スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡七十三&政治秩序

2024-07-01 19:26:24 | 哲学
 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,ロンドンでオルデンブルクHeinrich Ordenburgと面会したライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが,何通かの書簡を見せてもらったとされています。そのうちのひとつが書簡七十三です。これは書簡七十一の返信で,出された日付が確定できないのですが,1675年11月か12月。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                                        
 書簡七十一でオルデンブルクは3つの質問をスピノザにしています。これはその質問に対する解答です。ここでは質問は省略し,スピノザが何をいっているのかだけを示します。
 まず,神Deusと自然Naturaに対する見解opinioは,近代のキリスト教徒たちが抱いているものと,スピノザ自身が抱いているものとで異なるということです。このことは,第一部定義六で神を絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamであるといっていうことおよび,第四部序言で神と自然とをそうは違わないものと規定していることから明らかですが,ここでスピノザが強調しているのは,第一部定理一八に関することです。すなわち近代のキリスト教徒たちは神を超越的原因causa transiensとみなすが,スピノザは神を内在的原因causa immanensとみなすということです。したがってスピノザの見解では,第一部定理二九備考にあるように,内在的原因としての能産的自然Natura Naturansとその結果effectusである所産的自然Natura Naturataに,自然が分類されることになります。
 次に,神の啓示の確実性certitudoは,奇蹟miraculumの上には築かれないということです。これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で詳しく分析されている事柄のひとつで,スピノザにとって奇蹟は無知を表すものなので,啓示の確実性を担保するのではありません。それを担保するのは教説の中にある叡智そのものであって,無知ではないのです。
 最後に,我々の救いのためにキリストを肉に従って認識するcognoscereことは,絶対に必要であるというわけではないということです。ここで救いというのは,第五部定理四二の至福beatitudoと解していいだろうと僕は考えます。スピノザは,キリストを肉に従って認識することによっては救われないといっているのではなく,その方法でも救われることは是認しています。ただ救われる方法は,それだけではないというのがこの部分の主旨です。

 契約pactumの二重化という考え方が示しているのは,スピノザが政治の秩序ordoに宗教religioが必要であると考えていることです。これはそれ自体でみれば時代的制約というほかないのであって,たとえば現代の日本の政治にこの理論をそのまま適用するのは難しいでしょう。しかし國分は,このように考えてスピノザの政治理論を捨ててしまうことは,スピノザの議論そのものがもっている構造を捉え損ねることになると指摘しています。スピノザが政治に宗教が必要であるというときに示されているのは,単純な法制度や理性的計算だけで政治の秩序は作出することができないということで,これは現代の政治論,というか現代に限らず政治論一般に適用できると國分は考えるのです。いい換えれば政治秩序のためには,法制度や計算には還元することができない何かが必要だと國分はいうのです。実際に僕たちが法lexを遵守するのは,処罰に不安metusを感じるからであるという場合もあるでしょうが,すべからくそこに還元することができるわけではないでしょう。不安による秩序形成も計算による秩序形成も,意味をなさないわけではないし,僕は大いに意味があると考えますが,しかし一方でそれだけに頼ることができないのも事実だと思いますし,それだけに頼ってしまうのは望ましくもないでしょう。なのでこの國分の指摘は,耳を傾ける価値が大いにあると思います。
 神Deusとの契約というような要素をそのままの形で現代の世俗国家に適用することはできません。ではそうした国家Imperiumは,法制度と理性的計算だけで政治秩序を作り出しているのかといえば,そういうわけでもありません。現代の世俗国家も,ある価値の共有というのは必要としていたのだし,その価値を宗教以外の何かに求めてそれを実現しようとしたのだと國分はいいます。このゆえにその法規範は,神との契約がそうであったように,至高の政治権力を抑制することもできるし,暴走を防ぐこともできるのです。
 國分がいうように,このような保証は完全なものではありません。それは神との契約が完全な保証になり得ないというのと同じです。ただ法や計算には還元できない何かがあることは,その通りではないでしょうか。
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水戸黄門賞&ふたつの契約

2024-06-30 19:14:52 | 競輪
 取手記念の決勝。並びは小林‐坂井‐吉田‐吉沢‐芦沢の関東,脇本‐山口の近畿中部で守沢と松本は単騎。
 芦沢がスタートを取って小林の前受け。隊列が決まるのにかなり時間を要しましたが,6番手に守沢,7番手に松本と単騎のふたりが入って8番手に脇本で周回。残り2周のホームまで動きがなく,誘導が退避するタイミングから小林がスパートして打鐘。脇本は7番手の松本からも離されました。小林の番手の坂井は車間を開けていたのですが,残り1周のホームではそれが詰まってしまい,そのまま番手から発進。このラインの後ろを回っていた守沢は,最終コーナーで吉沢をどかして吉田の後ろに。直線に入ってから踏み込んだ吉田がそのまま抜け出して優勝。最後は吉田マークとなった守沢が1車身半差で2着。脇本がバックの入口手前で浮いてしまったので,そこから自力に転じて捲り追い込んだ山口が4分の1車輪差で3着。
 優勝した茨城の吉田拓矢選手は5月の小田原のFⅠを優勝して以来の優勝。一昨年9月の青森記念以来となる記念競輪6勝目。取手記念は初優勝。このレースは関東勢が5人で並びましたから,そこから優勝者が出ることが濃厚。吉田が優勝したので作戦が失敗したとまではいいませんが,同じラインから2着も3着も出せませんでしたから,成功したともいい難い面はあります。吉田自身は今年は好調で,FⅠでも4度の優勝があり,日本選手権でも決勝に進出しています。今はその好調を維持している状態で,それがこの快勝に結び付いたものでしょう。近況だけでいえば今後ももっとやれるのではないかと思います。

 現実的に存在する人間がDeusと契約pactumを結んだとしても,その人間は自然権jus naturaeを放棄したわけではないので,その契約に従わないこともできます。いい換えれば,神を愛さずに生きていくこともできますし,隣人を愛さずに生きていくこともできるのです。ただこの契約は,その契約に基づいて生きた方がよいことを人に教え,その人がそれを内面化する限りでは,その人は確かにその契約に従い,神を愛しまた隣人を愛するように生きていくことになるでしょう。
 このことから分かるように,この契約は神が現実的に存在するある人間と個別にする契約です。社会契約はそのようなものではなく,国民全体の自然権を社会societasに,たとえば国家Imperiumに委託する契約です。このために,神との契約と社会契約は矛盾することなく両立するとスピノザはいいます、そしてこのとき,社会契約は至高の力potentiaですから,力の強度を比較するなら,社会契約は神との契約を上回ることになるでしょう。よって社会契約によって形成された社会は,その社会自体が神との契約を無視するだけの力をもつことになります。つまり社会は神を愛さないこともできますし,隣人を愛さないこともできるのです。ただし,そうすることによって危険や損害が発生するのであれば,その危険も損害も社会で引き受けなければならないことになります。したがって,神との契約を内面化している市民Civesが多ければ多いほど,社会がその契約を無視することによって生じる危険も損害も,その分だけ大きなものになるでしょう。
                                        
 つまり,神との契約と社会契約は,実際には相互に規定し合う関係を保ちながら現実社会を構成していくと考えなければなりません。これが國分がいう社会契約の二重化が具体的に意味するところです。社会契約によって生じる至高の権力は,人びとの信託を得てはいます。だから社会は宗教religioについても様ざまな規定を行うことができますし,社会の構成員はその規定に従わなければなりません。しかし神との契約は,至高の権力がその個々の信託関係を破らないように命じています。ですからふたつの契約は,表面的には対立するのですが,補い合いながら円環を構成し,他方の独走を阻止し合うのです。
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印象的な将棋⑲-9&二重化

2024-06-29 19:25:36 | ポカと妙手etc
 ⑲-8までの検討から明らかになったように,⑲-2の第2図で後手が☖4六歩と銀を取れば,細い道筋ではありますが後手に勝ちがあるということは分かりました。ただ実戦は後手はこの勝ち筋に進むことができず,☖5四同銀と取っています。
                                        
 この手を境に局面は先手の勝ちになりました。ただこれも難しい手順です。
 まず第1図では,☗6四角と打つ手が目につきます。これは飛車取りなので☖7二飛と逃げる一手。そこで☗3一角成と金取りに成っておきます。
 その局面で後手が窮しているようなのですが,☖4三玉と逃げる手があります。
                                        
 第2図になると後手玉がどうしても寄らないのです。先手は最初はこの手順を読んでいたようですが,第2図に進むと勝てないと判断し,修正手順に進めました。それが正しい修正だったので,局面は先手の勝ちが続くことになります。

 國分が指摘しているふたつのポイントとは,社会契約の二重化と社会契約の具体化です。それぞれ何を意味しているのかをみていきます。
 まず,社会契約の二重化というのは,宗教的な観点からなされています。たとえば現実的に存在する人間が神Deusの法lexに服従するというとき,神の法に服従しなければならないことをその人間は生まれついて知っていたわけではありません。そもそも自然状態status naturalisというのを想定するなら,そこには単に法がないというだけでなく,宗教religioもまたないといわなければならないからです。つまり,何らかの宗教状態というのを僕たちに想定するのであれば,自然状態はその宗教状態に先行することになります。したがって,もし宗教状態において人間が神に服従するというなら,それは神との契約pactumによって服従するといわれなければならないことになります。ホッブズThomas Hobbesの社会契約論はこうしたことまで想定しているとはいえないと僕は考えますが,もしも社会契約という概念notioを導入するのであれば,自然権jus naturaeを放棄することが契約であるというのと同じように,神に対する服従obedientiaも契約でなければならないとスピノザは主張するのです。よってこの契約によって,人びとは自らの自由libertasを譲渡する,あるいは同じことですが,自身の権利を神に譲渡することによって,宗教状態が成立することになります。これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では第十六章の十九節で探求されています。
 ただし,スピノザは自然権を放棄することはできないと考えているのですから,この場合もそれと同じように考えなければなりません。そうではなく単に神と契約を結んだ人間が,道義心pietasに従うようになったということを意味します。あるいは,自然権を発揮する力potentiaを自制するべき場面があることを理解したというほどの意味です。スピノザにとっての宗教というのは神への服従を意味し,具体的には神を愛するということと隣人を愛するということを意味するということは,すでに別の考察で何度もいってきたことです。したがって,現実的に存在する人間が宗教状態において神と契約するとは,神を愛するということと隣人を愛するということをその人間が内面化するという意味です。
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金丸義信&弁証法的展開

2024-06-28 19:01:01 | NOAH
 秋山準がNOAHを退団して全日本プロレスで仕事をするようになったとき,潮崎豪と同様に秋山についていった選手の中に金丸義信がいます。
 金丸は全日本プロレスに入団した選手です。高校時代は野球部に所属。春の甲子園に出場しています。全日本プロレスは日本武道館大会でサインボール投げをしていたのですが,金丸は高校時代の経験を生かし,2階席までサインボールを投げていました。僕はその時期の武道館大会はほとんど観戦していましたので,その当時は試合よりもその印象の方が強いです。
 デビューしたのは1996年7月。入門から1年半後のことでこれはかなり時間を要した方でしょう。全日本時代は小橋建太の付き人を務めていたことから小橋率いるバーニングに入り,後に秋山率いるスターネスに移りましたが,目立った実績は残せませんでした。
 NOAHの旗揚げと共にNOAHの所属選手に。2001年6月にGHCジュニアヘビー級の王者決定トーナメントに優勝。初代の王者になりました。この前にWEWタッグの王者にはなっているのですが,ビッグタイトルはこれが初。NOAHもヘビー級は無差別級という意味ですが,金丸はずっとジュニアヘビー級を主戦場に戦い続けました。2002年にIWGPジュニアタッグの王者になっていて,GHCジュニアタッグの王者にも2005年6月に就いています。このときはジュニアヘビーの王者でもありましたから,二冠になったことになります。
 2012年にNOAHを退団。全日本プロレスでも世界ジュニアヘビー級王者になっています。
 2016年に一旦はNOAHに復帰したのですが,所属選手にはならず,鈴木みのる率いる鈴木軍に加入。この間にまたGHCジュニアヘビー級の王者になっています。この年の暮れまでで鈴木軍はNOAHから撤退。それと共に金丸もNOAHでの仕事から離脱。それ以降は新日本プロレスで仕事をしています。
 NOAHのジュニアヘビー級では最も実績を残した選手ですし,NOAHのジュニアヘビー級では最強の選手だったと僕は思っています。

 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は社会契約論を利用して国家Imperiumの成り立ちを説明しているので,必然的な帰結として強権的な国家が出現することになると僕は考えています。ただ國分は,このことは『神学・政治論』の中でも解決されていないわけではないと指摘しています。ただその指摘を検討してく前に,次のことをいっておきます。
                                   
 そもそもスピノザは,国家が強権的な力potentiaで市民Civesを支配する政治形態を,好ましいものと考えていません。むしろスピノザが『神学・政治論』を書いたのは,そのような統治形態を否定しようとするためでした。このことは『神学・政治論』の冒頭から明らかなのであって,そこでは,哲学する自由libertas philosophandiを認めても道徳心や国の平和paxは損なわれないし,むしろ哲学する自由を踏みにじることによって,国の平和や道徳心も必ず損なわれるということを示した論考から『神学・政治論』は書かれているという意味のことが書かれています。つまりスピノザは哲学する自由を守ろうとしたのであって,それは現実的に存在する人間が自由に思考する権利jusを守ろうとしているというのと同じです。この頃のオランダはそうした自由あるいは権利が危機に晒されつつあったから,あるいは現に晒されていたから,スピノザは『神学・政治論』を書いたのであって,強権的な国家の正当性を保証しようというような気はスピノザには少しもなかったのです。
 すでに示したように,『神学・政治論』の第十六章の冒頭で,スピノザは自然法lex naturalisに基づく自然権jus naturaeを考察しました。それは宗教religioについて考えるのであれ,国家について考えるのであれ,その前提として自然権を考察する必要があるとスピノザが考えていたからです。その後にスピノザは社会契約論を導入して国家の成り立ちを説明し,結果的にこの章の中で,強権的な国家が出現することを結論付けています。しかし國分は,スピノザはこの結論を出した後で,次の第十七章にかけて,契約pactumという概念notioの弁証法的な展開をしているといっています。この國分がいう契約の弁証法的展開によって,スピノザ自身が社会契約論からの帰結事項を覆そうとしているのだと國分はみているのです。そしてそのポイントをふたつあげています。
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農林水産大臣賞典帝王賞&社会契約論の帰結

2024-06-27 19:21:06 | 地方競馬
 昨晩の第47回帝王賞。マースインディは藤田凌騎手から笹川騎手に変更。
 ディクテオンは発馬後の加速が鈍く,発馬後の正面ではほかの馬たちから離されました。逃げたのはライトウォーリアで2番手にバーデンヴァイラーとキングズソード。4番手にグランブリッジとウィルソンテソーロ。6番手にサヨノネイチヤ。7番手にノットゥルノ。ディクテオンはその後ろまで追いついてきました。9番手にセラフィックコールとメイショウハリオ。3馬身差でトランセンデンスとヒロイックテイル。3馬身差の最後尾にマースインディ。前半の1000mは63秒8のミドルペース。
 3コーナーではライトウォーリアとバーデンヴァイラーが併走に。外を回って追ってきたのがキングズソードで内を回って追ってきたのがグランブリッジ。ウィルソンテソーロとノットゥルノがその後ろから。直線の入口では前の2頭の外を回ったキングズソードが単独の先頭に。ウィルソンテソーロが追って2番手に上がりましたが,この2頭の差は詰まらず,直線先頭のキングズソードが優勝。ウィルソンテソーロが1馬身4分の1差で2着。大外から追い込んできたディクテオンが1馬身差で3着。
 優勝したキングズソードJBCクラシック以来の勝利で大レース2勝目。そのときは重賞未勝利での優勝。その後の3戦は5着,5着,4着でしたが,大きく離されていたわけではありませんので,巻き返しは可能と思われました。思いのほかペースが上がらなかったので,先行したこの馬に有利になった面はあったと思います。距離も本来はもっとあってもいいというタイプなのかもしれません。母の父はキングヘイローアストニシメントエベレストの分枝で8つ上の全兄に2017年のプロキオンステークスを勝ったキングズガード
                                        
 騎乗した藤岡佑介騎手はフェブラリーステークス以来の大レース5勝目。帝王賞は初勝利。管理している寺島良調教師はJBCクラシック以来の大レース2勝目。

 ホッブズThomas Hobbesの社会契約論は,社会societasを構成する人びとが自らの意志voluntasで自然権jus naturaeを放棄し,それを社会に委ねることになっています。したがって社会が有する自然権は膨大で,社会を構成する人びとが有する自然権は皆無です。このために社会は社会を構成する人びとに対して,どのようなことでも命じる権利を有することになります。つまりホッブズの理論で社会が現実的に成立するとすれば,その社会はきわめて強権的な社会であることになります。
 スピノザの理論がこのような社会が成立することから逃れているのかといえば,そんなことはありません。これが問題として残されます。というのも,スピノザの考え方では自然権は放棄することができない権利ですから,社会を構成する人びとにもそっくりそのまま残されているでしょう。これはスピノザ自身が書簡五十でいっていることであり,スピノザはそこで間違ったことを伝えているわけではありません。しかし自然権が放棄できないものであるとすれば,社会というのは.その諸個人の権利をまとめて所持する人びとの集合体を意味し,かつ人びとはその権利の執行を社会に一任することになるのですから,その社会の権力はどのような法lexにも縛られないし,人びとはその権力に従わなければならないということになるでしょう。つまり出現する社会,これは国家Imperiumといってもいいですが,その現実は,ホッブズが示しているものとそう大差はない,もっといえばほぼ同じであることになります。
 スピノザのように自然権を放棄できないものと規定したとしても,結局のところ国家が至高の権力を有して,市民Civesに対してどのようなことでも命じることができるようになってしまうのは,僕の考えでいえば,社会契約論を引き継いだことによる必然的な帰結です。つまり,もしも社会契約論を用いて社会の成立を説明すると,社会契約論をどのような仕方で用いるとしても,必然的にnecessario強権的な社会が出現することになるのだと僕は考えます。スピノザは後の『国家論Tractatus Politicus』では,社会契約論をまったく使用せずに国家を説明していますが,それは,社会契約論を用いた説明の必然的な帰結を避けるためではなかったかと僕は考えています。
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カトリック批判&反復

2024-06-26 19:07:39 | 歌・小説
 『生き抜くためのドストエフスキー入門』の第二章は『白痴』です。『白痴』ではムイシュキン公爵がカトリックのことを激しく批判する場面があります。なぜムイシュキンがカトリックを批判しなければならなかったのかということを,佐藤が詳しく解説しています。
                                        
 『白痴』のムイシュキンによるカトリック批判の要旨は,カトリックは無神論よりも悪いというものです。そしてその理由としてムイシュキンがあげているのは,無神論はただ無を説くだけだけれども.カトリックは歪められた神を説くからだというものです。ムイシュキンによればローマカトリックは信仰ですらなく,西ローマ帝国の継続にすぎず,そのゆえに民衆の大部分は信仰を失い始めています。佐藤が説明しているのは,なぜムイシュキンがこのような仕方でカトリックを批判するのかという点です。
 佐藤はその理由を,ローマカトリックとロシア正教における神と人の関係の捉え方の相違にあるとしています。ごく簡単にいうと,ローマカトリックにおける救済というのは神から人間に対する一方的な恩寵であり,この恩寵はイエスを通して神から人間へと降りてきます。これに対してロシア正教では,人間が神になるということが究極の目標とされます。つまり現実的に存在する一人ひとりの人間がすべて神になることができるということが,ロシア正教の中心的な教義なのです。
 ここでムイシュキンが,ローマカトリックが西ローマ帝国の継続にすぎないといっている点も重要です。西ローマ帝国を継続しているのは,カトリックだけでなくプロテスタントも同様であるというようにロシア正教からはみえるからです。この部分ではムイシュキンはロシア正教をロシアの国家宗教とみていて,ロシアと一体化させています。この路線でいえばロシアは西ローマ帝国の継続ではなく,東ローマ帝国,ビザンチン帝国の後継帝国で,キリスト教的東洋なのです。つまりここには西洋と東洋の対立が含まれていて,この対立は現在まで続いているといえるでしょう。

 ホッブズThomas Hobbesの理論では,自然状態status naturalisは万人の万人に対する闘争状態であるから,その状態を回避するために,万人が自然権jus naturaeを放棄することによって社会契約を結ぶということになっています。したがってこの契約pactumは一回性のものであることになります。しかし,そのような社会契約が本当に存在したのかという疑問や,自然状態において万人がそのような契約を締結するのが可能なのかという疑問は出てきます。僕はそもそも自然状態などというものが存在しなかったと考えますから,ホッブズの理論が有益であるとすれば,社会societasの成立を理念的に説明するのに役立つというように解しますから,このような疑問を呈したりはしませんが,もしもホッブズの理論が,現実的に存在する社会の成立をそのまま説明するものであると解すれば,その社会契約論がこのような批判にさらされることになるのはごく当然のことだとは思います。
 このような批判が出てくるのは,そもそも自然権を放棄するということが不可能なのに,それを可能なものと前提しているからだというのは,ひとつの見解opinioとして出てくるでしょう。スピノザの国家論はその観点からホッブズの国家論を修正したものだといえます。このためにそこでは,ホッブズの社会契約が一回性のものであるのに対し,スピノザの社会契約はいわば反復されるものとして提示されることになります。つまり何らかの社会契約が締結されているということが,現にその社会契約が履行されているということによって保証されるというようになっています。そしてこのようにすれば,少なくともその社会契約を履行している人びとが,その社会契約を締結している集団,たとえば国家Imperiumの中で生きているという現実を説明することができるでしょう。少なくともホッブズの社会契約論は,集団たとえば国家の始原となるような,絶対的な起源の説明でしかないのに対し,スピノザが引き継いだ社会契約論が,そのようなもの,國分のことばを借りれば,神話的なものとなっていないことは理解できると思います。
 ただし,このような仕方で社会契約の理論を引き継いだとしても,なお解決しなければならない問題は確実に残ってしまうのです。
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中野カップレース&矛盾

2024-06-25 19:00:00 | 競輪
 久留米記念の決勝。並びは新山‐菅田‐阿部の北日本,松浦‐田尾の中四国,伊藤‐嘉永‐山崎の九州で森田は単騎。
 菅田と阿部がスタートを取りにいって新山の前受け。4番手に松浦,6番手に伊藤,最後尾に森田で周回。残り3周のバックから伊藤が前との車間を開け始めると,新山も誘導との車間を開けて対応。残り2周のホームに入って伊藤が発進すると新山も突っ張って先行争い。バックで外から伊藤が叩き,森田も4番手に続いて打鐘。5番手に新山,8番手に松浦という一列棒状に。ホームから松浦が発進していきましたが,前に届く前にバックで嘉永が番手捲り。このラインに続いていた森田が単騎で発進。嘉永と森田の競り合いは森田が制して前に。嘉永マークの山崎は森田にスイッチ。このあおりで追い上げてきた松浦が外に浮いてしまい,内に戻ろうとしたところで菅田と接触して菅田は落車。単独の先頭で直線に入ってきた森田を,スイッチした山崎が楽に差して優勝。森田が半車身差で2着。松浦マークから直線で伸びた田尾が4分の3車身差で3着。
 優勝した長崎の山崎賢人選手は昨年4月にいわき平のFⅠを優勝して以来の優勝。2018年の取手記念以来となる記念競輪2勝目。2018年というのはまだ新人選手賞の権利があった頃で,そのカテゴリーの選手が記念競輪を制するというのはなかなかの快挙なので将来に期待していました。その後は大きな実績を残せていなかったのですが,競技を中心に。今年の競輪の初出走がこの開催でしたから,競技に集中したことがプラスに作用したのではないかと思います。この開催のレースをみると,以前よりも器用に立ち回れるようになったという印象なので,また競輪でも注目できるのではないでしょうか。嘉永は展開は絶好でしたが,捲って出たときのスピードがいまひとつで,そこは課題でしょう。森田はいいレースをしたと思いますが,現状は力で山崎に及ばないということなのではないでしょうか。

 自然権jus naturaeを放棄するということと,自然権を自制するということが同じ意味になってしまっているということは,ホッブズThomas Hobbesの『リヴァイアサンLeviathan』における議論に該当させると,設立によるコモンウェルスと,獲得によるコモンウェルスとが混同しているということであると國分は指摘しています。僕はここではホッブズの国家論について考察するつもりはまったくありませんから,國分がそのように指摘しているという以上のことは何もいいません。それがホッブズの探求に照合させたときに妥当なものであるのかないのかということに関心がある場合は,ご自身でお考えになってください。いずれにしても,放棄することができない力potentiaを放棄せよということをホッブズがいっているのは事実なのであって,その点でホッブズの議論に曖昧さが残ってしまっているのは間違いありません。もし自然権に対して人びとがなし得ることが,その力の行使を自制するということだけだとなると,たとえ国家Imperiumが成立したとしても,その国家の成員が自然権を行使してしまう可能性が残ることになります。これはホッブズがいうところの自然状態status naturalisにほかならないのであって,国家の状態においても万人の万人に対する闘争状態が解消されていないことになります。
                                        
 ホッブズはこのことを恐れていて,スピノザはその矛盾を見逃さなかったと國分はいっています。ホッブズが自身の議論の曖昧さを恐れていたかどうかは何ともいえませんが,スピノザがそこに矛盾があることを見抜いたのはその通りだといえるでしょう。
 この矛盾から目を背けないということは,各人が自然権を放棄することはできないということを前提として国家論を構築するということです。ですからスピノザは,自然権に反することなく社会societasが作られることを目指します。いい換えればそれは,ホッブズが指摘したこと,すなわち法lexの概念notioと権利の概念を分けなければならないということに従いつつ,その概念をホッブズとは違った仕方で,國分のいい方に倣えばホッブズよりも上手に扱って,より整合的な解釈を提出することになるのです。
 このことによって最も影響を受けるのは,社会契約の概念であることになります。
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書簡十一&放棄

2024-06-24 19:07:48 | 哲学
 書簡十三は書簡十一への返信です。当然ながらこちらはオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに宛てられたもの。1663年4月3日付で遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                                        
 手紙の前半部分,というかこれは中心部分ですが,この部分はロバート・ボイルRobert Boyleからスピノザへの返事になっています。スピノザがオルデンブルクに宛てた書簡六の中で,スピノザはボイルに対して数々の疑問を投げ掛けていたのですが,それに対するボイルからの返信ということです。ただ,スピノザとボイルの間では,哲学的な立ち位置が異なりますので,この返信がスピノザを納得させられるものであったかどうかは疑問です。いくらボイルが自身の硝石に関する実験の正当性を主張したとしても,スピノザの中心的な関心はそこにあったわけではなかったと思われるのです。
 このことに関連してはこの部分の冒頭で,ボイルは硝石に関する哲学的な分析を試みることにあったわけではなく,スコラ学派で受け入れられている通俗的な学説が薄弱な基礎の上に立っているということと,諸物の間にある種差は部分の大きさ,運動motusと静止quies,位置に帰せられることを示すためであったといわれています。つまり,何か正しい哲学的分析の結論を出すということを意図しているわけではなく,単に現に受け入れられている哲学的基盤は,実際には基盤として怪しいということを示す意図であったということです。たぶん現に受け入れられている基盤が怪しいということはスピノザも同意すると思いますが,では実際の基盤が何かということはスピノザには明らかだと思えていたので,それを導こうとしないことには不満を抱いたのではないでしょうか。
 後半はオルデンブルクからスピノザに対する質問ですが,これはスピノザの著作が完成したかどうかを問うものにすぎません。この著作は『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』か『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』ですが,畠中はその両方を示しているという主旨の訳注を付しています。

 ホッブズThomas Hobbesがいう自然法lex naturalisは,社会契約という形で現実化されることになっています。この点に関しても,ホッブズがそれを理念的に考えていたのか,それとも人類の歴史が現にそういうものであったと解していたかは分かりません。僕はそもそもホッブズがいう自然状態status naturalisというのが人類の歴史の中で存在したと考えないので,これは理念的にしか解することができません。自然法はあるいは社会契約は,人間が自然状態を脱却するために現実化されるものですから,脱却するべき自然状態が存在しなかったのなら,そこから脱却するために社会契約を締結する必要性もなかったということになるからです。ただホッブズの政治理論では,あるいは国家論では,人びとは自らの意志voluntasで自然権を放棄して,共通の権力を設立するための契約pactumを結ぶということに,事実としてなっています。
 僕がそれをどのように解しているのかということから分かるように,たとえこれを理論的なものとだけ解するにしても,大きな難点を抱えています。この難点を國分は別の角度から説明しています。ホッブズがいう自然権が,どんなことでも行うことができる自由libertasであるというなら,この自然権は個々の人間に与えられている力potentiaそのものと解するほかありません。一方で自然法が教えているのは,この自然権を放棄することとなっています。ここで放棄するというのは,たとえば手にしている武器を捨てて使えないようにするという意味です。しかし,たとえば武器を捨てるのと同じように,自然権を捨てることができるのかといえば,そんなことができるわけがありません。武器と違って自然権は個々の人間に属する力のことだからです。武器は捨てることができますが,力は捨てることができません。できるとすれば,力を使用しないということ,すなわち自制するということだけです。
 ここから分かるように,ホッブズは実際には捨てることができないものを捨てるように自然法が命じているといっているのです。他面からいえば,力を自制するということを力を放棄するといっているのです。つまり自制と放棄を同じ意味で使用しているという点で,この論理には不徹底なところが残っています。
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宝塚記念&自然法

2024-06-23 19:11:25 | 中央競馬
 第65回宝塚記念
 好発はベラジオオペラで一旦は先頭に。しかし外からカラテが上がってくると控え,発馬後の正面のうちにカラテが先頭に。さらに外からルージュエヴァイユも上がってきて,1コーナーから2コーナーに掛けてカラテの前に出て,ここからはルージュエヴァイユの逃げに。こちらも外を進出してきたプラダリアが2番手となり,カラテ,ベラジオオペラの順に。2馬身差でヒートオンビートとディープボンド。1馬身半差でシュトルーヴェとジャスティンパレスとソールオリエンス。ローシャムパークを挟んでヤマニンサンバとドウデュースとブローザホーンが最後尾を併走。3コーナーでは先頭から最後尾までが7馬身くらいに凝縮するレースになりました。最初の1000mは61秒0の超スローペース。
 3コーナーからルージュエヴァイユから離れた外をプラダリア,向正面で掛かり気味に上昇していったローシャムパーク,外に出したベラジオオペラの3頭が併走。直線の入口ではルージュエヴァイユとプラダリアとベラジオオペラの3頭の雁行になり,ローシャムパークは4番手に。その外からブローザホーン。前の3頭の競り合いからはベラジオオペラが抜けて一旦先頭。大外からブローザホーンがそれを差して優勝。ベラジオオペラとブラダリアの競り合いの外から伸びたソールオリエンスが2馬身差で2着。一旦先頭のベラジオオペラがクビ差の3着でプラダリアがクビ差で4着。
 優勝したブローザホーンは日経新春杯以来の勝利で大レース初制覇。未勝利を勝つのに苦労した馬なのですが,1勝してからはきわめて安定した成績を残していて,日経新春杯を勝った後も阪神大賞典が3着,天皇賞(春)が2着と,大レースにも手が届きそうなところまで来ていました。どちらかといえば距離が長いところで活躍してきた馬ですから,各馬が外を回るような馬場状態になったことはプラスに作用したでしょう。ただ,スローペースで上りが早い競馬を突き抜けていますので,むしろこのくらいの距離の方が適性が高かったという可能性もありそうです。父はエピファネイア。母の父はデュランダル。6代母がパテントリークリアの4代母にあたる同一牝系。
 騎乗した菅原明良騎手はデビューから5年3ヶ月で大レース初勝利。管理している吉岡辰弥調教師は開業から4年3ヶ月で大レース初制覇。

 先走って僕のこれまでの考察に合わせて探求しましたが,國分はこのことについても詳しく説明しています。それもみていきます。
                                        
 スピノザはホッブズThomas Hobbesと自身の違いを,自然権jus naturaeに対する考え方として説明しています。この説明から分かるように,自然権という概念notioをホッブズも有していました。というか,自然権を権利の概念として最初に発見したのはホッブズであったといっていいでしょう。それをホッブズは端的に,どんなことでも行う自由libertasと規定しています。つまり現実的に存在するある人間が自然権を行使するというのは,その人間に自然Naturaが与えた力potentiaをその人間の思うがままに発揮する権利のことです。よってこの権利は社会societasの法lex制度の枠内に収まるものではありません。むしろそれを超過するでしょう。このためにホッブズは,法という概念と権利という概念を分けて考えなければならないと主張したのです。
 前もっていっておいたように,スピノザはこのホッブズの規定についてはそのまま引き継いでいるといって差し支えありません。差異が出てくるのはその先です。
 ホッブズは自然権が何らの規制も受けずに発揮される状態のことを自然状態status naturalisといいます。このような状態が人類の歴史の中で実際に存在したとは僕は考えませんし,ホッブズがそれをどう考えていたかも分かりませんが,とりあえず理念型としてそのような状態を拵えて,それを自然状態と規定したとここではいっておきます。ホッブズにとっての自然状態は,戦争状態と同じことを意味します。いわゆる万人の万人に対する闘争状態のことです。しかしこの状態は大きな矛盾を抱えています。というのも,第三部定理六のようなコナトゥスconatusをホッブズが現実的に存在する人間に対して認めるかどうかはともかく,現実的に存在する人間は自身の身の上の安全を第一に考えなければならないのに,自然状態はそれと大きく矛盾する状態,要するにだれもが自身を危険に晒している状態であるからです。このことから,現実的に存在する人間は,自身の安全のためにむしろ自然権を放棄しなければならないという考え方が出てくることになります。それをホッブズは自然権に対して自然法lex naturalisというのです。
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藤井聡太はどこまで強くなるのか&ふたつの意味

2024-06-22 20:36:18 | 将棋トピック
 『藤井聡太論 将棋の未来』を書いた谷川浩司が翌年に出版した藤井論が『藤井聡太はどこまで強くなるのか』です。こちらも前のものと同じく,講談社+@新書から出版されました。翌年といいましたが,前のものが2021年5月の出版で,こちらは2023年1月です。僕が翌年といったのは,谷川によるあとがきが,前者は2021年4月で後者は2022年12月になっているからです。
                                        
 こちらの本の副題は「名人への道」です。つまり藤井はまだ名人は獲得していません。このときは竜王,王位,叡王,王将,棋聖の五冠でした。順位戦はA級で,この後に挑戦者決定戦を制して挑戦権を獲得。名人を奪取することになるのはご承知の通り。名人奪取の前に棋王を獲得し,名人を奪取した後には王座も獲得。先日叡王を失陥しましたが,全冠制覇を達成しました。
 副題から分かるように,この本は名人戦に焦点を当てています。谷川は藤井が名人を獲得するまで,最年少で名人を獲得した棋士でした。この本が書かれている頃は藤井はA級で名人への挑戦権を争っていて,挑戦者になる可能性がありました。もしも挑戦して名人を奪取すると,谷川の最年少記録が更新されることになります。そういう時期であったからこそこうしたものが書かれる意義があったといえるでしょう。もちろん名人戦に焦点を当てているということは,谷川自身が戦った名人戦のことも書かれていますし,谷川以前の名人戦のこと,また谷川と藤井の間のことについても書かれています。
 一方,タイトルから分かるようにこれは藤井聡太論でもあります。ですから藤井はまだ名人にはなってなかったわけですが,藤井についても多くのことが書かれています。2021年4月に藤井聡太論を書き終えて,2022年12月にこちらが書き終わっているわけですから,谷川の藤井に対する見方が大きく変わっているわけではありませんが,いくらかの変化があります。また,第四章では藤井に勝つための戦略という観点からの記述があり,こちらは藤井に対抗しようとする棋士に焦点を当てたものとなっています。

 スピノザは書簡五十の冒頭で,ホッブズThomas Hobbesの国家論と自身の国家論の相違について,自然権jus naturaeという観点から説明していました。それは具体的には,ホッブズは自然権を国家Imperiumのうちにそのまま残していないけれど,スピノザはそれをそっくりそのまま残しているということです。自然権をそっくりそのまま国家においても残すということが何を意味しているのかということは,ここまでの國分の説明から明瞭になるでしょう。それは,自然権は人間に与えられている力potentiaと過不足なく重複しているので,国家においてもそれ自体でそれを制限することはできないし,それ以上のことを要求することもできないということです。つまりここにはふたつの意味が含まれているといえるでしょう。過不足ない力を不足させることもできないし増大させることもできないというふたつの意味です。
 たとえば陸の上を自由に歩き回ることができるひとりの人間と,水中を自由自在に泳ぎ回ることができる一匹の魚がいると仮定しましょう。社会societasの法lex制度は,その人間が歩き回る力をそれ自体で制限することはできません。もちろんそれを罰するということはできますし,一方でこの人間はそういう力を自然権として与えられているからといって常に歩き回るというものではありません。しかしこの力が与えられているのであれば,その力自体を制限することができないのです。また,この人間が魚のように自由に水中を泳ぎ回るような力を付与することはできません。法制度がそういう権利をその人間に与えるということは論理上はできますが,現実的にそのような力を与えることはできません。したがって,もしそうした権利を行使するようにその人間に要求するとすれば,それは無理なことを要求していることになります。なのでそうしたことを要求することは現実的にはできないということになります。
 ここではひとりの人間が陸の上を自由に歩き回ることができるという仮定で説明しましたが,現実的に存在する人間に与えられている力すなわち自然権は,いうまでもなくこれだけに留まるものではありません。そうしたすべての自然権あるいは力に,ここで説明したことがすべて妥当するのです。
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