スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

悪&第五部定理一

2025-03-01 15:30:25 | 哲学
 第四部六三系証明の内容から,第四部序言および第四部定義二において,なぜmalumが積極的には定義されず,善の否定という観点から定義されているのかということがよく理解できます。単純にいえば,僕たちは善bonumなるものについては十全に認識するcognoscereことが可能ですが,悪なるものについては十全に認識することができません。定義Definitioは定義されたものが十全に認識されることに資するのでなければなりません。ところが積極的に定義されるような悪を僕たちは十全に認識することができないのです。したがって悪は善の否定という観点からしか定義することができず,それを積極的に定義することはできないということになるのです。
                         
 もちろんこれは定義に関連することなのであって,僕たちは悪を十全に認識しないからといって悪を認識しないという意味ではありません。むしろ悪を混乱して認識するでしょう。このために第四部定理八では,悪は意識化された悲しみあるという主旨のことがいわれているのです。つまり僕たちは僕たち自身の悲しみを認識すれば悪を認識する,とくに僕たちに悲しみを齎すと表象するimaginariもののことを悪と認識するのであって,しかしこの認識は常に十全な認識ではあり得ないということなのです。
 したがって,実はスピノザは悪というのをふたつの観点から規定していることになります。ひとつが僕たちの悲しみそのものの認識cognitio,僕たちに悲しみを齎すものの認識で,これは常に混乱した認識です。したがって観念対象ideatumを十全に表現するexprimereわけではありません。これに対して,十全に認識された善を阻害するものとしての悪の認識は,その善の認識が十全な認識である限りにおいては十全な認識であるといわなければなりません。つまりこの意味においては悪は十全に認識されます。正確にいえば,善を否定するnegareものは十全に認識されるのです。
 悲しみの認識としての悪と,善の否定negatioとしての悪は,同じように悪といわれていますが,概念notioとしては峻別する必要があるかもしれません。

 このように考えれば,僕たちが受動感情から逃れることは,きわめて困難であることが理解できると思います。第五部定理三でいわれていることはその通りとしても,僕たちは受動感情に刺激されるafficiそのたびに,その感情affectusを明瞭判然と認識しなければ,その受動passioを停止することができないからです。とはいえ前もっていっておいたように,このことを繰り返していくことによって,受動から逃れ得ることをスピノザは否定していません。第五部定理一では次のように示されています。
 「思想および物の観念が精神の中で秩序づけられ・連結されるのにまったく相応して,身体の変状あるいは物の表象像は身体の中で秩序づけられ・連結される」。
 このことは第二部定理七により,事物の観念idemとその観念の対象の秩序Ordoと連結connexioが同一であることに注意すれば,わりと簡単に証明できます。この定理Propositioからして,事物の表象像imagoとその表象像の観念対象ideatumの秩序と連結は一致します。したがって僕たちが事物を表象するimaginariときには,僕たちの身体corpusの中で秩序づけられまた連結されているのと同一の様式で,僕たちの精神mensのうちにはその事物の表象像が発生しているのです。そこでもしも僕たちの精神のうちで,僕たちの精神を十全な原因causa adaequataとしてある事物の観念が秩序づけられまた連結されて発生するのであれば,それと同一の様式で僕たちの身体のうちでも,僕たちの身体を十全な原因として秩序づけられるしまた連結されることになるでしょう。よって僕たちが僕たちの精神を十全な原因として観念を秩序づければ,僕たちの身体がそれの表象像が発生するようには秩序づけたり連結しにくくなるのです。
 したがって,もしも僕たちの精神のうちにある表象像,たとえばXの表象像が発生するたびごとに,僕たちの精神がXを明瞭判然と認識するcognoscereという思惟作用を繰り返していけば,Xの観念は明瞭判然とした観念として僕たちの精神のうちで秩序づけられまた連結されますから,僕たちの身体もそれと同一の様式でXを秩序づけるようになります。かくしてXの表象像は,Xの明瞭判然とした観念へと置き換えられていくことになります。このようにすれば,受動は直ちに受動であることをやめます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

棋王戦コナミグループ杯&第四部定理一の意味

2025-02-28 10:34:47 | 将棋
 22日に北國新聞会館で指された第50期棋王戦五番勝負第二局。
 増田康宏八段に先手で角換わりを目指しましたが,☗2六歩保留型だったために後手の藤井聡太棋王が拒否して雁木。先手も雁木に構える将棋になりました。
                      
 ここで☗7五歩と打ったことにより大決戦に進みました。
 ☖同角☗同角☖同飛で角交換。そこで先手は☗5四歩と伸ばしました。
 後手は☖5七歩☗同金☖6五桂と反撃。☗同銀に☖4八角と飛車銀両取りをかけました。
                      
 このように進んで先手は苦しくなってしまいました。
 上図ではAbemaのAIは☗1五歩☖同歩☗1四歩というのを示していましたが,これは茫洋としていてどういう効果があるのかが分かりません。解説で有力とされていたのは☗4四歩で,☖同銀なら☗3四歩☖2五桂☗4五桂,☖同飛なら単に☗4五桂でしたが,これは先手は自信がなかったようです。ということで途中の☗5四歩と伸ばしたところで☗6六角と打ってしまう手があり,そちらを選択するべきだったという結論になりました。
 藤井棋王が連勝。第三局は来月2日に指される予定です。

 受動感情は明瞭判然と認識されれば受動passioであることをやめるのですが,それは当座限りであって,それでもう受動感情に刺激されるafficiことがなくなるわけではないのは,第四部定理一にあるように,明瞭判然とした認識cognitioはそれが明瞭判然であるということをもって,誤った観念idea falsaに含まれる積極的なものを除去することができないからです。この定理Propositioの意味は,ある人間の精神mens humanaのうちにあるXの真の観念idea veraは,同じ人間の精神のうちにあるXの誤った観念を除去することはできないということであり,したがって同じ人間の精神のうちに,Xの真の観念とXの誤った観念が同時に存在する場合があるということですが,これは第一の意味であって,ある人間の精神のうちにXの真の観念があるからといって,その人間がXの誤った観念を形成するという場合もあるという,第二の意味も含みます。この定理に後者の意味も含まれるということはかつて考察してありますから,ここでそれを繰り返すことはしません。したがって,ある人間の精神のうちにあるXの真の観念は,同じ人間の精神のうちに現在するXの誤った観念を除去することはできず,また同じ人間の精神のうちにXの誤った観念が発生することを防ぐこともできないのです。
 したがって,Xの誤った観念,吉田が示している例だと菊の花の表象像imagoがそれに該当しますが,このXの誤った観念がそれを認識するcognoscere人間のうちである感情affectusと結びついているとき,Xの真の観念は,その限りでその感情を受動であることをやめさせることができるのですが,それはXの誤った観念と受動感情の結びつきを破壊するという意味ではありません。むしろこの人間は,Xの誤った観念を形成するならその受動感情に刺激されることになりますし,かつXの真の観念はXの誤った観念の発生を防ぐこともできないので,Xの真の観念を有した後もこの人間はXの誤った観念を形成する場合があるのであって,そのときにはその誤った観念と結びついている受動感情に刺激されることになるのです。かくして第四部定理六にあるように,こうした受動感情は執拗に人間につきまとうことになります。人間がXを真に認識するpotentiaを上回っているからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読売新聞社杯全日本選抜競輪&悲しみの消失

2025-02-27 10:23:41 | 競輪
 24日に豊橋競輪場で行われた第40回全日本選抜競輪の決勝。並びは真杉‐吉田の関東,寺崎‐脇本の福井に三谷,古性‐南の大阪に村田で深谷は単騎。
 古性,吉田,寺崎がスタートを取りにいき,誘導の後ろに入ったのは吉田。真杉の前受けとなり,3番手に寺崎,6番手に古性,最後尾に深谷で周回。残り3周のバックに入って古性が上昇開始。残り2周のホームで真杉を叩きにいきましたが,真杉が突っ張りました。古性は吉田の後ろに入り,6番手に寺崎,最後尾に深谷で打鐘。直後に深谷がインから上昇。ホームで寺崎をどかして6番手に入りました。ホームから吉田は真杉との車間を開け始めました。バックに入って寺崎が発進。古性も出ると吉田も番手捲りを敢行。古性は吉田にスイッチしましたが,外の寺崎の勢いがよく,最終コーナーでは前を捲ろうかという態勢。早めに寺崎の外に出していた脇本も踏み込み,捲った寺崎を差して優勝。寺崎が1車身半差で2着で福井のワンツー。やや踏み遅れる形になった深谷が4分の3車輪差で3着。
                            
 優勝した福井の脇本雄太選手は競輪祭以来の優勝でビッグは11勝目。GⅠは9勝目。全日本選抜競輪は初優勝。豊橋では一昨年1月の記念競輪を優勝しています。このレースは寺崎の出方がひとつの注目点でしたが,後ろを引き出すのではなく自身の優勝を目指すというレースに。真杉と古性で先行争いをするのは意外でしたが,これがあったために展開は絶好となりました。1車身半の差がついたのは,脇本が早い段階から踏み込んだためだと思います。

 現在の考察と直接的に関連するわけではないのですが,これはスピノザの哲学のほかの部分と重要な関連をもちますので,その点も考察します。
 第五部定理三では,受動感情Affectus,qui passioはそれについて明瞭判然とした観念ideaが形成されれば,受動であることをやめるといわれています。したがってここで示した例でいえば,菊の花を表象するimaginariと悲しみtristitiaを感じるということが,菊の花の表象像imagoが大切な人の葬儀の表象像と結びついているから悲しみを感じるのだということを,悲しみを感じている当人が明瞭判然と把握すれば,この悲しみは受動感情であることをやめるのです。もっとも,第三部定理五九により,悲しみは必ず受動感情なので,悲しみが受動感情であるということをやめるということは,悲しみが消失するという意味にほかなりません。
 このことはその通りですが,これはこの場合にのみ成立します。つまり,悲しみを実際に感じているときに,その悲しみは,菊の花の表象像が葬儀の表象像と自分の精神mensのうちで結びついているということを明瞭判然と認識するcognoscere限りにおいて,その悲しみが受動であることをやめる,いい換えれば悲しみが消滅するということであって,それを明瞭判然と認識したからといって,菊の花を表象しなくなるというわけではありませんし,菊の花と葬儀の表象像の連結connexioが解除されるというものでもありません。したがってこの人が後にまた菊の花を表象することがあったとしたら,そのときはまたその人は悲しみを感じることになります。ただその悲しみもまた,菊の花の表象像が葬儀の表象像と結びついていることを明瞭判然と認識することによって,悲しみであることをやめるというまでです。
 もちろんこうしたことが繰り返されることによって,いずれは菊の花を表象しても悲しみを感じなくなるということはあり得るかもしれませんが,こうしたことは単に時間tempusの経過とともに生じることもあるわけですから,そこに特別の意味を見出す必要はないでしょう。葬儀から時間が経過すればするほど,感じる悲しみが軽減していくということは,僕たちが経験的に知っているところであり,このことについて深く説明する必要はないと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ユングフラウ賞&連想

2025-02-26 11:40:06 | 地方競馬
 24日に行われた桜花賞トライアルの第17回ユングフラウ賞
 前にいこうとしたのはツウエンティフォー,ゼロアワー,リヴェルベロ,エスカティアの4頭。最内のツウエンティフォーがハナを奪い1馬身半くらいのリードに。リヴェルベロが単独の2番手となり,ゼロアワーとエスカティアが3番手で併走。プラウドフレールが5番手でパトリオットゲームが6番手。この後ろをモンゲーキララ,フリーダム,ウィルシャインの3頭で併走。3馬身差でナーヴィスゼーダとアメストリスが並び最後尾にサティスファイア。最初の600mは36秒9のミドルペース。
 直線の入口ではツウエンティフォーとリヴェルベロが併走となりその後ろがエスカティアとプラウドフレール。この中でプラウドフレールの勢いがよく,すぐに先頭に立つと抜け出して快勝。前を捌けず遅れて追い出されたゼロアワーが逃げ粘るツウエンティフォーを差して1馬身半差で2着。逃げたツウエンティフォーが4分の3馬身差で3着。
 優勝したプラウドフレール東京2歳優駿牝馬からの連勝で南関東重賞2勝目。東京2歳優駿牝馬,ユングフラウ賞と連勝したわけですから,桜花賞は最有力候補でしょう。ただこのレースは外枠からスムーズにレースを進められたのに対し,ゼロアワーは苦労していましたから,逆転の可能性もある程度はあると思われます。母の父はネオユニヴァース。4つ上の半兄が一昨年昨年のフジノウェーブ記念を連覇している現役のギャルダルでひとつ上の半姉が一昨年のローレル賞を勝っている現役のミスカッレーラ。Fleurはフランス語で花。
 騎乗した船橋の張田昂騎手は川崎マイラーズ以来の南関東重賞9勝目。第14回以来となる3年ぶりのユングフラウ賞2勝目。管理している船橋の川島正一調教師は南関東重賞36勝目。ユングフラウ賞は初勝利。

 自身の感情affectusの真の原因causaが自身にも分からなくなってしまうようなことが生じる要因を,スピノザはふたつの法則が働くからだといっていると吉田は指摘しています。ふたつの法則のうちのひとつが模倣imitatioで,もうひとつが連想associtatioです。ここでは感情の模倣imitatio affectuumを考察の中心として取り上げたいのですが,吉田は連想を先に考察していますので,それをみておきましょう。なお,僕が事前に感情の要因が現実的に存在する人間においては複雑になるということを示した部分は,この連想の方と大きな関係を有しています。というのは現実的に存在する人間がある表象像imagoから別の表象像へと移行することは,連想そのものといっていいからです。つまりこのことについては僕はすでに僕の仕方で説明したのですが,それを吉田がどう探究しているかを確認するということになります。
                            
 吉田は連想がある感情と結びつくメカニズムを,本来は現実的に存在する人間が刺激された感情と無関係である筈の事物が,たまたまその感情に刺激されたときにそこに現実的に存在した,あるいはそのように表象されたということによって,いってみれば巻き添えのような形で,その感情の原因となってしまう場合として説明しています。これは僕の説明とは異なった事例といえるでしょう。吉田が具体例として指摘しているのは以下のようなものです。
 ある人間がだれか大切な人を亡くしてしまい悲嘆にくれているとき,葬儀で大量の菊の花を目撃したとします。この菊の花とこの人の悲しみtristitiaは,本来的にはまったく関係がないといわなければなりません。しかしこの人はこれ以降,菊の花を表象するimaginariたびごとに,深い悲しみを感じるということがあり得ます。これはこの人の中で,菊の花の表象像が,大切な人の葬儀の表象像と連結したからで,菊の花を見ると葬儀のことを連想し,それで悲しみを感じるというメカニズムが働くようになるからです。これはごく簡単なメカニズムですから,その当人が菊の花を表象することによって悲しみを感じることがなぜなかが分からないというほどではないでしょう。しかし菊の花はたまたま葬儀のときに表象されただけですから,連想であることに違いはありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中日新聞杯かきつばた記念&複雑な原因

2025-02-25 10:05:58 | 地方競馬
 昨日の第27回かきつばた記念
 先手を奪ったのはエートラックス。ロードフォンスとシャマルが2番手でサントノーレとペイシャエスが4番手。6番手のサンライズホークまでが集団。2馬身差差でサヴァ。マスクトライとメルトが並んで追走し,6馬身差の最後尾にセイヴァリアントで発馬後の正面を通過。ミドルペースでした。
 向正面で内からロードフォンスが上がっていくと外からシャマルも応戦。3コーナーで逃げたエートラックスを間に挟んで3頭が併走になりましたが,エートラックスに挟まれる不利があったようで後退。ロードフォンスのさらに内からサンライズホークが追い上げてきました。サンライズホーク,ロードフォンス,シャマルの競り合いからはシャマルが脱落。2頭はフィニッシュまで競り合い,外のロードフォンスが制して優勝。サンライズホークがクビ差で2着。シャマルのさらに外から追い込んできたペイシャエスがクビ差の3着でシャマルは1馬身半差の4着。
 優勝したロードフォンスは重賞初制覇。重賞初挑戦だった前走の根岸ステークスは離されたとはいえフェブラリーステークスを勝ったコスタノヴァの2着。前々走はオープンを勝っていたこともあり,実績馬を差しおいて1番人気の支持を集めていました。快勝とはいきませんでしたが,初めてとなる小回りコースに対応できたのは大きく,今後の展望が広がりそうです。父はロードカナロア。母の父はダイワメジャー
 騎乗した横山和生騎手と管理している安田翔伍調教師はかきつばた記念初勝利。

 表象像imagoの連結connexioは『エチカ』の中でいくつかの仕方で説明されているのですが,ここでは考察の便宜上,感情の模倣imitatio affectuumとはあまり関係を有さない部分として,第二部定理一八備考を援用しておきましょう。
                       
 この備考Scholiumでいわれている様式によって,現実的に存在する人間の表象像は,Aの表象像からBの表象像へ,そしてまたCの表象像へと次から次へと移り変わっていくことになります。このような仕方でたとえば最後にDの表象像に至ったとして,そのDを表象するimaginariことによって何らかの感情affectus,たとえばXという感情に刺激されたとしましょう。この人間がXという感情に刺激されるafficiのは,Dを表象したからです。なのでXの感情に対してDの表象像だけがその人間の中で原因causaを構成しているかといえば,必ずしもそうはいえないことは明白でしょう。なぜならこの人間がXという感情に刺激されたのは,いい換えればDを表象したのは,まず最初にAを表象したからであり,そのAの表象像から次々と表象像が移行し,最終的にDの表象像に至ったからだといえるからです。なので,たとえこの人間が最初にAを表象したときにはXという感情には刺激されていなかったとしても,もっと分かりやすく何の感情に刺激されていなかったとしても,Aの表象像はこの人間がXという感情に刺激されるときの原因である,少なくとも原因の一部を構成しているということができるでしょう。そしてこのことは,AからDへと至る間のすべての表象像にも妥当するでしょう。このようなわけで,単一の表象像がある定まった感情の原因であるという場合よりも,複数の表象像がひとつの感情の原因を構成するということが,現実的に存在する人間の場合には多くなるのです。僕が第二部自然学②要請三を原理的説明の主要部分であるといったのはこのような意味においてです。
 それでは吉田の探究に戻ります。
 実際の現実的に存在する人間の感情というのは,ひとつの原因に絞れるものではなく,僕が示したようなもっと複雑な原因が錯綜しているのであって,あまりにも錯綜しているため,感情に刺激されている当人にも,本当の原因が分からなくなってしまうということがあり得ます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェブラリーステークス&原理的説明

2025-02-24 10:19:26 | 地方競馬
 高知から1頭が遠征してきた昨日の第42回フェブラリーステークス
 逃げたのはミトノオー。ウィリアムバローズ,サンデーファンデー,アンモシエラ,デルマソトガケの順で差がなく続き,押さえながらミッキーファイト。さらにエンペラーワケアとコスタノヴァ。さらにペプチドナイル,ドゥラエレーデがいてタガノビューティーとガイアフォース。さらにサンライズジパングとヘリオス。メイショウハリオまでの15頭は集団。アーテルアストレアだけが3馬身ほど離されました。最初の800mは47秒2のミドルペース。
 直線の入口ではミトノオー,ウィリアムバローズ,サンデーファンデーで雁行。ここから直線で前に出たのはサンデーファンデーでしたが,すぐに外からコスタノヴァが先頭に。コスタノヴァを追ってきたのは内からサンライズジパングとエンペラーワケアで外からミッキーファイトとペプチドナイル。しかし4頭ともコスタノヴァには追いつくことができず,優勝はコスタノヴァ。最内のサンライズジパングが4分の3馬身差で2着。ミッキーファイトが1馬身4分の1差の3着で大外のペプチドナイルがクビ差で4着。エンペラーワケアが半馬身差で5着。
 優勝したコスタノヴァは根岸ステークスから連勝で大レース初制覇。このレースはチャンピオンズカップからの直行組か前哨戦の勝ち馬が強いレースで,その傾向に合致していました。とくに東京コースの実績が豊富でこれで6戦して6勝。今後が楽しみな馬ではありますが,距離やコースも含めて出走するレースの選択はやや難しいところがあるかもしれません。父はロードカナロア。母の父はハーツクライ。母の5つ上の半兄に2012年に佐賀記念浦和記念を勝ったピイラニハイウェイ
 騎乗したオーストラリアのレイチェル・キング騎手は日本での大レース初制覇。管理している木村哲也調教師は有馬記念以来の大レース13勝目。フェブラリーステークスは初勝利。

 吉田の講義はそのまま本論に入っていますので,ここは僕の方から補足の説明を入れておきます。
                        
 僕たちが何らかの感情affectusを抱くときに,その原因causaが単純ではなく複雑なものになることの要因を原理的に説明するのは,第二部自然学②要請三です。これにより,僕たちの身体corpusが,多様な物体corpusから多様の仕方で刺激を受けるafficiことが理解できます。
 第二部定理一七は,僕たちが外部の物体から刺激を受けると,その物体の表象像imagoが僕たちの精神mensのうちに生じることを示しています。したがってこれらを合わせると,僕たちの精神のうちには多種多様な物体の表象像が生じることになります。
 第二部公理三の意味は,僕たちの精神のうちに生じる思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念ideaであり,観念を肯定したり否定したりする意志作用volitioであるということです。したがって,僕たちの精神のうちに何らかの表象像が生じたからといって,僕たちは必ず何らかの感情に刺激されるafficiというものではありません。このことは第三部要請一から明らかだといわなければなりません。ただ,思惟の様態のうち第一のものが表象像をはじめとする観念である以上,感情もまた第三部定義三により思惟の様態としてみることができるわけですから,僕たちは表象像を形成すればするほど,何らかの感情に刺激されることもそれだけ増えていくことになります。そして僕たちは現に多種多様な物体の表象像を形成するわけですから,僕たちが何らかの感情に刺激される割合は非常に高くなっているといえます。
 第二部定理一七は,ある表象像は別の表象像が出現すると排除されるということも意味しています。したがってAの表象像はBの表象像が僕たちの精神のうちに生じれば除去されることになります。そこでこのときに,Aの表象像からはXという感情に刺激され,Bの表象像からはYの感情に刺激されるという具合に,各々の表象像がある特定の感情に関連付けられているとすれば,僕が原理的といった方法によってすべての感情の発生を説明することができることになります。ところが事情はそのようになっていないのです。というのは,表象像と別の表象像が関連付けられることがあるからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サウジカップデー&感情の原因

2025-02-23 14:53:06 | 海外競馬
 日本時間で昨日の夜から今日の未明にかけてサウジアラビアのキングアブドゥルアジーズ競馬場で開催されたサウジカップデー。18頭の日本馬が遠征しましたので,結果だけ簡略化して紹介します。
 サウジダービーGⅢダート1600m。逃げたシンフォーエバーが残り100mまで先頭という見せ場を作って2着。3番手から進めたミストレスが4着。2番手につけたミリアッドラヴは7着。
 リヤドダートスプリントGⅡダート1200m。勝った内の馬と並ぶように逃げる形になったジャスパークローネが9着。残る4頭は後方からのレースとなり,追い込んだガビーズシスターが3着。リメイクは7着でチカッパが10着。立ち上がるような発馬になったイグナイターは11着。
 ネオムターフカップGⅡ芝2100m。逃げたシンエンペラーが逃げ切って優勝。3番手の外にいたキラーアビリティは10着。
 優勝したシンエンペラーはラジオNIKKEI杯2歳ステークス以来の勝利で重賞2勝目。日本馬による海外重賞制覇はコリアカップ以来。サウジアラビアでは昨年のリヤドダートスプリント以来。ネオムターフカップは2022年以来。騎乗した坂井瑠星騎手は昨年のUAEダービー以来の海外重賞5勝目。ネオムターフカップは初勝利。管理している矢作芳人調教師は昨年のUAEダービー以来の海外重賞15勝目。ネオムターフカップは初勝利。
 1351ターフスプリントGⅡ芝1351m。ウインマーベルが逃げ,2列目から進めて内を回ったアスコリピチェーノが直線の入口で2番手に上がると2頭の優勝争い。僅かに差し切ったアスコリピチェーノが優勝でウインマーベルが2着。後方の位置取りだったテンハッピーローズは7着。
 優勝したアスコリピチェーノは京成杯オータムハンデキャップ以来の重賞4勝目。父はダイワメジャー。母のひとつ下の半妹に2015年のローズステークスを勝ったタッチングスピーチ。Ascoli Picenoはイタリアの都市。日本馬による1351ターフスプリントの勝利は2023年以来。騎乗したクリストフ・ルメール騎手は一昨年のドバイシーマクラシック以来の日本馬に騎乗しての海外重賞11勝目。管理している黒岩陽一調教師は海外重賞初制覇。
 レッドシーターフハンデキャップGⅡ芝3000m。最後尾から進めたビザンチンドリームは漸進。直線で外にもち出すとあっという間に先頭に立ち,そのまま優勝。
 優勝したビザンチンドリームはきさらぎ賞以来の重賞2勝目。父はエピファネイア。母の父はジャングルポケット。4代母がラスティックベルで3代母が1999年のシンザン記念と桜花賞トライアルの4歳牝馬特別,2000年のダービー卿チャレンジトロフィーとマーメイドステークスを勝ったフサイチエアデール。日本馬によるレッドシーターフハンデキャップの勝利は2023年以来。騎乗したイギリスのオイシン・マーフィー騎手は2021年のブリーダーズカップディスタフ以来の日本馬に騎乗しての海外重賞3勝目。管理している坂口智康調教師は海外重賞初勝利。
 サウジカップGⅠダート1800m。フォーエバーヤングが先行集団,ラムジェットが好位集団,ウィルソンテソーロが中団でウシュバテソーロは最後尾から。最終コーナーで外から5頭目を進んだ香港のロマンチックウォリアーが捲り切って直線入口では先頭。ふつうは先行馬総崩れで圧勝となるところでしたが,フォーエバーヤングだけはそれほど離されずにまた差を詰めていき,残り50mを過ぎてから差して優勝。ウシュバテソーロが前の2頭からは10馬身以上離されましたが3着でウィルソンテソーロが4着。ラムジェットは6着。
                       
 優勝したフォーエバーヤング東京大賞典からの連勝で大レース4勝目。父はリアルスティール。ひとつ下の半妹が昨年のアルテミスステークスを勝っている現役のブラウンラチェットで3代母がローミンレイチェル。日本馬による海外GⅠ制覇は一昨年のドバイワールドカップ以来。日本馬によるサウジカップ制覇は2023年以来。騎乗した坂井瑠星騎手は東京大賞典以来の大レース14勝目。海外重賞6勝目で海外GⅠは初勝利。管理している矢作芳人調教師は東京大賞典以来の大レース28勝目。海外GⅠは一昨年のサウジカップ以来の9勝目でサウジカップは2年ぶりの2勝目。

 不安metusという訳に関連することはここまでにして,感情の模倣imitatio affectuumに関する探究を始めます。
 第一部公理三でいわれていることは,全自然に共通です。感情affectusは第三部定義三でいわれているように,人間の身体humanum corpusのある状態とその状態の観念ideaの両方を意味する,スピノザの哲学においては特殊な語です。それが身体の状態であるなら延長の属性Extensionis attributumの下で考えられる事象ですが,その観念ということになれば思惟の属性Cogitationis attributumの下で考えられる事象であることになるからです。しかし第一部公理三が全自然に共通といわれるとき,それは延長の属性の下でのみ成立するということではなく,思惟の属性の下でも成立するということを意味します。スピノザは自然Naturaということで延長の属性に属するもののことだけを意味させようとする場合もあるのですが,僕がこのブログで自然というときは,必ず思惟の属性に属するもののことも含めているのです。
 したがって,感情というのは延長の様態modusとしてみられようと思惟の様態cogitandi modiとしてみられようと,何らかの原因causaが与えられて僕たちのうちに生じるということは変わりありません。そこでもしも,僕たちがあるものを表象するimaginariことによって何らかの喜びlaetitiaを感じるということがあったとしたら,僕たちの喜びの原因はそのものを表象したというそのこと自体にあるということになり,その表象像imagoという観念の対象ideatumとなっているものは僕たちに喜びを齎す外部の原因として認識されることになり,僕たちはそれに愛amorという感情を有するようになることになります。これは第三部諸感情の定義六を参照してください。
 しかしこの説明は,僕たちのうちにある感情が発生するということを原理的に説明するためのものです。もちろんこういう説明のされ方によって僕たちのうちに喜びや愛といった諸々の感情が発生するということがないというわけではありませんが,それはごく一部なのです。むしろ僕たちの感情の原因というのは,この原理的な説明にあるような,単一の単純なものであるということは稀なのであって,ほとんどの感情の原因というのはもっと複雑なものであって,そうした複雑な諸々の要素が同時的に原因を構成し,僕たちの感情が発生します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大山名人杯倉敷藤花戦&恐怖と希望

2025-02-22 11:55:02 | 将棋
 19日に指された第32期倉敷藤花戦三番勝負第一局。対戦成績は福間香奈倉敷藤花が30勝,伊藤沙恵女流四段が11勝。
 振駒で福間倉敷藤花の先手となり,5筋位取り中飛車。後手の伊藤女流四段が向飛車にして相振飛車。先手が左玉から6筋の位も取るという力戦になりました。
                          
 ここで☖5三金と上がりました。先手の玉頭から攻めようという目論み。察知した先手は☗5八王と引きました。
 手の流れからは☖6四歩と突くのでなければならないのですが,それが無理ということで☖6一飛と回りました。ただそのために先に先手から☗8五歩と攻められ,苦戦を招きました。
 図では☖2四歩と突いて2筋の突破を目指していくのがよかったようです。突破できるわけではないのですが,受けるためには先手は☗3六歩から桂馬を跳ねて☗2九飛と回らざるを得ず,8筋からの攻めを緩和できる上に角筋も通っていて,後手も戦えたようです。
 福間倉敷藤花が先勝。第二局は来月25日に指される予定です。

 第三部諸感情の定義一三感情affectusは,それ自体でみられるときは不安metusと訳されるより恐怖metusと訳される方がよいので,畠中が恐怖という訳を選択していることにも一理あります。ただこの場合はとくに第三部諸感情の定義一三説明でいわれていることに注意しなければならないのであって,この恐怖は単に希望の反対感情であるばかりでなく,常に希望spesという感情とともに同じ人間の精神mens humanaのうちにあるのです。
 僕が示した例でいえば,死の恐怖に怯えている人間の精神のうちに希望が同時に存在するというようには考えにくいのではないかと思います。しかし実際はそうではなく,死が不確かなものである以上はそこに希望が存在しているのです。これは,もし死が確実視されるものとして表象される場合は,その感情は恐怖,僕や吉田の訳でいえば不安といわれるのではなく,第三部諸感情の定義一五の絶望desperatioに該当するということに注意すれば分かりやすいでしょう。不確かな死への恐怖に怯えている人間のうちには,希望,生きることへの希望が同時に存在しているのです。他面からいえば,人間は生きることへの希望を有しているから,死への恐怖に怯えることができるということになるのです。
 これは僕が糖尿病を発症し,救急車で病院へ運ばれる前に自宅でほぼ寝たきりの状態になっていたときにもいったことですが,『悪霊』のキリーロフの自殺を例示したときにいったことを想起すればよく分かると思います。キリーロフの自殺はキリーロフ自身の人神思想に由来しているのであり,その人神思想によれば,死の恐怖を克服した人間が神になることができるのです。キリーロフは自身が死への恐怖を克服した,すなわち神になることができる人間であるということを証明するために自殺したのです。しかしそれは,キリーロフの中に生きることへの希望がなかったということを意味するのであって,生への希望を失っている人間が自殺することは,是非は別として凡庸なことだと僕には思えます。自身が生きていくことへの希望をいっかな失ってしまっている人間が,どうして自分の死に怯えることができるでしょうか。
 このように,恐怖は常に希望とともにあるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リコー杯女流王座戦&恐怖

2025-02-21 11:58:58 | 将棋
 17日に指された第14期女流王座戦五番勝負第二局。
 西山朋佳女流三冠が先手で居飛車を選択。後手の福間香奈女流王座のごきげん中飛車で①-Aに。中盤で先手にうっかりがあり,大差になってしまう将棋でした。
                           
 先手が2三に銀を打ち,後手が4四の銀を引いた局面。先手の☗2三銀では☗1五銀と打つ方がよかったようです。
 先手はここで☗4五銀と出ました。☗2三銀からの流れとしては当然なのですが後手に☖8四飛と回る返し技がありました。
 ☗3四銀引成としたものの☖7六銀が炸裂。☗同歩☖8八角成☗同玉☖5五角で王手飛車が決まりました。
                           
 この順をうっかりしていたので☗2三銀だったので,事実上の敗着はそこにあったといえるでしょう。
 福間女流王座が連勝。第三局は来月5日に指される予定です。

 僕が第三部諸感情の定義一三で示されている感情affectusを不安metusと訳しているのはこのような理由です。一方,吉田も不安と訳しているわけですが,その理由は説明されていません。もっともこれは講義がベースとなっているわけで,講義の教科書として岩波文庫版の『エチカ』が使われているわけではありません。ですから聴講生が岩波文庫版では恐怖metusという訳が与えられているということを知っているということが前提となっていないので,吉田が講義の中でその理由を説明していないのは当然であって,むしろ説明した方が不自然だといわなければなりません。ただ,吉田が岩波文庫版の訳を知らないということはあり得ないですから,それと異なった訳を与えていることに理由がないということもないでしょう。そしてそれを推測すれば,僕が示したような理由とそう大きな差はないだろうと思われます。
 一方,畠中は不安ではなく恐怖という訳を与えたわけですが,ラテン語の原語が日本語としてどのような意味に該当するのかということを別にしても,この感情に恐怖という訳を与えていることに理由がないわけではないと僕は考えています。というのも,僕が説明した不安という感情が『エチカ』で有しているような特別の事情というのを考慮せず,この感情をただこの感情して,つまり不確かな過去や未来と関係するような悲しみtristitiaとしてみた場合には,この感情は不安といわれなくもないのですが,恐怖といわれるのが常であるということができるからです。たとえば僕たちが不確かな未来に関する何らかの悲しみ,分かりやすいところで僕たちが死んでしまうということに関するような悲しみは,死への不安といっても成立しないことはないですが,死への恐怖といわれるのが常であるといえるでしょうし,この感情そのものに着目した場合には,その人間が自分の死に不安を感じているというより,自分の死に恐怖を感じているといった方が,ことばとしてはその人間の心情を正しく説明しているといえるでしょう。なのでこの感情は,その感情自体を注視する場合には不安と訳すよりも恐怖と訳した方が適切なのであって,畠中が何か過ちを犯しているというわけではありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウィンチケットミッドナイト&不安

2025-02-20 12:16:44 | 競輪
 小松島競輪場で行われた昨晩のウィンチケットミッドナイトの決勝。並びは新田に松坂,鈴木‐金子‐佐藤の関東,久田‐島川の徳島。
 新田,鈴木,島川の3人がスタートを取りにいきました。枠順通り,新田が誘導の後ろに入って前受け。3番手に鈴木,6番手に久田で周回。残り3周のバックを通過した後のコーナーから久田が上昇。残り2周のホームに入って新田を叩きました。鈴木がこのラインに続き,一時的に内の新田と外の新田が島川の後ろで併走。バックに入ってから新田が引き,3番手に鈴木,6番手に新田の一列棒状となって打鐘。バックから新田が発進すると鈴木も合わせて出てさらに番手の島川も発進。鈴木の番手の金子が新田を牽制したので新田は内に進路変更。直線は島川と鈴木,その間を突いた新田と鈴木マークから外を追い込んだ金子の争い。鈴木が制して優勝。新田が4分の3車輪差で2着。金子が4分の1車輪差の3着で島川が半車輪差で4着。
 優勝した東京の鈴木竜士選手は2017年のヤンググランプリ以来のグレードレース2勝目。この開催は全日本選抜競輪に出場しない選手での開催で,そうであれば新田が実績からも脚力からも圧倒的上位で,本来ならば優勝しなければいけないメンバー構成でした。新田のミスはおそらく一時的に併走となってしまったところで,即座に引いておくべきだったでしょう。そのミスを鈴木がうまくついたということだと思います。

 『スピノザ 人間の自由の哲学』に関連する考察はこれが最後になります。これは第一二回の中の感情の模倣imitatio affectuumに関連する部分なのですが,その前に,同じ一二回の中で,吉田が第三部諸感情の定義一三で示されている感情affectusに対し,不安metusという訳語を与えていますので,この点について僕の考え方を改めて説明していきます。
                            
 岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,この感情に恐怖metusという訳語を与えています。しかし僕はこのブログの開設時から一貫して,不安という訳語をあててきました。吉田のような有識者が僕と同じ訳語を選択したことは,僕は心強く感じます。
 僕がこの感情を不安というのは,この感情が第三部諸感情の定義一二の希望spesの反対感情に該当するからです。希望の反対感情であるなら,それは恐怖といわれるより不安といわれる方が,日本語として適切だろうというのが僕の見解opinioなのです。しかもそれだけではありません。希望と不安は単に反対感情であるというだけでなく,第三部諸感情の定義一三説明でいわれているように,必ず現実的に存在する同じ人間のうちに,ともに存在する感情なのです。つまりもしもある人間が希望を感じているのであればその人間はその事柄に関して不安も感じているのですし,もしもある人間が何らかの不安を感じているときには,その人間はその事柄に対する希望も抱いているのです。このように希望と不安は,単に反対感情というだけではない特殊な関係を有しているふたつの感情なので,それならなおのこと,希望と恐怖という組み合わせで示すよりも,希望と不安という組み合わせで示す方がよいだろうと僕は考えるconcipereのです。
 スピノザは第四部定理四七で,希望も不安もそれ自体では善bonumではあり得ないといっています。また,第四部定理五四備考では,人間が理性ratioに従うということは稀なので,共同社会状態status civilisにおいては受動感情である希望も不安も害悪より利益utilitasを齎すという意味のことをいっています。これらの例から分かるように,希望と不安はほとんどの場合でセットで言及されるのであり,この観点からも僕は希望と不安というセットで示す方が,希望と恐怖のセットで示すよりいいだろうと思っているのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする