態に回帰することはないといっているからです。しかし実際には,人間が共同社会状態を解消することはないという同じことをいっているとしても,スピノザとホッブズでは違う意味のことを主張していると考えなければなりません。ホッブズは実際に自然状態があって,そこに回帰することはないといっているのに対し,スピノザはそもそも自然状態などというものは存在しないから,共同社会状態を解消して別の状態に移行することはできないといっているのだからです。すなわち人間は常に共同社会状態に現実的に存在することになるのですから,政治論を構築していくときは共同社会状態から出発しなければならないのであって,共同社会状態以前の状態としての自然状態から出発することはできないのです。
もちろん共同社会状態というのは,現実的に存在するあるひとりの人間だけを抽出するなら,その人にとって不本意で苦痛に満ちたものであるということがあり得ます。ホッブズの政治理論では,それでもその状態は自然状態よりよい状態であるということができますが,スピノザの政治理論ではそのようにいうことができなくなります。したがって人間は,というのは僕たちはという意味ですが,共同社会状態が現にあって,その中で現に暮らしているということをもってよしとするわけにはいかなくなります。自然状態など存在せず共同社会状態しか存在しないのであれば,現実的に存在している人間に対して苦痛を齎すのは共同社会状態にほかならないからです。それがどんなに無法で歪んだものであったとしても,共同社会状態は共同社会状態であって,そうした共同社会状態が現に生きる人間の苦痛の原因causaとなり得るということを弁えておかなければなりません。
第45回浦和記念。
鞭を入れてメイショウフンジンがハナへ。2番手にダイシンビスケスで3番手にアウトレンジ。2馬身差でライトウォーリア。4馬身差でサヨノグローリー。2馬身差でアイブランコとディクテオン。あとはディアセオリー,ナニハサテオキ,オウケンムーン,スリーヘリオスの順で発馬後の向正面を通過。正面に入って逃げたメイショウフンジンがペースを落としたことで全体の隊列は縮まりました。向正面に戻って内からライトウォーリアが3番手に上がり,アウトレンジが4番手に。3馬身差でディクテオンとナニハサテオキ。その後ろがサヨノグローリーとアイブランコの併走に。前半の1000mは63秒5のスローペース。
4番手の外になっていたアウトレンジが3コーナー手前から外を進出。2番手のダイシンビスケスは苦しくなって後退。コーナーの途中でアウトレンジが逃げたメイショウフンジンの前に出て先頭で直線に。そのまま後ろを引き離していって快勝。内を回ったライトウォーリアが直線だけメイショウフンジンの外に出され,メイショウフンジンを差して6馬身差の2着。メイショウフンジンが2馬身差の3着に粘り,外から追ってきたディクテオンがクビ差で4着。
優勝したアウトレンジは重賞初制覇。とはいえ前々走でオープンを勝ち,前走のみやこステークスが不来方賞を勝ったサンライズジパングの2着でしたから,実績は下でも近況からは上位と思われました。また,4歳とまだ若かった点も魅力。逃げることができなかった2着馬とは2キロの斤量差がありましたので,着差ほどの能力差は見込めないかもしれませんが,大レースでも好勝負になる余地があると思います。母の父はキングカメハメハ。9代母がスカーレットインクの3代母にあたる同一牝系。
騎乗したフランスのクリスチャン・デムーロ騎手と管理している大久保龍志調教師はは浦和記念初勝利。
スピノザの思想に準じて検討していけば,『国家論Tractatus Politicus』の当該部分で空想の産物といわれているのは,実際は自然権jus naturaeではなく自然状態status naturalisであるという吉田の指摘に僕は同意します。したがって,思い切ったことをいえば,スピノザはその部分で,自然状態は空想の産物だといってしまえばよかったのではないかと僕は思いますし,そういうべきだったのではないかと思います。もちろんこの部分の文脈は,空想の産物であるのが自然権であるのか自然状態であるのかということをいいたかったわけではなく,自然状態ではないも同然である自然権が,共同社会状態status civilisでは空想の産物ではなく現実的なものになるということをいいたいがための前振りですから,スピノザとしては自然権が空想の産物であるといっておいた方がよかったのだということは僕も理解できます。しかし一方で,書簡五十においては自然権はそっくりそのまま残しているといっているのですから,自然状態が空想の産物であるとスピノザが考えていることは確実だと思いますから,たとえこの部分でではなくとも,スピノザはそのようにいっておくべきではなかったかと思います。そうでなければ『国家論』のこの部分と,書簡五十でスピノザは矛盾したことをいっていると理解されかねないと懸念されるからです。
自然状態を空想の状態と解するスピノザの政治論から,どのようなことが結論されるのかということが第一四回では考察されていますので,それもみておきましょう。
自然状態が空想の産物であるのなら,現実的に存在する人間は,自然状態にはいないということになります。これは現時点でいないということだけを意味するのではなく,かつて人間は自然状態に存在したということはないし,これからも自然状態の存在するということはないという意味です。ではどこにいるのかといえば,それは共同社会状態にいるということになります。つまり人間は常に共同社会状態に存在していたのだし,これからも共同社会状態に存在し続けるということです。そしてその状態において,現実的に存在する人間は自然権を行使してきたのだし,今も行使し,またこれからも行使し続けていくことになるのです。
15日と16日に茨木市で指された第37期竜王戦七番勝負第四局。
佐々木勇気八段の先手で角換わり相早繰銀。先手が腰掛銀に組み替えるという工夫を出し,後手の藤井聡太竜王が対応に時間を使う将棋になりました。
ここから先手は☗9三角と打ち☖9二飛に☗7五角成と馬を作りました。
7筋の歩がなくなったので後手は☖7二歩の受け。先手は☗6四歩☖同歩と突き捨ててから☗9三歩。☖8二飛とさせておいて☗6四馬と取りました。
後手は☖4二角と打ち☗4六馬に☖6四歩。
上の図は馬を作ることができ,駒損の回復も見込めるのですでに先手優勢かもしれません。下の図になって後手は角を使った上に自ら使いにくくしているのですが,受け止められれば悪くないという判断だったのだと思います。しかし下の図から桂馬を取った後で3筋の歩を突き捨て4五に銀を出る攻め筋があり,一方的な展開になりました。たぶん上の図から下の図の間に後手の形勢はかなり悪化しているので,☖4二角と打つのは拙く,☖5二金のような手で粘らなければいけなかったのではないでしょうか。
佐々木八段が勝って2勝2敗。第五局は27日と28日に指される予定です。
人間が現実的に存在しているということと,その人間が自己の有esseに固執しているということは,第三部定理七により同じ意味でなければなりません。つまり人間が現実的に存在していることと,その人間が自己の有に固執するperseverare力potentiaを発揮していることは同じことです。そしてこの自己の有に固執する力こそ,スピノザが自然権jus naturaeといっている力そのものなのですから,人間が現実的に存在しているということと,人間の自然権が働いているということは,同じ意味であると解さなければなりません。よってもし自然状態status naturalisにおいて人間が現実的に存在するなら,その人間には自然権が働いていることになるでしょう。ところが『国家論Tractatus Politicus』の当該部分では,自然状態においては個人の自然権はないも同然だとスピノザはいっています。だとするとここでないも同然である,あるいは同じことですが実質的に存在しているというよりも空想上の産物であるといわれているのは,自然権ではなくて自然状態の方であろうと吉田はいっています。吉田はこの種の自然状態のことを,特異で非現実的な想定だとしています。
これでみれば分かるように,吉田もまた自然状態,これは『国家論』でスピノザがいっている自然状態であると同時に,ホッブズThomas Hobbesが共同社会状態status civilis以前の状態として規定している自然状態を含めてもよいと僕は解しますが,そうした自然状態は非現実的だ,つまり人間の歴史において現実的に存在した状態ではないと考えていることになります。つまり吉田も自然状態について,僕と同じような見解opinioを有していることになります。だから僕がこの部分からスピノザは自然状態を空想の産物あるいはそこまでいわなくても実在的有entia realiaではなく理性の有entia rationisにすぎないとみなしていると看取することは,牽強付会といわれる可能性が残るように,吉田の説もまた牽強付会なのであるといわれ得るといわなければならないことは僕も否定できません。しかし吉田の論述は,確かにこの部分からスピノザがないも同然といっているのは自然権であるけれども,実際の意味としてそういわれているのは自然状態の方であるということを,スピノザの思想から確実な仕方で説明していると僕には思えるのです。
松阪競輪場で行われた昨日のザ・レオニズカップの決勝。並びは長島‐芦沢の栃木茨城に海老根‐中村の千葉,西村‐笠松の中部,塚本‐堤の西国で伏見は単騎。
笠松と芦沢がスタートを取りにいき,内の笠松が誘導の後ろを確保し,西村の前受け。3番手に長島,7番手に伏見。塚本は道中から長島の外に張り付き,併走での周回になりました。残り3周のホームに入って塚本の内で併走していた長島が引いたので,3番手に塚本,5番手に長島,最後尾に伏見の一列棒状になりました。残り2周のホームに戻って長島が上昇。誘導が外れて西村が突っ張りました。伏見が内から上昇していったので,西村の後ろで伏見,こちらも動いた塚本,西村マークの笠松の3人が併走。塚本マークの堤を挟んで長島という隊列になって打鐘。ここから長島が再び発進。ホームで西村を叩くと海老根までの3人が出きりました。後ろから自力を使う選手がいなかったのでこのまま3人の争いに。番手から差した芦沢が優勝。逃げた長島が半車輪差の2着。海老根が1車身半差の3着でこのラインの上位独占。
優勝した茨城の芦沢辰弘選手はGⅢ初優勝。このレースは長島の先行1車。なので西村や塚本が長島の番手を狙う動きがあってもおかしくありませんでした。長島としてはそういう展開にした方が自分の優勝は狙いやすかったと思うのですが,番手の芦沢にも配慮したような先行になり,芦沢が無風で番手を回ることに。その分だけ芦沢の差しが上回ることになったといえるでしょう。ラインのことを考えて先行するのは悪くないと思いますが,先行1車ですから長島に対してはやや物足りなさも感じるような結果でした。
僕は自然状態status naturalisは,人類史上に存在したことはないと考えています。したがって,『国家論Tractatus Politicus』の当該部分の解釈として,スピノザも自然状態を空想的な状態であると考えているというように理解するのは,牽強付会であると思われるかもしれません。確かに文脈上は,スピノザは自然状態における自然権jus naturaeは空想的なものであるといっているのであって,自然状態についてそのようにいっているわけではないからです。しかし吉田もまた,この部分を僕と同じように解釈しています。ですから確かにこの部分を僕がいったように解釈する余地があるといえるのです。この点に関する吉田の検討をみていきます。
スピノザは自然状態を自然権を通して規定しています。ところがその自然権が,自然状態においてはないも同然であるとスピノザは断言しています。一方でスピノザは,第三部定理七を通して自然権を規定しているのです。この定理Propositioは前もっていっておいたように現実的に存在するすべての個物res singularisに妥当する定理です。よって人間が現実的に存在するなら,必ず妥当する定理であるといわなければなりません。これはつまり,人間が自然状態において現実的に存在していようと,共同社会状態status civilisにおいて現実的に存在していようと,同じように必ず妥当するということを意味として含みます。つまり自然権が働くagereということと,人間が現実的に存在しているということは,同じ意味でなければなりません。
この吉田の指摘はきわめて的確であると僕は思います。もちろん人間には,自然状態においてはなし得ないけれど,共同社会状態においてはなし得るということが,具体的に一つひとつの事象を検討していけばあるかもしれません。他面からいえば,自然状態において有さない力potentiaを共同社会状態において有するということがあるかもしれません。しかし自己の有esseに固執する力というのをひとつの力として抽出するのであれば,現実的に存在する人間は常に自己の有に固執するのであり,この点においては自然状態にあろうと共同社会状態にあろうと同様です。いい換えれば,人間が現実的に存在するということと,自己の有に固執するということは,同じことでなければなりません。
イギリスから1頭が遠征してきた第41回マイルチャンピオンシップ。
バルサムノートが主張しての逃げ。ニホンピロキーフとレイべリングが並んで2番手。4番手にコムストックロードで5番手にはブレイディヴェーグとフィアスプライド。7番手にウインマーベル。8番手にエルトンバローズ。9番手にオオバンブルマイ。10番手にナミュールとマテンロウスカイ。12番手にソウルラッシュとアルナシームとチャリン。15番手にセリフォス。16番手がジュンブロッサムで3馬身差の最後尾にタイムトゥヘヴン。前半の800mは45秒7のミドルペース。
軽快に飛ばしたバルサムノートのリードは3コーナーで3馬身。そこから差が詰まっていき,直線の入口ではバルサムノート,ニホンピロキーフ,ウインマーベルの3頭が内外に大きく離れた先頭に。ウインマーベルよりさらに外から追い込んできたソウルラッシュが内の各馬を差すとそのまま抜け出して快勝。2着争いはウインマーベルとそのすぐ外から追ってきたブレイディヴェーグとエルトンバローズの3頭で接戦。エルトンバローズが2馬身半差の2着でウインマーベルがクビ差の3着。ブレイディヴェーグがハナ差で4着。大外を追い込んだチャリンがクビ差の5着。
優勝したソウルラッシュはマイラーズカップ以来の勝利。重賞4勝目で大レース初制覇。一昨年の4月に4連勝でマイラーズカップを勝って以降はずっとこの路線のトップクラスで走り続け,昨年のマイルチャンピオンシップが2着,今年の安田記念が3着と,優勝に近いところまできていました。ここは今までの悔しさを払拭するような快勝で,留飲を下すことができたのではないでしょうか。父はルーラーシップ。母の父はマンハッタンカフェ。母の3つ上の半兄が2013年の青葉賞を勝ったヒラボクディープ。
騎乗した団野大成騎手は昨年の高松宮記念以来となる大レース2勝目。管理している池江泰寿調教師は昨年のスプリンターズステークス以来の大レース24勝目。第34回以来となる7年ぶりのマイルチャンピオンシップ2勝目。
スピノザが想定している自然状態status naturalisというのは,各人が自己を他の圧迫から防ぎ得ることが困難な状態のことです。したがってこの状態においては各人は,それほど多くのことをなし得ないことになるでしょう。なし得ないということはその力potentiaが現実的にないということを意味し,この力が自然権jus naturaeを意味するのですから,この状態では各人の自然権は無に等しいということになるのです。
このことは,実はスピノザがホッブズThomas Hobbesの順序とは逆に,自然状態の方を自然権によって規定していることと関係しているといえます。スピノザは自然状態というのを『国家論Tractatus Politicus』においてどのような状態であるかということを規定していないのですから,その概念notioをホッブズがいっているのと同じ意味でいっていると解することもできます。しかし吉田がいっているように,『国家論』における論述だけでみるなら,自然権を先に規定しておいて,その概念を利用して自然状態を説明しているということも事実であって,この限りにおいては,各人の自然権が無に等しい状態のことをスピノザは自然状態というというように解せるからです。いい換えればスピノザは各人の自然権が無に等しい状態のことを想定し,その状態のことを自然状態といったというように解せるのです。つまり自然権によって規定される自然状態というのは,スピノザにとっては初めからその自然権が各人にとって無に等しい状態のことであったということが可能でしょう。
なおスピノザは,この自然状態における各人の自然権は,現実的な権利というよりは空想上の産物にすぎないという意味のことをいっていますが,これは自然状態そのものについても妥当すると解してもいいと思います。要するに自然状態のような状態は現実的な状態ではなくて空想の産物であって,人間がそのような自然状態において存在したことはないしこれからも存在することはないというように解してもよいと思います。前もっていっておいたように,とくに『国家論』においては社会契約説は斥けられているといっても間違いではないので,現に自然状態が存在したあるいは自然状態が存在するというように解する必要はまったくないからです。
日本時間で今日の未明にバーレーンのサヒール競馬場で行われたバーレーン国際トロフィーGⅡ芝2000m。
キラーアビリティとヤマニンサンバはレースの前半はキラーアビリティが外,ヤマニンサンバが内の8番手あたりを並走。先頭からは6馬身くらい。レースの後半にかけて馬群が凝縮していき,キラーアビリティが7番手の内,ヤマニンサンバは後方2番手まで下がりました。馬群がばらけないまま直線に向かったので,キラーアビリティは開いたところを突こうとしましたが,伸びを欠いて8着。位置が下がったヤマニンサンバは外に出されて伸び6着でした。
このレースは昨年のネオムターフカップを勝った馬が勝ったのですが,そのときはキラーアビリティが2着でした。したがってレースのレベルとしては通用の余地があったわけですが,力を十分に発揮することができなかったということでしょう。レースのレベルは年によって変動すると思いますが,どの程度の能力がある馬なら通用するレースであるのかということは分かったと思いますので,あとはそこで力を発揮できるのかどうかということになるのではないでしょうか。
各人は自然状態status naturalisにおいては自己を他の圧迫から防ぎ得る間だけ自己の権利jusの下にあるといった後で,人間の自然権jus naturaeは,それが単に個人のものであり,個人の力potentiaによって決定される間は無に等しいのであり,現実においてよりは空想においてのみあるとスピノザはいっています。この点は分かりにくいところが含まれているかもしれませんので,詳しく説明することにします。
スピノザは自然権というのを力と等置するわけですから,個人の力と個人の自然権を等置していることについてはそれ以上の説明は不要でしょう。一方,自然状態においては自然権は空想上の産物であり,現実的には無に等しいといっているのは,自然状態においては各人は力を実質的には有していないという意味になりますから,不思議に思えるのではないでしょうか。実際にスピノザは書簡五十では,自然状態における自然権を共同社会状態status civilisにおいてもそっくりそのまま残しているといっているのですから,自然状態における力を共同社会状態においても残していると解する必要があり,これでみればスピノザは『国家論Tractatus Politicus』と書簡五十で矛盾したことをいっているように思えます。このふたつの言説がどうして両立し得るのでしょうか。
留意しておくべきことは,スピノザは力というのを現実的なものとしてのみみなし,可能的なものとしてはみないということです。つまり,たとえばある人間は何かをなし得るとしても,実際にそれをなしているからそれは力といわれるのであって,単にそれをなし得る,分かりやすいいい方をすれば,なそうと思えばなせるけれどもなしていないという場合には,スピノザはそれを力とはいわないのです。このブログで何度か示した実例でいえば,人間は理性的に考えるconcipere力がありますが,それは実際に理性ratioを用いて能動的に考えている場合にそのようにいわれるのであって,ある人間が受動感情に捉われているときには,その人間に理性によって考える力はあるとはいわれないのです。
このことがこの場合にも適用されることになります。つまり自然状態において人間にある力があるといわれるのは,その人間が現に何かをなしているという場合だけなのです。
『生き抜くためのドストエフスキー入門』で展開されている汎悪霊論は,文学評論としては成立しますがスピノザの哲学の理解としては不適切です。ここではなぜスピノザの哲学の理解としてこの論述が不適切であるのかを説明します。
スピノザの哲学は基本的に唯名論を採用しています。これはスピノザがことばと観念ideaは異なるものだと考えているからであって,ことばによって事物を理解することには重きを置かず,事物の十全な観念idea adaequataを形成することに重きを置いているからです。スピノザはことばによって事物を認識するcognoscereことは基本的に表象imaginatioであり,その観念は十全な観念ではなく混乱した観念idea inadaequataであるといいます。したがって神Deusとか悪霊といった語によってそれを表象するimaginariことには意味がありません。神の本性essentiaとは何か,悪霊の本性とは何かを理解するintelligereことが重要なのです。
スピノザは第一部定義六で神を定義していますが,そこでは無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性を構成される実体substantiamが神であるとされています。このとき,神というのは命名にすぎません。いい換えれば,あるものが神といわれるならばそれは無限に多くの属性によって本性を構成される実体でなければならないという観点からこう定義されているのではなく,無限に多くの属性によって本性を構成される実体があれば,それをスピノザは神というという観点からの定義Definitioなのです。したがって,無限に多くの属性によって本性を構成される実体が神といわれなければならない積極的な理由があるわけではありません。単にスピノザはそのようにいうというだけです。
よってスピノザは,無限に多くの属性によって本性を構成される実体を悪霊というということもできたわけです。そしてこの場合はスピノザの哲学は汎神論ではなく汎悪霊論であるということになるでしょう。つまり汎神論であろうと汎悪霊論であろうと,スピノザの哲学の内実は変わるわけではありません。ただ神といっているところのものを悪霊といい換えるというだけにすぎないのです。
社会契約説を軽視する,とくに『国家論Tractatus Politicus』にはそういう傾向が強いですから,そこでいわれている自然状態status naturalisが,現に存在したとされる状態であるのか,それとも架空の,いわば理性の有entia rationisのような概念上の状態であるのかということは,そこまで突き詰めて考える必要はないといえます。ですから,僕のように,自然状態は社会契約説によって国家Imperiumの成り立ちを説明するための概念上の状態であって,人類の歴史のうちでそのような状態は存在したことがないと理解するとしても,スピノザの政治論を正しく理解する上で大きな問題を齎すことはないでしょう。
『国家論』の第二章第一五節の冒頭で,自己を他の圧迫から防ぎ得る間だけ自己の自然権jus naturaeの下にあるといえるような状態のことを自然状態といった直後で,この自然状態においては各人の自然権は無に等しいという意味のことをスピノザはいっています。したがって,スピノザは自然状態においては,各人が他の圧迫を防ぎ得ないと考えているわけで,この点からみれば,各人が他の圧迫を防ぎ得ない状態のことを自然状態であるとスピノザは規定しているとみることもできるでしょう。この種の自然状態の概念notioは,ホッブズThomas Hobbesがいっている,万人の万人に対する戦争状態としての自然状態に近似しているといえます。実際に吉田も指摘している通り,スピノザは『国家論』において自然状態を規定しているわけではないのですから,その自然状態を,ホッブズが規定しているような自然状態のことであると理解することは可能なのであって,それをスピノザの哲学に基づいて規定すると,このようになるというように理解しても,それほど大きな間違いではないと思います。
第四部公理でいわれているように,自然Naturaの中にはそれよりも有力で強大なものが存在しないような個物res singularisはありません。人間も個物ですからこのことが適用されます。したがって各人は単独で存在する限り,自身よりも有力で強大な他者が必ず存在することになります。よってこの状態では各人は他の圧迫から身を守ることは不可能だといえます。なのでスピノザが自然状態をそのような状態と規定することは,スピノザの哲学にも合致しているといえます。
北海道から1頭,高知から1頭が遠征してきた昨晩の第35回ロジータ記念。
トウケイカッタローは発馬してすぐに控えました。逃げたのはミスカッレーラ。2番手にローリエフレイバーで3番手にリケアマロン。4番手にグラインドアウト。その後ろはニジイロハービー,エレノーラ,シトラルテミニの集団。ポルラノーチェ,フェルディナンド,ベイデンマリーナ,プリンセスアリー,フォルトリアンの順で続き,2馬身差でイマヲトキメク。最後尾にトウケイカッタロー。位置取りはほとんど変わらずに2周目の向正面に。ここで4番手がグラウンドアウトとシトラルテミニの併走になり,その後ろがニジイロハービー,エレノーラ,フェルディナンドの集団。さらにプリンセスアリーが追い上げてきました。スローペース。
3コーナーでは逃げたミスカッレーラを押しながらローリエフレイバーが追走。外から捲り上げてきたのがポルラノーチェでここからはこの3頭の争いに。早めに手が動いていたローリエフレイバーですが,直線に向くと逃げるミスカッレーラと捲ってきたポルラノーチェの間から伸び,前に出て優勝。外のポルラノーチェがクビ差で2着。ミスカッレーラは2馬身半差で3着。
優勝したローリエフレイバーは東京2歳優駿牝馬以来の勝利で南関東重賞2勝目。今年は東京プリンセス賞で2着になった以外はあまり走れていなかったのですが,東京2歳優駿牝馬までのことをみれば能力があることははっきりしていました。ここは復活の勝利とみていいでしょう。気温が高くなる時期は苦手というタイプなのかもしれません。母の父はネオユニヴァース。
騎乗した川崎の野畑凌騎手は東京2歳優駿牝馬以来の南関東重賞2勝目。管理している大井の月岡健二調教師は南関東重賞10勝目。ロジータ記念は初勝利。
スピノザが自然権jus naturaeを経由させて自然状態status naturalisを規定しているのは,スピノザもまた自然状態というのを現実的に存在した状態ではなく,理念上の概念notioであると解しているからではないかと僕は考えています。社会契約説を完成させるためには自然状態の概念が必須といえますが,そうした状態,いわば共同社会状態status civilisより以前の状態が人類史の中に存在したという見方に僕は否定的です。自然状態というのは共同社会状態以前の状態としか解せませんから,僕は人類史の中でそういう状態があったというように考えないのです。もちろんこれは共同社会societasというのをどの程度の大きさとして解するのかということと関係するのであって,ある一定数のまとまりを超過しなければ共同社会状態とはいえないというのであれば,そういう状態があったというほかはないかもしれません。しかし自然状態の意義というのは,ホッブズThomas Hobbesが指摘しているように,個々の人間が自分の利益utilitasだけを考慮に入れて各々の力potentiaを発揮するという状態なのであって,それを自然状態というのであれば,そのような状態はなかったと僕は考えます。スピノザの哲学に寄せて考えれば,第三部定理七でいわれているコナトゥスconatusは明らかに力でもあって,この力が自然権を規定することになるのですが,この定理Propositioはある人間が他の人間と協力することを拒むことを意味しません。むしろ他者と協力することが自己の利益suum utilisとなるならば,その人間は他者と協力するということがこの定理からは出てこなければならないのです。そしてその限りにおいては諸個人が自分の利益だけを考慮に入れているということはできないのであり,その状態は自然状態とはいえないことになります。いい換えれば個々の人間の現実的本性actualis essentiaが,自然状態は人類史の中で存在しなかったということの証明Demonstratioを含んでいると僕は考えるのです。そしておそらくスピノザも,それに近い考え方をしているのではないかと思うのです。
もちろんスピノザははっきりとそういっているわけではありませんから,これは僕の仮説のようなものであり,実際にそうだったといえるわけではないでしょう。ただいずれにしてもスピノザが社会契約説を軽視するのは事実です。
北海道から1頭が遠征してきた東京2歳優駿牝馬トライアルの昨晩の第24回ローレル賞。
逃げたのはリオンダリーナ。ただ2番手のサティスファイアと3番手のピーチブロッサムはほとんど差がなく追走しました。4番手はプラウドフレールとピンクタオルチャン。ドナギニーを挟んでチャチャハツゴウとモンゲーキララも併走。さらにザゴリ,オリコウデレガンス,ウィルシャインの3頭。これらの後ろにランベリーとなり,集団の最後尾がグレアネオンライト。シナノラビットは集団から3馬身ほど遅れた最後尾になりました。前半の800mは50秒6のハイペース。
3コーナーからリオンダリーナとサティスファイアが併走に。その後ろからプラウドフレール,ピンクタオルチャン,モンゲーキララ,ウィルシャイン,オリコウデレガンスの5頭が並んで追い上げてくるという形。直線では外の2頭が前に出て,先んじて先頭に立ったウィルシャインが優勝。大外のオリコウデレガンスが4分の3馬身差で2着。捲り上げた馬のうち最も内にいたプラウドフレールが1馬身半差の3着。
優勝したウィルシャインは南関東重賞初挑戦での優勝。8月のデビュー戦を勝つと9月の条件戦で2勝目。これでデビューから3連勝となりました。デビュー戦が船橋の1000mで2戦目が船橋の1200m。ここは相手が強化され,競馬場が変わった上に距離も伸びてのものでしたから,これは評価に値するでしょう。ただ,リオンダリーナはレース前に馬体の検査を受け,異常がなかったということでの出走。影響があったかは別としても,力を発揮できなかったのは一目瞭然。2着のオリコウデレガンスは発馬後の直線で明確な不利を受けてのものですから,勝ち馬のレベルが例年の水準には達していないという可能性も考慮しておく必要がありそうです。父はジャスタウェイ。3代母の半姉に1999年のユニコーンステークスとシリウスステークス,2000年のかきつばた記念とプロキオンステークスと南部杯を勝ったゴールドティアラ。
騎乗した船橋の本田正重騎手は川崎スパーキングスプリント以来の南関東重賞19勝目。ローレル賞は初勝利。管理している船橋の佐藤裕太調教師は南関東重賞14勝目。ローレル賞は初勝利。
実際には前にもいっておいたように,社会契約そのものにスピノザは重きを置いているとはいえないので,共同社会状態status civilisの権力の維持のために何が必要であるのかということを,社会契約の観点から説明することが,スピノザの政治論において大きな意味があるとはいえないかもしれません。ただ,こうしたこともスピノザが自然状態status naturalisという概念notioを経由せずに自然権jus naturaeを規定していることから生じているといえます。
吉田は,スピノザが社会契約説を軽視することも,自然状態を経由せずに自然権を規定していることから生じているといっています。この点も詳しくみていくことにします。これは第八回ではなく第一四回の方で言及されています。それは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では社会契約説に言及していますが,『国家論Tractatus Politicus』では社会契約説が姿を消してしまっていることと関係します。要するに第八回では『神学・政治論』がメインテーマになっているのに対し,第一四回では『国家論』の方がメインに講義されているということです。
『国家論』の第二章は自然権についてという題名になっています。その第一五節の冒頭で,自然状態においては各人は自己を他の圧迫から防ぎ得る間だけ自己の権利の下にあるといわれています。この自己の権利が自然権を意味するのは間違いありません。一方,自然状態の方はこれよりも前に何の規定もされていません。したがって自然状態がどのような状態であるかといえば,自己を他の圧迫から防ぎ得る間だけ自然権の下にある状態であるということになるでしょう。つまりスピノザは自然権を自然状態という概念を経由せずに規定しているだけではなく,むしろ自然状態が,自然権のある状況の方から規定されていることになります。これはちょうどホッブズThomas Hobbesの真逆になっています。ホッブズはまず自然状態というのを規定しておいて,その万人の万人に対する闘争状態において個々の人間が行使する力potentiaのことを自然権といっているわけです。つまり自然状態なしに自然権を考えるconcipereことはできません。対してスピノザは,個々の人間がなし得る力すなわち自然権がある状態であるとき,その状態のことを自然状態といっていることになるのです。
10日の四日市記念の決勝。並びは中野‐新山‐佐藤‐大森の北日本,寺崎‐三谷の近畿,伊藤‐井上の九州で柴崎は単騎。
伊藤と大森がスタートを取りにいき,誘導の後ろに入った伊藤が前受け。3番手に柴崎,4番手に中野,8番手に寺崎で周回。残り3周のホームから寺崎が上昇。中野の横で併走になりました。バックで中野が引いたので,4番手に寺崎,6番手に中野となって一列棒状。残り2周のホームから引いた中野が発進。バックで伊藤を叩きました。この間に飛びつきを狙った寺崎が,大森の追走を阻んだので,4番手に寺崎。マークの三谷を挟んで6番手に大森という隊列に。バックに戻って新山が中野との車間を開けて待機。寺崎の発進に合わせて番手捲り。この競り合いを制した新山が優勝。捲った寺崎が1車身半差で2着。新山マークの佐藤が1車輪差で3着。
優勝した青森の新山響平選手は2022年の競輪祭以来の優勝。記念競輪は2020年3月の玉野記念以来となる5勝目。四日市記念は初優勝。このレースは北日本ラインの厚みが他を圧倒していて,それを生かしての優勝。S班に在籍しているように力量は確かで大きく崩れはしないのですが,これが今年の初優勝であり,昨年も優勝がないという勝ち味には遅いタイプ。その点はいささか心配しましたが,さすがにこのラインでこの展開になれば優勝は譲れない選手でした。欲をいえば,このレースは展開的に中野を残すのは難しかったので仕方がありませんが,佐藤を2着に引き込むような走りが必要だったと思います。
このことに関してはさらに次の点にも気を付けておかなければなりません。
もし自然法lex naturalisの概念notioをスピノザの政治論に導入するなら,自然状態status naturalisは危険な状態であるから人びとは社会契約を締結して共同社会状態status civilisで生活するようになるということは自然法に属するとはいえず,共同社会状態での権力が共同社会を構成する人びとの利益utilitasを顧みないとその権力が持続することができなくなるということは自然法に属するといえることになると僕は考えます。ただ,権力が共同社会の構成員の実質的利益を考慮するというとき,それは実質的な利益が構成員に齎されているということを必ずしも意味しません。というのは,この場合は社会契約を破棄するのは構成員であって権力者の側ではないので,構成員が自身の利益が保証されていると認識しているのであれば,この権力は継続することになるからです。しかるに現実的に存在する人間は,自身の利益を必ず十全に認識するcognoscereのかといえばそういうわけではありません。混乱して認識するという場合もあるわけです。スピノザの哲学で利益というのはまず自然権jus naturaeの根拠ともなる第三部定理七から図られることになるのですが,実際には自身の利益になっていない事柄を,自身の利益になっていると思い込むことは人間にはあるのであって,そうしたことが共同社会状態の構成員に共有されているのであれば,その共同社会の社会契約は破棄されないので共同社会が継続することになり,権力も持続することになります。逆に,本来は自身の利益である事柄を不利益であると思い込むことも人間にはありますから,その場合はその混乱した認識cognitioの下に社会契約が破棄されてしまうということがあり得るのであって,こうした事情によって共同社会の社会契約が破棄され,権力が移行するということも起こり得るのです。つまり構成員の実質的利益を権力が考慮するということは,権力の持続が構成員の利益になっていると思うような状態にするという意味であり,逆に構成員の利益を顧みないというのは,構成員がそのように思うことに配慮しないという意味です。なので実際は構成員の利益に適っていない権力が持続するdurareことも起こり得るのです。