スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
小松島競輪場 で行われた昨晩のウィンチケットミッドナイトの決勝 。並びは新田に松坂,鈴木‐金子‐佐藤の関東,久田‐島川の徳島。
新田,鈴木,島川の3人がスタートを取りにいきました。枠順通り,新田が誘導の後ろに入って前受け。3番手に鈴木,6番手に久田で周回。残り3周のバックを通過した後のコーナーから久田が上昇。残り2周のホームに入って新田を叩きました。鈴木がこのラインに続き,一時的に内の新田と外の新田が島川の後ろで併走。バックに入ってから新田が引き,3番手に鈴木,6番手に新田の一列棒状となって打鐘。バックから新田が発進すると鈴木も合わせて出てさらに番手の島川も発進。鈴木の番手の金子が新田を牽制したので新田は内に進路変更。直線は島川と鈴木,その間を突いた新田と鈴木マークから外を追い込んだ金子の争い。鈴木が制して優勝。新田が4分の3車輪差で2着。金子が4分の1車輪差の3着で島川が半車輪差で4着。
優勝した東京の鈴木竜士選手は2017年のヤンググランプリ 以来のグレードレース2勝目。この開催は全日本選抜競輪に出場しない選手での開催で,そうであれば新田が実績からも脚力からも圧倒的上位で,本来ならば優勝しなければいけないメンバー構成でした。新田のミスはおそらく一時的に併走となってしまったところで,即座に引いておくべきだったでしょう。そのミスを鈴木がうまくついたということだと思います。
『スピノザ 人間の自由の哲学 』に関連する考察はこれが最後になります。これは第一二回の中の感情の模倣imitatio affectuumに関連する部分なのですが,その前に,同じ一二回の中で,吉田が第三部諸感情の定義一三 で示されている感情 affectusに対し,不安 metusという訳語を与えていますので,この点について僕の考え方を改めて説明していきます。
岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,この感情に恐怖metusという訳語を与えています。しかし僕はこのブログの開設時から一貫して,不安という訳語をあててきました。吉田のような有識者が僕と同じ訳語を選択したことは,僕は心強く感じます。
僕がこの感情を不安というのは,この感情が第三部諸感情の定義一二の希望spesの反対感情に該当するからです。希望の反対感情であるなら,それは恐怖といわれるより不安といわれる方が,日本語として適切だろうというのが僕の見解opinioなのです。しかもそれだけではありません。希望と不安は単に反対感情であるというだけでなく,第三部諸感情の定義一三説明 でいわれているように,必ず現実的に存在する同じ人間のうちに,ともに存在する感情なのです。つまりもしもある人間が希望を感じているのであればその人間はその事柄に関して不安も感じているのですし,もしもある人間が何らかの不安を感じているときには,その人間はその事柄に対する希望も抱いているのです。このように希望と不安は,単に反対感情というだけではない特殊な関係を有しているふたつの感情なので,それならなおのこと,希望と恐怖という組み合わせで示すよりも,希望と不安という組み合わせで示す方がよいだろうと僕は考える concipereのです。
スピノザは第四部定理四七 で,希望も不安もそれ自体では善bonumではあり得ないといっています。また,第四部定理五四備考 では,人間が理性 ratioに従うということは稀なので,共同社会状態status civilisにおいては受動感情である希望も不安も害悪より利益utilitasを齎すという意味のことをいっています。これらの例から分かるように,希望と不安はほとんどの場合でセットで言及されるのであり,この観点からも僕は希望と不安というセットで示す方が,希望と恐怖のセットで示すよりいいだろうと思っているのです。
第7回雲取賞 。
キングオブワールドは両サイドの馬から挟まれる発馬で1馬身の不利。すぐにスマイルマンボが先頭に。2番手は1コーナーを出たあたりでシビックドリームとアクナーテンの併走となり,4番手もリコースパローとジャナドリアで併走。3馬身差でケンシレインボー。以下は1馬身差でグランジョルノ,タイセイカレント,ペピタドーロと続き,4馬身差でプレミアムハンド。向正面で巻き返していったキングオブワールドがその直後まで追い上げ,5馬身差の最後尾にオンリーユーズドという隊列に。最初の800mは50秒7のミドルペース。
3コーナーからスマイルマンボ,シビックドリーム,アクナーテンが雁行となり,さらに外からジャナドリア。コーナーワークで直線ではスマイルマンボが一旦は差を広げましたが,外を回ったジャナドリアが追い上げ,残り100m付近でスマイルマンボを差し,そのまま抜け出して優勝。勝ち馬のさらに外から追い上げてきたグランジョルノが1馬身4分の3差で2着。逃げたスマイルマンボが4分の3馬身差で3着。
優勝したジャナドリア はデビューから3連勝で重賞制覇。1勝クラスの勝ち方が強かったので,実績はあるグランジョルノよりも能力は上で,最有力候補ではないかとみていました。末脚が確かな馬ですが,ここはわりと前の位置でレースを進められ,それがより生きる展開に。ダートのクラシック路線を目指すとのことで,有力馬になったといえるでしょうが,速いタイムに対しての裏付けはまだありませんから,速いタイムが出るような馬場状態になったときに対応できるのかという点は未知数です。父は2017年のJRA賞 で最優秀ダートホースに選出されたゴールドドリーム でその父がゴールドアリュール 。11歳上の半姉が2014年に関東オークス を勝ったエスメラルディーナ 。Janadriyahはサウジアラビアの祭典。
今年からSPAT4のPOGはJRA所属馬も指名できるようになりました。ジャナドリアは僕の指名馬です。指名馬に対する評価である点に留意してください。
騎乗したクリストフ・ルメール騎手と管理している武井亮調教師は雲取賞初制覇。
表現として個物 res singularisを産出しないような神Deusは存在しません。一方で神なしには,第一部定理二五系 でいわれているような神を表現するexprimuntur表現者としての個物Res particularesはあることも考える concipereこともできません。つまりスピノザの哲学においては表現を介在して神と個物は表裏一体の関係にあると吉田は指摘しています。この指摘も,ドゥルーズGille Deleuzeと一致しています。そしてこのように解するときに重要なのは,この表現のイニシアチブがどちらかにあるというわけではないということです。再び画家の例を用いれば,画家は絵画を描かずにはいられないのですから,描くという表現においてイニシアチブを握っているとはいえません。しかし画家が描かなければ絵画は存在し得ないのですから,絵画がイニシアチブを握っているとはいえないでしょう。これと同じように,神は自身の力potentiaを表現しないことはできないのですから,この表現においてはイニシアチブを握っているわけではありません。しかし神が力を表現しなければ個物は存在し得ませんから,個物がイニシアチブを握っているともいえないのです。
よって神と個物の関係は,表現を介して,同時発生的でかつ同源的な関係にあると考えなければなりません。したがって,スピノザの哲学において世界の存在existentiaというのは,神と個物の関係を創造主creaturaと被造物creatorとみた場合に示されたような,どこか余計な存在ではありません。むしろ世界のうちにあるありとあらゆる個物は,そしてその個物の総体としての世界というのは,その本性essentiaに存在が含まれているもの,第一部定義一 における自己原因causam suiではないものの,たとえばライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibnizがそういうような神の善意とか,あるいはデカルト René Descartesがそういうような神の自由意志voluntas liberaといったようなものでたまたま,そういってよければ気まぐれに存在しているというわけでもないのであって,個物モードの神として,神自身の力によって必然的にnecessario存在しているのです。つまりスピノザの哲学における世界というのは,神による被造物などではありません。むしろそれは世界モードの神,書簡六十四 でスピノザ自身が示しているような,間接無限モードとしての神そのものなのです。
この部分の考察はこれで終了とします。
15日と16日に摂津峡花の里温泉で指された第74期王将戦 七番勝負第四局。
藤井聡太王将の先手で角換わり相腰掛銀 。後手の永瀬拓矢九段が序盤の段階で新手を出し,中盤以降は先手が駒損で攻める展開。先手の攻めが繋がるかどうかが勝敗の最大のポイントとなりました。
ここで先手は☗3四銀 と打っていきました。☖3三歩と打たれれば☗2五銀と逃げるわけにはいかないでしょうから,思い切った一手。
☗5三香☖6二金☗4二銀☖3二玉☗5一銀不成☖4一香 ☗4二歩成☖同香☗4三歩と攻めを続けました。
ここで☖同香だと先手の攻めが繋がるのですが,☖5一飛と銀を取るのが絶妙の受け。これで☖6九銀と反撃する手が生じたため後手の勝ちになりました。上図以降の手順の中で,先手に誤算があったということでしょう。上図では☗4六香ないしは☗4七香と指すのがよく,それは先手に分がある戦いだったようです。
永瀬九段が勝って 1勝3敗。第五局は来月8日と9日に指される予定です。
神 Deusが個物 res singularisを現実的に存在させざるを得ないのは,そこに神の思惟作用が介在するからではありません。神は自己原因 causa suiですから,第一部定理一 にあるように,その本性essentiaに存在existentiamが含まれています。これは,存在する力 potentiaを本性に含んでいると読み替えることができます。実際にスピノザは第一部定理三四 で,神の力と神の本性を等置しています。そしてこの力が現実的に表現されるときは,個物が現実的に存在するという様式で表現されることになるのです。つまり画家が絵画を表現しないわけにはいかないというのと同じ意味で,神は個物を現実的に存在させないわけにはいかないのです。他面からいえば,第一部定理一六 にあるように,神は無限に多くのinfinita仕方で無限に多くのものを生じさせないわけにはいかないのです。
表現という観点からさらに注意を促しておけば,画家は絵画を描かないわけにはいかないとしても,物理的な面から描くことができなくなってしまうということはあり得ます。たとえば事故で腕をケガしてしまい,物理的に描くことができなくなるということはあり得るからです。しかし神にはそのような障害が生じることはありません。いい換えれば,画家には表現を阻害するような外的原因が発生する場合を否定するnegareことはできないのですが,神の場合はその表現を阻害するような外的原因が発生するということを考えなくてよいのであって,この表現が中断されるとか停止されるといったことを考えるconcipere必要はないのです。したがって存在する力の源泉としての神は,永遠aeternumから永遠にわたって表現するexprimereのであって,個物という様態modi,吉田の表現に倣えば個物モードの神を永遠から永遠にわたって表現するということになり,それは何らかの思惟作用によって表現する,つまり表現してもいいししなくてもいいが表現するとか,表現することもできるし表現しないこともできる中で表現するというわけではなく,表現せざるを得ないというような様式で表現するのです。
ドゥルーズは『スピノザと表現の問題 Spinoza et le problème de l'expression 』の中で,スピノザの哲学における表現という概念notioの特殊性および重要性を説いていますが,この部分の吉田の指摘はそれと同一のものと解してよいでしょう。
日本時間で昨日の夜にカタールのアルウクダ競馬場で開催されたアミールスウォードフェスティバル。日本から2頭が遠征しました。
カタールドゥハーンスプリント芝1200m。エコロジークは隣の馬と接触する発馬。逃げたのですがインの馬が引かなかったので,外から半馬身くらい前に出るという形になりました。直線に入る前にその馬に抜かれると直線に入って下がってしまい9着。どうもレース中に熱中症を発症していたようです。
芝2400mから芝2300mに変更されたアミールトロフィーGⅢ。サトノグランツは終始5番手を追走。最後の直線に入る手前から漸進を開始。ただこのレースは逃げた馬がそのまま逃げ切る競馬。差を詰めましたが2頭に追いつくことができず3着でした。
画家にとって絵画とは,生きていく手段ともいえますが,インスピレーションが湧いたら描かずにはいられないようなものでもあります。画家に限らず一般に芸術家というのはそういうものであって,小説家は小説を書かずにはいられないですし彫刻家は石を彫らずにはいられないのです。スピノザの哲学でいう表現はこのような表現のことをいうのであって,してもいいししなくともいいことなどではありませんし,することもできるししないこともできるというようなことでもありません。あえてこの種のいい方をするなら,せずにはいられないようなことなのであり,それを吉田は切実とかのっぴきならないといういい方で表しているのです。
もしも画家が描かずにはいられないのだとしたら,確かに画家が絵画を表現しているといえるのですが,そうせざるを得ないという意味でいえば,表現させられているといういい方も可能でしょう。この場合,画家が絵画を描くのですから,表現しているのが画家で表現されているのが絵画,その絵画が何かを対象objectumとしたものであればその対象ということになるのですが,その表現行為自体の主導権が画家の側にあるとは断定できません。画家は表現せずにはいられないのですから,主導権自体はむしろ絵画の方にあるという見方も可能でしょう。吉田がのっぴきならないといっていることの具体的な内容は,このようなことを指していると解してください。
この画家と絵画の関係が,スピノザの哲学における神Deusと個物res singularisの関係,これはもちろん個物が一定の仕方で神の属性attributumを表現するexprimereといわれるときの関係ですが,その関係に類似するというのがここで吉田が絵画の例をもち出している主旨です。画家は絵画を描かずにはいられません。これと同じように,神は個物を存在させずにはいられないのです。ただし僕から注意してほしいのは,画家が描かざるを得ないということのうちに,画家の思惟作用を見出すことができるということを否定しませんが,そのようにみてはいけないということです。むしろ画家はこの場合は必然的にnecessario描くのです。逆に画家に思惟作用をみるのであれば,神はそのような思惟作用を有するわけではありません。
静岡記念の決勝 。並びは新山に浅井,真杉‐坂井の栃木,深谷‐岩本の南関東,嘉永‐荒井の九州で河端は単騎。
深谷がスタートを取って前受け。3番手に真杉,5番手に嘉永,7番手に新山,最後尾に河端で周回。残り3周のバックを出たコーナーから新山が上昇を開始すると,嘉永が合わせるように出ていきました。ホームで深谷を叩いたのは嘉永。バックに戻ってから新山がさらに嘉永を叩いて打鐘。後方になった真杉がすぐさま発進。新山との先行争いになるとみたか坂井は真杉に続かず下りて浅井の後ろに。先行争いは真杉が制し,浅井はスイッチせずに新山を迎え入れたので真杉の後ろが新山に。坂井がバックから再び追い上げていきましたが,その外から深谷が捲り一閃。直線に入るところでは前を捲り切って先頭に立ち優勝。マークの岩本が半車身差の2着に続いて南関東のワンツー。新山が上昇するときに続かず,後ろに控えて深谷の捲りに乗る形になった河端が1車身半差で3着。
優勝した静岡の深谷知広選手は10月の熊本記念 以来の優勝で記念競輪22勝目。静岡記念は初優勝。このレースはだれが先行するのかを予想するのも難しいメンバー構成で,展開次第でだれにでもチャンスがありそうなレースだと思っていました。新山の先行は最も考えられる展開だったのですが,真杉が早い段階で発進したので先行争いになり,後方で足を溜めた深谷が有利になりました。河端もこのラインを追っていたと考えればラインでの上位独占ですから,前にいた選手に厳しいレースだったということがよく分かると思います。
第一部定義六 により,神Deumは絶対に無限absolute infinitumです。神が絶対に無限であるためには,ある属性attributisは備えていても別の属性は備えていないというわけにはいきません。そうではなく,無限に多くのinfinitis属性を備えていなければならないのです。第一部定義六の前半部分と後半部分は,こうした条件によって接続されていることになります。
とはいえ現実的に存在する人間が認識するcognoscereことができる属性は思惟cogitatuonesと延長Extensioのふたつなので,第一部定理二五系 はこの観点から記述されていると解しておくのがよいでしょう。もちろんこの系Corollariumは,僕たちにとって未知の属性の個物Res particularesに対しても妥当するのは間違いないと僕は考えますが,僕たちが延長と思惟のふたつの属性しか認識することができない以上,僕たちが認識できる個物は延長の属性Extensionis attributumの個物である物体corpusか,思惟の属性Cogitationis attributumの個物である物体の観念ideaのどちらかであることになるからです。よって再びこの系に注目すれば,物体は延長の属性によってみられる神を一定の仕方で表現するexprimuntur様態modiであることになりますし,物体の観念は,思惟の属性によってみられる神を一定の仕方で表現する様態であるということになります。
この文脈で重要なのは,表現という点にあると吉田は指摘しています。ただしここでは注意が必要で,日本語で表現というと,することもできるししないこともできるのにときに強制されるものとか,してもよいししなくてもよいのだけれどもときに強制されることといったニュアンスを帯びるかもしれません。たとえば美術の授業で絵画によって風景を表現せよといわれるなら,確かにそれは強制されているといえますし,しかしそのこと自体が授業でないならば,することもできるししないこともできることであり,してもいいししなくてもいいことであるといえるでしょう。
しかしスピノザの哲学でいわれる表現というのはそういうことを意味するのではなくて,もっと切実なことです。吉田のいい方を借りれば,のっぴきならないものなのです。絵画の表現でたとえれば,それは描くという形で表現せずにはいられないようなことなのであり,描くということに固執するperseverareようなことなのです。つまり画家にとっての絵画なのです。
『証言 羽生世代』は講談社現代新書から2020年12月20日に発売されたもので,著者は将棋記者の大川慎太郎。大川は『不屈の棋士 』を出版した後に,講談社の担当者から羽生世代を中心とした本の提案を受けていました。2018年の竜王戦に羽生が敗れたとき,この機会に棋士たちの証言を集めておいた方がよいと大川も思い,講談社のPR誌である『本』の2019年8月号から連載を開始。その後の情勢の変化,というのは主に藤井聡太の活躍ですが,そうしたことのために大川が書いた部分には修正があるとのことですが,ほとんどの部分は騎士へのインタビューになっていますから,内容に変更はないとしてよいでしょう。
大川が棋士へのアポイントメントを取り始めたのは2019年4月になってから。16人の棋士がインタビューに答えていますが,これはすべて大川がオファーを出した棋士だとみられます。このうち羽生善治へのインタビューだけはオンラインで行われ,他の15人は対面でのインタビューです。
大川が選出した16人は,まず先行世代として谷川浩司,島朗,森下卓,室岡克彦の4人,同世代として藤井猛,先崎学,豊川孝弘,飯塚祐紀の4人,後輩として渡辺明,深浦康市,久保利明,佐藤天彦の4人。そして羽生世代の中心となる佐藤康光,郷田真隆,森内俊之,羽生善治の4人で,これは第1章から第4章まで,この順番の記述になっています。
ここでは参考のために,実際にはどういう順番でインタビューが行われたかを示しておきます。
最初にインタビューを受けているのは豊川です。2019年4月上旬となっていますから,大川がアポイントを取り始めてすぐです。5月下旬に藤井と郷田。8月初旬に島,上旬に佐藤康光。10月中旬に渡辺。11月上旬に森内,中旬に森下。2020年に入って2月上旬に谷川,下旬に深浦。6月初旬に室岡と飯塚,下旬に先崎。7月初旬に久保。8月下旬に佐藤天彦。羽生へのインタビューが最後でこれは2020年9月初旬です。
僕の考え方を先回りして説明しましたので,吉田の考察に戻ります。
吉田によれば,属性 attributumは雑多な考え方,それこそ眼鏡属性というようないい方が基本に忠実であるといえるような使われ方をしていたのですが,17世紀に入ってから哲学的に属性の概念notioが純化されました。いうまでもなくこの純化に貢献を果たしたのはデカルト René Descartesです。デカルトはあらゆる精神的実体に備わる本質的な特性として思惟Cogitatioを,そしてあらゆる物体的実体substantia corporeaに本質的に備わる特性として延長Extensioを示し,この思惟と延長だけを属性として認めました。デカルトは基本的に動物のことを,精神mensをもたない自動機械automa spiritualeとみなします。したがって人間以外の動物は延長の属性Extensionis attributumの様態modiということになります。延長というのは空間的な広がりを意味します。たとえばあるネコが年齢とともに色が白っぽくなったとしても,あるいは事故で1本の脚を失ってしまうというようなことがあったとしても,ネコがネコであることに変わりはないのですが,空間的な広がりをもたないネコというのはあり得ません。いい換えれば空間的な広がりを欠いてしまえば,ネコはネコであることはできなくなってしまうでしょう。つまりネコがネコとしてある,ありとあらゆる特性は,空間的な広がりなしにはあることも考えるconcipereこともできないということになります。したがってこの空間的な広がりを意味する延長は属性であるとデカルトはいいました。すなわちネコとは,物体的実体の属性である空間的な広がりが,ネコという形態を帯びているという意味になり,この意味においてネコは物体的実体のあるいは延長の属性の様態であるということに,デカルトの哲学のうちではなるのです。
スピノザは基本的にこの考え方を引き継いでいるといえますが,決定的な相違があります。それは第一部定理一四 にあるように,実在する実体が神 Deusだけであるとスピノザが主張している点です。いい換えれば神以外には実体は存在しないのですから,デカルトが規定しているような精神的実体とか物体的実体といった実体が存在するということは認めません。そして実在する実体が神だけである以上,あらゆる属性は神の本性 essentiaを構成することになります。
『なぜ漱石は終わらないのか 』の第十四章では,それまでの漱石の小説とは異なった愛を巡る言説が『明暗 』にはあるということが論じられています。
それまでの漱石の小説の主人公は,自分自身の実存,アイデンティティを感じられないので,唯一の女から愛されることによって自己自身を安定させようとするのだけれども,その女が自分以外の男を愛しているのではないかという疑いを有することによって不安に陥ります。つまり男の主人公が女を信じられないというのは,女を信じられないというよりは自分自身を信じられないのであって,その自分自身に対する不信感を相手の女に投影しているのだと石原が指摘しています。要するに男は女に愛されれば,正確には女に愛されているという実感をもてれば問題は解決するのであって,そのような本心が男の中にはあるということです。
『明暗』では,この種の役割が主人公である津田ではなく,津田の妻であるお延に与えられているのが,それまでの小説とは異なったところです。お延は「絶対に愛されてみたい」と口にするという点で,男の主人公とは異なり,それは女であったがゆえに小説の中で可能になったという一面はあるかもしれません。ただ,それまで男に担わせていた役割を女に担わせたという点は新しい点です。『明暗』で漱石文学では初めて女が描かれたという評価があるのですが,それは単に漱石がここで,男が担っていた役割を女に担わせたというだけの理由なのかもしれません。
石原はこれとは別の点に注目します。お延は愛されているという実感をもっていないからそのようにいうのですし,津田は津田でお延を愛しているという実感をもっていないのです。これは当時の愛を巡る言説そのもの,この種の愛があれば問題は解決するという言説そのものへの挑戦なのであって,そもそも愛とは何であるのかということを正面から問いかけているのだとみています。それは漱石の小説自体の根底を掘り崩し得るようなインパクトがあるテーマ設定だったと石原は指摘しています。
この訳注の中で畠中は,神の観念 idea Deiは,神に関して現実的に存在する人間が有する観念という意味と,神が自己自身に関して有する観念という意味の二様があるという主旨のことをいっています。畠中は単に二様の意味があるといっているだけで,前者が具体的にどのような観念であり,後者が具体的にどのような観念であるかを説明しているわけではありません。ただ,たとえ僕のようにそれらの観念を分類しているのではないとしても,現実的に存在する人間の知性 intellectusの一部を構成する神の観念と,神の無限知性 intellectus infinitusのうちにある神の観念は,同一の観念ではなく異なった観念であるとみていることは間違いないでしょう。したがって少なくともそれらを別種の観念として峻別するという点では畠中も僕と一致しているのであって,その点に着目する限り,僕の分類が僕に特殊の分類であるわけではないということが分かります。
この訳注についていえば,畠中はこの部分の神の観念は後者の意味,つまり神が自己自身に関して有する観念という意味でなければならないと指摘しているのですが,この指摘の妥当性は僕にはよく分からないところもあります。この部分のスピノザの文章は,神のある属性attributumの絶対的本性の中に有限finitumで定まった存在existentiaが生じると仮定すること,あるいは同じことですが神の属性の絶対的本性の中に持続duratioを有するものが生じることを仮定することの一例として,思惟の属性Cogitationis attributumの絶対的本性の中に神の観念が生じるという仮定で論証Demonstratioを進めているのです。したがって論証の中ではこの神の観念は仮定にすぎないともいえますから,それがどのような観念であるということを問う必要はないし,そもそも問うことができるかという疑問はあり得ます。というのも仮定にすぎないのであれば,何らかの定まった存在を有する観念,持続を有する観念が思惟の属性の絶対的本性のうちに生じるということを具体例として示すことができれば十分なので,これは神の観念でなければならない理由すらあるわけではなく,神以外の何らかの観念であったとしても,論証自体は十分に成立するように思えるからです。なのでこの部分の神の観念に,重要な意味はないかもしれないと僕は思っています。
11日に有楽町朝日ホール で指された第18回朝日杯将棋オープン の決勝。近藤誠也八段と井田明宏五段は公式戦初対局。
振駒で井田五段の先手となり雁木。後手の近藤八段の矢倉という戦型に。中盤は互角の戦いが続きました。
ここで先手は☗5八銀と引きました。これは☖4六銀と打たれたら☗6七玉と逃げようという意図だったと思われますがすかさず☖7六歩と打たれ,一気に苦戦となってしまいました。
☖4六銀を牽制するのであれば☗5八玉と引いて後手玉方面に角を利かす方がよかったですし,この局面は☗7四角から攻め合っても相当にいい勝負であったようです。
近藤八段が勝って優勝。デビューから9年4か月で棋戦初優勝となりました。
このように考察を進めてくると,このことは以前に検討した,スピノザの哲学における神の観念 idea Deiの位置づけということと関連してくるように思われます。
スピノザはシュラー Georg Hermann Schullerに宛てた書簡六十四 において,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態は絶対に無限な知性intellectus,延長の属性Extensionis attributumの直接無限様態は運動motusと静止quiesで,延長の属性の間接無限様態は全宇宙の姿facies totius Universiであるといっています。これは書簡六十三 で,チルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausがシュラーを介して尋ねた質問への解答です。チルンハウスはそこで,両属性の直接無限様態と間接無限様態は何であるかと質問しているのですが,なぜかスピノザは思惟の属性の間接無限様態については解答していません。それがなぜなのかということを,河合徳治は『スピノザ哲学論攷 』の中で検討しています。
河合によれば,思惟の属性の間接無限様態は神の観念なのです。ただしそれは,神のうちにある神の観念なのであって,それを人間は認識するcognoscereことができません。なのでスピノザはそれが何であるかを示すことができなかったのです。
第一部定理二三 によれば,間接無限様態は永遠aeternumかつ無限infinitumでなければなりません。神のうちにある神の観念は確かにこの要件を満たしているといえます。なので現在は僕も河合説に傾いているのですが,このことは今は考慮しないで構いません。それが思惟の属性の間接無限様態であるか否かということを別としても,河合は神のうちには神の観念があって,しかしそれは人間には認識することができない観念であるとみているのは間違いないのであって,この点では基本的に僕と同じ考え方を有しているということになるでしょう。つまり第一部定義六 を余すところなく表現するexprimere十全な観念idea adaequataというのが存在するのであり,しかしそれを人間は認識することができないということは,僕に特有の考え方であるわけではないということになります。
同じような見方は,岩波文庫版の訳者である畠中尚志も有していると僕は考えています。スピノザは第一部定理二一 を証明する中で,ひとつの例として思惟の中に神の観念が生じるという仮定を出しています。そのとき,畠中はこの神の観念の部分に注目するべき訳注を付しているのです。
昨晩の第71回クイーン賞 。ライオットガールが左の後ろ脚の痛みで歩行にバランスを欠いたため出走取消となり7頭。
アンモシエラが逃げてオーサムリザルトが2番手でマーク。2馬身差で行きたがるのを宥めつつフェブランシェが続き1馬身差でテンカジョウ。3馬身差でキャリックアリード。2馬身差でポルラノーチェとドライゼが併走。最初の800mは50秒2のスローペース。
3コーナーを回るとアンモシエラにオーサムリザルトが並びかけていき,その後ろは外にフェブランシェで内からテンカジョウ。直線に入ると前の2頭が後ろとの差をやや広げ,ほどなくして外のオーサムリザルトがアンモシエラを差して先頭。そのまま抜け出して優勝。逃げたアンモシエラが1馬身差で2着。テンカジョウとフェブランシェの外からキャリックアリードが追い込んできて3着争いは3頭。インを回ったテンカジョウが半馬身差の3着。外を追い込んだキャリックアリードがクビ差の4着でフェブランシェが半馬身差で5着。
優勝したオーサムリザルト は,レースへの出走はブリーダーズゴールドカップ 以来。重賞は3連勝でデビューからの連勝も8に伸ばしました。実績ではこの馬よりも上の馬もいたのですが,トップハンデを課せられていたように能力は上位。船橋のような直線が短いコースに出走するのは初めてでしたが,コーナー自体は川崎ほどきつくはないので,難なくこなしました。国内で牝馬戦に出ている限りは当分は勝ち続けることができるのではないかと思いますし,たぶん牡馬が相手でも通用すると思います。
騎乗した武豊騎手 は第48回,50回に続く21年ぶりのクイーン賞3勝目。管理している池江泰寿調教師はクイーン賞初勝利。
僕が主張しているのは,第一部定義六 で示されている神Deum,絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamであり,無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性essentiamを構成されている実体を,余すところなく十全に表現するexprimere観念ideaは存在しないということではありません。スピノザの哲学は平行論,僕は平行論説を採用するのでここでは平行論といいますが,これを同一説と解しても同じ結論になりますが,そうした論理を採用しているがゆえに,一般的にXが形相的有esse formaleとして,いい換えれば知性intellectusの外に存在するのであれば,Xの客観的有esse objectivumすなわちXの観念が存在するということは基本的なテーゼでなければならないと僕は考えますし,逆にXが客観的有すなわち十全な観念idea adaequataとして実在するのであれば,その観念の観念対象ideatumであるXが知性の外に形相的有として存在しなければならないということも同様の基本的テーゼであると考えます。そして第一部定理一一 でいわれているように神は実在します。そしてとくにその第三の証明 は,神が絶対に無限であるということから帰結しています。つまり絶対に無限な実体としての神は存在するのであって,それは単に形相的有として存在するという意味でなく,客観的有としても存在するということでなければならないのです。僕がいっているのは,そうした神の観念が実在するということと,現実的に存在する人間がその観念を十全に認識するcognoscereということは別のことであって,それを混同してはならないのではないかということです。
第二部定理七系 によれば,神の本性から形相的にformaliter生じることは,神の観念Dei ideaから客観的にobjective生じます。したがって,神の無限知性 intellectus infinitus,これは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態に該当しますが,その無限知性のうちに神の観念があるとすれば,その神の観念は第一部定義六で示されている神を余すところなく表現する観念でなければなりません。それは僕たちには認識することができない神の観念であるといわなければならないと僕は考えているわけですが,僕たちには認識することができない類の神の十全な観念が,神のうちには少なくともなければならないと僕は考えます。そしてこのこともまた,僕たちは十全に理解するintelligereことができるというように僕は考えています。
奈良記念の決勝 。並びは佐々木に山崎,道場‐松井‐郡司の南関東,古性‐三谷‐山本の近畿で皿屋は単騎。
郡司がスタートを取って道場の前受け。4番手に古性,7番手に佐々木,最後尾に皿屋で周回。残り3周のホームから佐々木が上昇。バックで道場が突っ張ったので佐々木は引き,追走しなかった皿屋が7番手になり,8番手に佐々木という一列棒状に。残り2周のホームから道場が全力で駆けていきそのまま打鐘。ホームに戻って古性が動いていくと松井が番手捲り。古性が郡司の外での競りとなりましたが,どうも郡司が下がってきた道場と接触し車体が故障したようで内をずるずると後退してしまい,松井の後ろに古性。直線に入ってから古性が差を詰めにいき,接戦にはなったものの届かず,優勝は松井。マークとなった古性が8分の1車輪差で2着。古性マークの三谷が1車身差で3着。
優勝した神奈川の松井宏佑選手は昨年9月の熊本のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2021年の小田原記念 以来となる3勝目。奈良記念は初優勝。このレースは南関東勢の二段駆けが有力で,すんなりそうした展開になってしまえば松井と郡司の優勝争いになるでしょうから,古性がそうはさせまいと分断策に出るだろうと予想していました。僕は古性が前受けして道場が押さえにきたところで松井のところに飛びつくような展開を想定していたのですが,スタートを郡司に譲るような形で南関東の前受けになりましたので,松井は競られにくくなりました。郡司と古性の競りになったのは展開によるものですが,競りは競輪の醍醐味のひとつではあり,郡司と古性のように力がある選手同士だとなおさらなので,車体故障であっさりと決着がついてしまったのは残念な気がします。直線が短いとはいえ楽に古性にマークされることになりましたので,それを振り切った松井は称えてもよいでしょう。
同様のことは共通概念 notiones communesを通しての認識 cognitioについての場合にも当て嵌まると僕は考えています。
第二部定理三八系 でいわれているように,僕たちの精神 mensのうちにはいくつかの共通概念があるのですが,この系Corollariumの証明Demonstratioの様式からすれば,僕たちの精神のうちには,少なくとも延長の属性Extensionis attributumの十全な観念idea adaequataがあるということが帰結しなければならないと僕は考えています。このことについてはかつて検討しましたので,ここでは詳細は省きます。そしてこの延長の属性は神Deusの本性essentiaを構成する属性なのですから,これは神を十全に認識するcognoscereということと同じことであると僕は考えています。したがってこの観点からも,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちには,神の十全な観念が必然的にnecessarioあるということが出てくるという見解opinioを僕は有しているのです。
しかしこの観念が,第一部定義六 でいわれている神の観念を余すところなく表現しているかといえば,ぼくはそのようには考えません。これもまた延長の属性によって説明される限りでの神の十全な観念が僕たちの知性 intellectusのうちにあるということを意味するのであって,絶対に無限な実体substantiaとしての神,無限に多くのinfinita属性によってその本性を構成される限りでの神の十全な観念が僕たちの精神のうちにあるという意味にはならないと僕は考えるconcipereのです。
何度もいうように,神が絶対に無限な実体であるということ,神の本性が無限に多くの属性によって本性を構成されていなければならないということについては,僕たちは十全に理解するintelligereということを僕は認めます。しかし僕たちの知性のうちにある神の十全な観念は,僕たちがそのように理解している神の観念であるというわけではなく,延長の属性によって説明される限りでの神の観念であるか,そうでなければ延長の属性に対応する思惟の属性Cogitationis attributumによって説明される限りでの神の観念だと僕は考えるということです。そしてここのところを同一視すること,僕の立場からいわせれば混同することには,僕は疑義を有します。つまり僕たちが神を十全に認識するからといって,第一部定義六で定義されている神を余すところなく十全に認識しているということにはならないと僕は考えているのです。